みんなで、大勢で食べるとおいしいって、よく言われるけれど、そうかしら。
食べるという本能作業は、セックスと同じで、大勢で、しかも男女入り乱れての食事風景
なんて、乱交の何ものでもないって思えるわ。本能は、本能だし、誰でももっているもの
だから、本能の赴くままにして何が悪い。って言われれば、まあそうかも知れないとは思
うけれど、本能だからって、公衆の面前で、あられもないスタイルで、あっちでも、こっ
ちでもセックスが展開されたら、法律に触れるわね。その前に、本能だからこそ、すこう
し遠慮気味に、あまりハッキリさせないで、「今、食べているらしい」とか「この人いつ、
誰とセックスするのかなあ」って思わせる側面を持たせるのが、本能との、うまい付き合
い方と思うのよ。本能剥き出しって、美しくない。だから、食事をするという行為にたい
して、作法という衣を着せるようになったのでしょう。
美意識の強弱や、何に美しさを感じるか、はたまた美しいということに全く鈍感か、重き
を置いていないなどで、食事のとらえ方も大きく変わってくる。セックスも、劣情刺激否
芸術と、昭和の時代は本能を題材に、やかましい時代でもあったわね。本能に関すること
を取上げるのは、取上げる個人の教養と、人に対しての優しいまなざしを持っているか否
かに大きく左右されると思われるから、いつもなんとなくうやむやになってしまってるの
でしょう。
繊細さをこよなく愛した日本人は、目で食べさせると言われるように、美しい食器に
色とりどりの、調理された食材をチマチマと盛り付けた。(ペリーが浦賀沖に来て、そ
の後の日本との交渉の場で出された食事の量に、アメリカ人がのけぞるほど少ないと感
じたらしい和食だけど)室町時代に作法が誕生。小笠原流の作法が今に伝わる。(伝わっ
ているか疑問だけど)舐め箸、渡り端、迷い端など、ご法度の動作が、きめこまかく決
められ、その一連の動作が身につけば、ものを食べるという本能行為も、作法の美しさ
の衣の下で昇華される。
お箸を持つようになれば、美しく食べることを教えたいもの。
お行儀もへったくれもない、たーだ食べるという人達と、一緒に食事をするのは、苦行
を強いられるようで、なるべく遠慮するようにしている。ごくごく親しい間柄の人と、
静かに、スキャンダラスな話題は避け、そして「ウチのパパが」とか「ウチの何々ちゃん
が」とか「私って、○○っていう人でしょ」とか
もう、食材による蕁麻疹じゃない蕁麻疹ものの会話しかできない女達との食事も、いま
やパス。そして、せいぜいウン千円の料理、あるいはそれ以下の支払い額の料理に対し
て、文句たらたら。どうしてこう文句が次々と出てくるのかしら、女は。
ちょっと気を利かしてこまめに歩いてみれば、ほぼ世界中の食材が手に入る時代。新
聞・テレビ・雑誌・専門書と、数え上げればきりがないほど提供される料理情報。外で
ぱたぱた七輪、なんて時代じゃない。ピッポッパッでなんでも、ほぼオールマイティに
調理できる電子レンジ。これが殺人用の戦争武器が元だったなんて、信じられない電化
製品だけど。システムキッチンでお料理したい!だって、餌(ファーストフード)を喜
んで食べる人が。
調味料も、スーパーに今や勢揃い。ただ、みんな持っているけれど、使い方を習得し
ているかどうか、大きく乖離しているもの。それは「前頭葉の活用頻度」。
お料理は、創造・創作活動。
これとこれを混ぜると、こういう風な味になるから、これはやめて、こっちのこれを入
れてみよう。色合いも、これだけじゃ釣り合いが取れないから、これをちょっと入れて。
みたいな想像と、出来上がり図形と味のマッチングが料理。銀シャリ(これも死語?)
