三十三間堂こと蓮華王院は平清盛が後白河上皇の為に建てたお堂で中に安置される千一躰もの千手観音さまと共に院にプレゼントされたものです。
実は清盛の父・忠盛も鳥羽上皇に三十三間堂をプレゼントしているのです。
場所は六勝寺があった一角、岡崎疏水と東大路通が交わる少し東側にある"徳成橋"の東側です。
平安時代末期の数年間、三十三間堂がふたつ存在していた事になります。
今は石碑が残るのみです。
この事をきっかけに忠盛の地位が上がり武士として初めて殿上人になっています。
しかし、元暦2年(1185)の大地震により倒壊してしまい、その後も再建される事は有りませんでした。
話は蓮華王院に戻ります。
長慶2年(1164)に完成していますが約80年後に火災で焼失してしまいます。
ただちに再掲に着手され文永3年(1266)に再建工事が完了しています。
前回の火災の際、124躰の観音さまが救い出され、今も"創建佛"の札がつけられお祀りされています。
外観は柱と柱の間が35ありますが、両端の一間は仏像を安置する須弥壇がないので数えないそうです。
お堂の中は壮観です。
中央の中尊の左右にはそれぞれ500躰の千手観音さまが整然と並ばれ、両端にはそれぞれ風神像と雷神像が、その間には二十八部衆の仏像が安置されています。
これらの仏像の全てが国宝指定されています。
文書類の国宝を除けば、ここ蓮華王院が最も多くの国宝仏を有する寺院です。
境内には「法住寺跡」の石碑があるように、この辺り一帯は後白河上皇(法皇)の院庁が置かれた政治の中心地でした。
三十三間堂の東側には後白河院の御陵があり、三十三間堂の諸仏は院の御陵に向かっている事になります。
駒札にある様に三十三間堂の南門は方広寺大仏殿の南大門でそれに続く塀は「太閤塀」と呼ばれています。
有名な「通し矢」は毎年1月中旬に行われる弓の競技でお堂の西側軒下で南から北へ向けて矢を射通す競技で京都の正月の風物詩にもなっています。
(堂内の写真は購入した絵葉書から転載させて頂きました。)