月に何度となく通っている京都アスニーで「周山城址を熱く語る」のリーフレットを見つけ、電話で参加をお願いしました。
ところが、緊急事態宣言の中でもあり、しかも"地元の人達に周山城址を知ってもらうのが主旨"との事でした。
事情が許せば周山城址登城会と講演会の両方に参加させて欲しい旨をお伝えしていました。
10月からは宣言も明け、主催者の方から"参加可"の連絡を頂きました。
周山城址への登城会は当初は30名の予定でしたが約50名の方が登城会に参加されました。
14時から講演をされる中井先生も一緒に登られました。
地元の方がガイドをされ、途中、見所やビューポイントを説明されました。
約1時間で標高480mの山頂にある本丸に着きますが、途中にも石垣の跡や石切場が随所に点在しています。
石はこの山から産出されるチャートです。
山城に使われる石材は現地調達が原則で遠くから搬入することは無いそうです。
最近ではレーザー光線による赤色立体図の作成が容易になり、多くの山城の構造が明らかになってきています。

周山城は若狭より京都への周山街道の抑えとして、天正7年(1579)に明智光秀により築城されました。
近世織豊期の城郭研究の第一人者で今年3月に滋賀県立大学の教授を退官されました。
日頃カルチャーでお世話になっている先生です。
本丸跡には天守台が残り、安土城天守台と同様に地下に穴蔵があり入口が3カ所ある特異な構造をしています。
中井先生の解説では三層の天守閣が建っていたようです。周囲からは瓦片も発見されていて天守は瓦葺きだったようです。
堺の豪商で茶人でもある津田宗及の日記「津田宗及茶湯日記」の中には天正9年(1581)8月に明智光秀に茶会に招かれたことが書かれているので少なくとも天正9年には城は完成していたと思われます。
中世までの山城は土の土塁の城でしたが、織田信長、豊臣秀吉の織豊期には石垣で縄張りをしているのが特徴で、この周山城は、その過渡期に築城された城址です。
中井先生は、地元の人達しか知られていなかった周山城址を40年前から踏査され独自の「縄張図」を発表されています。
当時、一歩を約1mとして実測で計測されたそうです。現代の"伊能忠敬"ですね。
主郭の西側には3段の石垣と虎口(こぐち)が保存状態も良く残っています。
虎口には横矢がかかり防御機能も考慮された要塞になっています。
やがて豊臣の世となり丹波地方の拠点が亀山城に移り、役目を終えた周山城は破城(城割り)になり、石垣の一部は崩されていますが、石垣の城と土の城とが同居とが同居していて、当時の姿を留めている唯一の城址です。
明智光秀が築いた坂本城、福知山城、黒井城、亀山城などは、その痕跡を地上に一切残されていない事を考えると、周山城跡の石垣が残っているのは奇跡的な事です。
道の駅「ウッディ京北」で昼食を取り、14時からの講演までの時間を使い常照皇寺を訪ねます。