の白米は、定位置にドーンとおわします。そこにおかずの配色に白がハバを効かすと、
もう食欲がガクッと落ちて、
「さっきまですごくおなかすいてたのに、もうどうでもよくなっちゃった」状態になる。
病院の壁を真っ白にすると、情緒不安定になるって。だから、病院の食事に使う食器が
、みんな白く、その中に、ご飯・豆腐・白菜なんかが大きな顔してたら
「食べなくていい」って、言われてるようなものなのよ。
「もっと食べなきゃダメよ」って、看護士が心配しても、裏方で食欲を落とす工作をし
てるのに、何言ってるんだって、思うわ。大病患って長期間入院の私の経験からいって
も、これはまぎれもない事実。
想像と創造は緊密な仲。これは前頭葉の活動が大きくモノをいう。だから、色・形・
味を想像することが、とりもなおさず脳味噌を刺激してることになるのよ。すると、す
ぐ女たちは
「おいしい食事に連れてってくれないから、味がわかんないじゃない」って。
わが友人のご母堂は90歳近くになっても、お台所の現役。私にしてもまあそれなり
に人を長くやってれば、外で食事をする機会もあったし、これからもあるとは思うけ
れど、今までにその母君が作られるお料理の上をいくものに遭ったことがない。
「ずるいわねえ、これだけ腕のいいコックを、一家族だけで独占しちゃって」って、友
人に毒づいたもの。
「お母様はよく外食なさったんでしょう」って言えば、
「母が外出することって、法事とか、よほどの用事があるときだけよ。それに外食はし
ないのよ」と友人は言う。
「新聞やテレビの料理番組なんかで、新しい料理を仕込むみたいよ」ですって。
まさにこれ。前頭葉がフル活動してるってことね。長年の技術に新しい知識を加え、創
意工夫を重ねられる。頭も舌も、衰えるどころか、益々磨きがかかる。その意欲と月日
の重みは、
「どこそこのイタリアンがおいしかったわ」
「和食はやっぱり、何々よねえ」
「あのホテルのフランス料理は逸品ね」
なんていう、日々脳味噌の手入れを怠ってる女たちには、到底理解できないものがある。
煮豆一つ、漬物一つ、納得できるまで挑戦しない女達が、
「どこそこの、なになにが」なんて、
チャンチャラおかしい台詞を吐いてくれるなって思うのよ。
四季の食材を使って、季節の料理を作る。これが基本でしょう。
「落語」のみかん話じゃあるまいに、なんで冬にきゅうり、夏にほうれん草を食べなき
ゃならない。季節はずれのものを食べるって、一つのステータスなのかしら。まあ、今
じゃ夏のみかんも、冬のスイカやメロンも、かなりメジャーになってきたから、有難み
も大してないでしょうけれど、横一線が大好きな国民なのに、そのへんのつまらないと
ころで見栄を張って、優位を保とうとする。なんだか悲しいわね。
季節、季節の食材は、その季節の太陽・雨・風などを浴び、充分な栄養価を含むけれ
ど、人工的な調節をして、無理して育てられた野菜たちは、栄養価も低いし、腐りやす
いのよ。冬のきゅうり、夏のほうれん草、両方とも冷蔵庫の中で、すぐグニュグニュに
なって腐る。バイオの技術がもっと発達して、組換え遺伝子の大豆ように(害がある、
ないで未だに大もめだけど)、腐りにくい野菜も、遅かれ早かれ登場してくるでしょう
が果してそれが幸せなのか、大いなる疑問ね。
ただ、普通の人のすることには限界があるし、当然味覚音痴の人がいるのも事実だと
は思うけれど、風潮として、お手軽方向へ行ってしまってるような感じがするのは否め
ないわね。挑戦する前に、方向転換しちゃって、自分自身に色んな場、チャンスを提供
しないということが問題だし、もったいないと思う。
私の知人が
「努力はセンスに追いつかない」って言ったのに
「なるほどねえ、車の運転もセンスが大きくモノを言いますって、レーサーが普通の人
の運転技術についてテレビで言ってたけど、すべからくみんなそうなのね。私は未だに
縦列駐車の免許もらってないんじゃないかって思うくらい、下手だから、これも運転に
関してのセンスがないってことなんだわね」って、妙に納得した私だったけれど、そん
なこと言ったら、
「ハイ、あなたはセンスがないから諦めましょう」になって、
「どうせ私はできないのよ」と、
努力の前に挑戦する意欲を捨てかねないから、
「玉、磨かざれば光なし。だから磨きましょう」に
