蒲田耕二の発言

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ジュリエット・グレコ

2020-09-26 | 文化

10年ほど前だったか、"ホームレス歌人" が話題になったことがある。朝日の投稿歌壇に「ホームレス・公田耕一」と名乗る歌人が彗星のように現れ、数か月後、ふっつりと消息を絶った。関係者が行方を追ったが、ついに判明しなかったらしい。その謎の歌人作に、次の一首があった。

「美しき星空の下眠りゆくグレコの唄を聴くは幻」

1950年代までの日本で、シャンソンはある程度、洗練された趣味と知性の音楽を意味した。日本の歌謡曲やアメリカン・ポピュラーの対極で語られる音楽だった。そのこと自体には是非を論ずべき余地があるが、いまは措く。

ともかく、かつての日本でシャンソンは知識人、教養人の聴く音楽であり、その知的な音楽を代表する歌手がジュリエット・グレコだった。グレコを愛する教養人が住まいを失い、漂泊する空想のドラマを人々はホームレス歌人の歌に見た。

グレコの名前には、それほども一つの時代を象徴し、一つの文化を想起させる力があった。エディット・ピアフやイヴ・モンタンでは、そうは行かない。

グレコがそうした特別の存在になったのは、第2次大戦後、日本人が徐々に希望を取り戻しつつあった時期に出現した巡り合わせと共に、自我を貫いた独特の生き方のおかげと見ても間違いではないだろう。

戦後パリの新風俗の聖地だった1950年代のサンジェルマンデプレで、グレコが物見高いブルジョワの見物人と立ち回りを演じるニュースは、外国の事象に旺盛な好奇心を燃やしていた当時の日本にも盛んに伝えられた。それを通じて旧体制と異なる新しい文化、新しいモラルのシンボルというイメージがグレコに形作られていった。戦後の新しいシャンソンを代表する歌手は、日本人にとってグレコ以外になかった。

しかしフランスでは、彼女は長いあいだ異端の歌手だった。

セーヌ左岸に立てこもって中産階級とその伝統的価値観に牙を剥くグレコは、当然のことに悪名高い存在となった。無名時代のマイルス・デイヴィスとの恋愛が、悪評に拍車を掛けた。異人種と恋愛するグレコは、敬虔なカトリック教徒のフランス人にとって道徳と秩序を破壊する淫乱女以外の何者でもなかった。

悪名は海外まで轟き、53年にグレコがリオデジャネイロにツアーしたときはステージ上で全裸になるとのデマが飛んだ。公演は連日押すな押すなの盛況になった。

一方、フランス文化はなんでも肯定の日本では、グレコの真似をしてアフリカ人とカップルになることがパリの先端的な若い女性のあいだでファッションになっている、などというニュースが一種の羨望をもって伝えられた。グレコの人気、というより崇拝に翳りが出ることはなかった。

グレコは決してうまい歌手ではなかった。リズムの乗りは重く、表情はキメが粗く、歌い振りはぶっきらぼうだった。ファンはそのヘタな歌を媚びのない清潔な表現と讃えたが、それはまあヒイキの引き倒しというものだった。サルトルは彼女のファースト・アルバムに「グレコの喉には幾百万の詩がある、まだ書かれていない幾百万の詩が Gréco a des millions dans la gorge : des millions de poèmes qui ne sont pas encore écrits」との苦しい賛辞を寄せた。要するに未完成の歌だということだ。
1952年のファースト・アルバム
ただ、その粗っぽい歌にダイヤの原石のような無垢の輝きがあったことも否定できない。強い精神力に裏打ちされた生き方のもたらす輝きだった。

2016年に最後の日本公演を行ったとき、当時89歳のグレコは足取りもおぼつかないほど体力が衰えていたが、1時間あまりにわたって直立不動の姿勢で吠え続けた。それは歌というより、信条の叫びだった。グレコの精神性がステージ上に屹立していた。

彼女の影響がいかに大きかったかは、いわゆる "日本のシャンソン歌手" たちがほとんど軒並みぶっきらぼうな歌い方をすることからもうかがえる。ただし、彼女らの歌はグレコの精神性を欠いているので、ただヘタなだけである。

グレコ自身も1966年発表の『La Femme』でピークに達したあと突如スランプに陥り、坂道を転がるように歌手としての輝きを失っていった。不調を力ずくで克服しようと力み返り、ますます傷を広げた。以後、亡くなるまで本当の意味で復調したことはない。

だが1960年代前半の、もっともよかった時期の彼女は時として歌の神が憑依したかのような、異様なほどの魅力を発揮した。そのころ録音された下記3アルバムは、永遠に輝きを失うことがないだろう。特にマコルラン・アルバムに収録された「天佑のジャン」は、客観的な表現の中にそこはかとなく滲むノスタルジーが無類に美しい。
"Gréco chante Mac Orlan" (B77.933L)
詩人マコルランの詩による歌を集めたコンピレーション。61年から63年にかけてバラバラに録音された。ここにはフランス盤のモノラルLPを掲示したが、フォルテでの歪みが激しく、63年に日本で発売されたステレオ盤の方がずっと聴きやすい。なお、このアルバムがLP時代にステレオで発売されたのは日本だけで、フランス盤はCD化されるまでモノラルのみだった。
"Juliette Gréco à Bobino" (840.587PY)
1964年のコンサート・ライヴ。なぜか、今日までCD化されていない。03年に出た20枚組のCDボックスからも除外された。
"La Femme" (844.702BY)
ジャケットに見られるとおり、禁欲的哲学的な "実存主義のミューズ" から大きくイメチェンしたグレコ。日本でも発売されたが、収録曲はかなり異なる。フランスでグレコの代表的なヒットに挙げられる「私の服を脱がせて」が日本盤ではカットされた。音楽的には大して面白くない曲だから無理もないが。

10年前の映画『ゲンスブールと女たち』は、女性蔑視の傾向があったガンズブールの視点を採っていたから出てくる女たちは概して冷笑的に描かれていたが、グレコだけは別格扱いだった。

1960年ごろ、まだ無名だったガンズブールは作品を歌ってもらおうとグレコを訪ねる。緊張しきっていた新人ミュージシャンは居間で待つあいだ、飾り棚にあった高価そうなグラスを手に取り、そそっかしく取り落としてしまう。あわてて破片を拾い集める彼のそばに、いつの間にかグレコが現れて不思議そうな顔で彼を見下ろしている。黒いドレスをまとったその足は、裸足である。

グレコの個性的な在り方、そういう彼女にフランス人が払う敬意が端的に暗示されたシーンだった。

グレコは好調だったときよりも不調だった時期の方がはるかに長い。それでもなお彼女は、その誰にも真似の出来なかった生き方によってフランス文化に不朽の刻印を残し、そして去った。

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