したいものだわね。
どこでどう目覚めるかわからないから。「四十の手習い」って、可能性のことを言って
るのでしょう。そして、これだけは、というものをモノにする努力は惜しまない。
お料理で言うなら、煮物なら、自信あり。揚げ物ならプロ級、漬物なら先祖代々の味を
習得、なんて。これは財産なんです。絶対に泥棒にとられない財産。
知識と技術は、終生その人だけのものだから、生きていくための大いなる武器になるの
は自明の理だわね。
けれども、日々、食事にありつけることに、私は心から感謝してるわ。今年の自然の猛
威、そして被害に遭われた方々の心痛いかばかりかと思うけれど、今のところ私自身が自
然の脅威に脅かされることなく、戦争に巻き込まれることもなく、今日も今日の糧に、
ありつけた幸せを、時折立ち止まって、当たり前と、何の疑問も持たず、考えたことすら
ない日々の営みを、特に生きていられることを、じっくり考えて、振り返ってみるのよ。
冬ならば、暖房の効いた暖かい部屋で、季節の野菜がふんだんに入った鍋料理をいただ
く。家族が揃うと、一番のあったか料理だわね。そんな時、
「もう、いやだ。俺この会社辞めたい」
とか
「もしかして、会社が倒産したらどうしよう」
なんて思いながら働いているかもしれない一家の主に、
「毎日、本当にご苦労様。こうやって食べられるのも、あなたの(お父さんの)お陰よ」
と声に出して、そう、声に出さなきゃいけないのよ。以心伝心なんて、ありえないと思っ
て。
「今更、そんなこと恥ずかしくて言えない」
とか
「家族を養うのは当たり前じゃない」
とか
「現実、戦争も自然災害もないんだから、なんでこの人に」
なんて、言わないで。
大体、熱しやすく冷めやすいのが私たち日本人。喉元過ぎれば熱さを忘れる。そう、嫌
なことは早く忘れた方がいいと思うけれど、大事なことは、反芻しなくては。
声に出さなかったが故に、誤解が生じたり、失望したりになりやすい人の関わり。女達
だけじゃない男達も、そうなのよ。
「ま、いいか。」
とか
「触らぬ神に祟りなしだから」
とか
「ワイドショーの話と、誰それさんがの話だけか」
とか
「また、何か買いたいって話か」
なんて思わないで、思うのは自由だけど。便利なお手伝いさんか
「もう、しょうがないわねえ、今度だけだからね」
って許してくれる、母親代わりの存在に、妻をしていないか。考えてみる必要があるわね。
月々100万円も200万円も妻に渡している男は滅多にいないでしょうから、
「大変だよなあ、俺の収入でヤリクリしてるんだから」
とか
「安心して仕事に精を出せるのも、お前が(お母さんが)一生懸命家の事をやってくれて
るからだよ」
って声に出して言うことが、いかに大事か。
そんな感謝と褒め言葉が存在する家庭で育った子ども達は、ほっといても何の心配もな
いわ。援助交際に走ることもないでしょうし、カツアゲしたり、ホームレスの人をなぐり
痛めつけたりなんてこともしない
「お母さんは、あなたが元気で、おいしそうに食べている顔を見るのが好きよ」
だったり
「うーん、いい顔してる。楽しい?」
って聞く。
この場合のいい顔っていう表現は、美男子や美女に対して言うそれじゃなく、幸せそうな
満ち足りた、安心している状況から派生する、なんとも言えない味がある表情ね。
それに美男、美女かどうかは、自分たちのご面相を見てりゃわかるものだし、事実認定はとっく
に済んでいることでもあるわね。
「あのさ、子どもの喧嘩に、親は口出しするなって言われるじゃない。私もそう思うわ。
だけど、どうしても子ども同士で解決できない問題が起きたら、言うのよ。そのために
親って居るんだから」
って。
どうして家族間だと、言葉の出し惜しみをするのかしら。相手を褒める、持ち上げる、
いわゆる相手をいい気持ちにさせることに、ものすごいためらいや、抵抗を示すって、
どういうことなのかしらって。じゃ、家族ってどういうものなのかしら、どうしてこの
女あるいは男と結婚して、子どもを産んで育てよう、と思ったのか。家族を作ることと
はどういうことなのか、考えたのかしら、って思わずにはいられないわね。そして、自分
の想像外(この想像という作業をあまりしてないことが問題なんだけど)の事態に遭遇
すると、パニックに陥る。そして、自分以外が全ての原因って思う。グジャグジャの部
屋の中から、探し物をする。益々グジャグジャになって、探し物は見つからない。こう
いうことでしょう。
人は誰しも自分が一番可愛い。だからその自分が納得したり、いい気分でいられる状
況の中にいたいって、思うのよね。しかも常に。強欲な生き物が人間だから、無意識な
自分であっても、心地よい居場所を求めるし、心地よい空間を得たいって思ってるのよ。
そうすると、それが家族であっても、いえ、家族ならばこその無遠慮な間柄に、安心し
て、剥き出しの自分の大売出しになってしまうわけね。底は割れてるんだから、カッコ
つけてなんかいられないって。
不安定で、ストイックな自分が、普通の、スタンダードだなんて、絶対思ってない。誰
よりも幸せでありたいって思ってる。そこに、
「ああするな、こうするな」や
「ああせい、こうせい」の
艦砲射撃の日々だと、自然仏頂面になるし、口なんかききたくなくなるわね。
たとえば親が子どもに言う台詞。あれを他人の子どもに言えるか。言えない。そうよね、
あの剣幕はすごいものがあるからねえ。
「もう、ンとに何回言ったらわかるんだよ。ンとに馬鹿なんだから」
「エーッ、聞いてンの、おまえ」
「勉強はやったの、宿題は済んだの」
「なんとかちゃんより上だろうね」
ビビリまくってた子どもも、そのうち
「自分だって覚えられないクセに」
「俺・私の言うこと、ちゃんと聞いてくれたことあるかな」
「トンビはそうそう鷹は産まない」
「よかったね、あんた達の成績表が今なくて」
って、思うようになるのよ。
あれはなんなのかしら。私は耳を覆いたくなる。
おまえという呼称は、貴様と同様、侮辱語ではなかったという話は、こっちに置いとい
て。ごく普通の会話の中に登場させるに、あきらかに自分より格下の者を呼ぶ時に遣う
「おまえ」を、私は人に対しては遣わない。我が家の飼育動物にのみ遣う言葉を、いと
も気軽に遣う人に、嫌悪感を抱いてしまう。「おまえは」なんて、偉そうに、そう決し
て偉くない証としてしゃべる人の意見や説教を、心から聞くことなんかできないし、聞
く必要などないと思うわ。
教師も、よそのお子さんをつかまえて、よく呼び捨てなどできるものと、あきれ果てて
モノが言えないわね。浮世を渡るための一手段の、教職課程を通過したってことで、自
分が習得してきた(と思われる)知識・技術を伝授する立場の人間が、
「教えてやるんだ」
って、思って教職についたとしたなら、
「どうぞ、お辞めください」
だわね。ましてや、給料が税金(汗・涙の結晶)でまかなわれている国公立の教師は。
お上に守られているのに、日本が大嫌いな教師を、何で私達は養わなきゃならないのか。
人が人として、人と関わる時は、優劣をどこにつけるのか。その前に、人の優劣って
何って思うわね。能力の差は、あって当たり前の話で、何かの分野で大きな差があったと
しても、興味・関心があって、なおかつ志向が向いていれば、大いなる刺激として受け
止めて、自分を鼓舞するための教材にすればいいことで、その正反対の位置に自分がい
たとしても、なんら恥じ入ったり、落ち込んだりする必要もないってことに気がつかな
ければいけないし、親や教師の仕事はそういうことの手助けをすることじゃないのかっ
て、思うわね。
それに、能力の点からいっても、上も下も「ここが終点」というものはない。限界はな
いということも知らなくてはならない。これは、教える立場の人間が知らなきゃならな
い最重要課題よ。
「私があなたに伝授することは、ほんの少しかも知れない。それでもできる限り、私が
学んできたものを、あなたに渡したいと思っているし、また一緒にあなたと学びたいと
思うから、頑張りましょう」って。
自分が大切なら、当然人も大切ということを知っているはず。そんな人は、相対する人
をつかまえて、それがどんなに自分より格下であったとしても
「おまえ」呼ばわりはしないし、呼び捨てなんかしないものよ。
遠い昔を思い出すに、髣髴(ほうふつ)と心に浮かんでくる過ぎ去りし人々は、すべから
くみんな謙虚だったし、優しく、節度を心得た人々だった。
「少しだけ、あなたよりこの分野の事は知ってるかもしれないけれど、人としての立場
は、そんなに違わないのよ」
って、言ってたような雰囲気を醸し出していた昔の教師。
色々なお稽古事をしていたから、当然師匠につく。習い事は厳しいものだから、その中
では、思うようにいかないジレンマに陥ったり、そんな時の先生たちは、一様に怖かった。
けれども、どんなに厳しくても、人を見くびるような言動はなかったことを、子ども心に
も察していた、否、子どもなるがゆえに素早くキャッチしたのだったのかもしれないわね。
多くの大人たちが勘違いしていたり、認めたがらないことが、それなのよ。
子ども達の感受性の強さ、もろさ、傷つきやすさ、感動するやわらかい心などなどを持
ってる事実と現実を、知らない親おとな達。
食べるという本能作業は、セックスと同じで、大勢で、しかも男女入り乱れての食事風景
なんて、乱交の何ものでもないって思えるわ。本能は、本能だし、誰でももっているもの
だから、本能の赴くままにして何が悪い。って言われれば、まあそうかも知れないとは思
うけれど、本能だからって、公衆の面前で、あられもないスタイルで、あっちでも、こっ
ちでもセックスが展開されたら、法律に触れるわね。その前に、本能だからこそ、すこう
し遠慮気味に、あまりハッキリさせないで、「今、食べているらしい」とか「この人いつ、
誰とセックスするのかなあ」って思わせる側面を持たせるのが、本能との、うまい付き合
い方と思うのよ。本能剥き出しって、美しくない。だから、食事をするという行為にたい
して、作法という衣を着せるようになったのでしょう。
美意識の強弱や、何に美しさを感じるか、はたまた美しいということに全く鈍感か、重き
を置いていないなどで、食事のとらえ方も大きく変わってくる。セックスも、劣情刺激否
芸術と、昭和の時代は本能を題材に、やかましい時代でもあったわね。本能に関すること
を取上げるのは、取上げる個人の教養と、人に対しての優しいまなざしを持っているか否
かに大きく左右されると思われるから、いつもなんとなくうやむやになってしまってるの
でしょう。
繊細さをこよなく愛した日本人は、目で食べさせると言われるように、美しい食器に
色とりどりの、調理された食材をチマチマと盛り付けた。(ペリーが浦賀沖に来て、そ
の後の日本との交渉の場で出された食事の量に、アメリカ人がのけぞるほど少ないと感
じたらしい和食だけど)室町時代に作法が誕生。小笠原流の作法が今に伝わる。(伝わっ
ているか疑問だけど)舐め箸、渡り端、迷い端など、ご法度の動作が、きめこまかく決
められ、その一連の動作が身につけば、ものを食べるという本能行為も、作法の美しさ
の衣の下で昇華される。
お箸を持つようになれば、美しく食べることを教えたいもの。
お行儀もへったくれもない、たーだ食べるという人達と、一緒に食事をするのは、苦行
を強いられるようで、なるべく遠慮するようにしている。ごくごく親しい間柄の人と、
静かに、スキャンダラスな話題は避け、そして「ウチのパパが」とか「ウチの何々ちゃん
が」とか「私って、○○っていう人でしょ」とか
もう、食材による蕁麻疹じゃない蕁麻疹ものの会話しかできない女達との食事も、いま
やパス。そして、せいぜいウン千円の料理、あるいはそれ以下の支払い額の料理に対し
て、文句たらたら。どうしてこう文句が次々と出てくるのかしら、女は。
ちょっと気を利かしてこまめに歩いてみれば、ほぼ世界中の食材が手に入る時代。新
聞・テレビ・雑誌・専門書と、数え上げればきりがないほど提供される料理情報。外で
ぱたぱた七輪、なんて時代じゃない。ピッポッパッでなんでも、ほぼオールマイティに
調理できる電子レンジ。これが殺人用の戦争武器が元だったなんて、信じられない電化
製品だけど。システムキッチンでお料理したい!だって、餌(ファーストフード)を喜
んで食べる人が。
調味料も、スーパーに今や勢揃い。ただ、みんな持っているけれど、使い方を習得し
ているかどうか、大きく乖離しているもの。それは「前頭葉の活用頻度」。
お料理は、創造・創作活動。
これとこれを混ぜると、こういう風な味になるから、これはやめて、こっちのこれを入
れてみよう。色合いも、これだけじゃ釣り合いが取れないから、これをちょっと入れて。
みたいな想像と、出来上がり図形と味のマッチングが料理。銀シャリ(これも死語?)
の白米は、定位置にドーンとおわします。そこにおかずの配色に白がハバを効かすと、
もう食欲がガクッと落ちて、
「さっきまですごくおなかすいてたのに、もうどうでもよくなっちゃった」状態になる。
病院の壁を真っ白にすると、情緒不安定になるって。だから、病院の食事に使う食器が
、みんな白く、その中に、ご飯・豆腐・白菜なんかが大きな顔してたら
「食べなくていい」って、言われてるようなものなのよ。
「もっと食べなきゃダメよ」って、看護士が心配しても、裏方で食欲を落とす工作をし
てるのに、何言ってるんだって、思うわ。大病患って長期間入院の私の経験からいって
も、これはまぎれもない事実。
想像と創造は緊密な仲。これは前頭葉の活動が大きくモノをいう。だから、色・形・
味を想像することが、とりもなおさず脳味噌を刺激してることになるのよ。すると、す
ぐ女たちは
「おいしい食事に連れてってくれないから、味がわかんないじゃない」って。
わが友人のご母堂は90歳近くになっても、お台所の現役。私にしてもまあそれなり
に人を長くやってれば、外で食事をする機会もあったし、これからもあるとは思うけ
れど、今までにその母君が作られるお料理の上をいくものに遭ったことがない。
「ずるいわねえ、これだけ腕のいいコックを、一家族だけで独占しちゃって」って、友
人に毒づいたもの。
「お母様はよく外食なさったんでしょう」って言えば、
「母が外出することって、法事とか、よほどの用事があるときだけよ。それに外食はし
ないのよ」と友人は言う。
「新聞やテレビの料理番組なんかで、新しい料理を仕込むみたいよ」ですって。
まさにこれ。前頭葉がフル活動してるってことね。長年の技術に新しい知識を加え、創
意工夫を重ねられる。頭も舌も、衰えるどころか、益々磨きがかかる。その意欲と月日
の重みは、
「どこそこのイタリアンがおいしかったわ」
「和食はやっぱり、何々よねえ」
「あのホテルのフランス料理は逸品ね」
なんていう、日々脳味噌の手入れを怠ってる女たちには、到底理解できないものがある。
煮豆一つ、漬物一つ、納得できるまで挑戦しない女達が、
「どこそこの、なになにが」なんて、
チャンチャラおかしい台詞を吐いてくれるなって思うのよ。
四季の食材を使って、季節の料理を作る。これが基本でしょう。
「落語」のみかん話じゃあるまいに、なんで冬にきゅうり、夏にほうれん草を食べなき
ゃならない。季節はずれのものを食べるって、一つのステータスなのかしら。まあ、今
じゃ夏のみかんも、冬のスイカやメロンも、かなりメジャーになってきたから、有難み
も大してないでしょうけれど、横一線が大好きな国民なのに、そのへんのつまらないと
ころで見栄を張って、優位を保とうとする。なんだか悲しいわね。
季節、季節の食材は、その季節の太陽・雨・風などを浴び、充分な栄養価を含むけれ
ど、人工的な調節をして、無理して育てられた野菜たちは、栄養価も低いし、腐りやす
いのよ。冬のきゅうり、夏のほうれん草、両方とも冷蔵庫の中で、すぐグニュグニュに
なって腐る。バイオの技術がもっと発達して、組換え遺伝子の大豆ように(害がある、
ないで未だに大もめだけど)、腐りにくい野菜も、遅かれ早かれ登場してくるでしょう
が果してそれが幸せなのか、大いなる疑問ね。
ただ、普通の人のすることには限界があるし、当然味覚音痴の人がいるのも事実だと
は思うけれど、風潮として、お手軽方向へ行ってしまってるような感じがするのは否め
ないわね。挑戦する前に、方向転換しちゃって、自分自身に色んな場、チャンスを提供
しないということが問題だし、もったいないと思う。
私の知人が
「努力はセンスに追いつかない」って言ったのに
「なるほどねえ、車の運転もセンスが大きくモノを言いますって、レーサーが普通の人
の運転技術についてテレビで言ってたけど、すべからくみんなそうなのね。私は未だに
縦列駐車の免許もらってないんじゃないかって思うくらい、下手だから、これも運転に
関してのセンスがないってことなんだわね」って、妙に納得した私だったけれど、そん
なこと言ったら、
「ハイ、あなたはセンスがないから諦めましょう」になって、
「どうせ私はできないのよ」と、
努力の前に挑戦する意欲を捨てかねないから、
「玉、磨かざれば光なし。だから磨きましょう」に
したいものだわね。
どこでどう目覚めるかわからないから。「四十の手習い」って、可能性のことを言って
るのでしょう。そして、これだけは、というものをモノにする努力は惜しまない。
お料理で言うなら、煮物なら、自信あり。揚げ物ならプロ級、漬物なら先祖代々の味を
習得、なんて。これは財産なんです。絶対に泥棒にとられない財産。
知識と技術は、終生その人だけのものだから、生きていくための大いなる武器になるの
は自明の理だわね。
けれども、日々、食事にありつけることに、私は心から感謝してるわ。今年の自然の猛
威、そして被害に遭われた方々の心痛いかばかりかと思うけれど、今のところ私自身が自
然の脅威に脅かされることなく、戦争に巻き込まれることもなく、今日も今日の糧に、
ありつけた幸せを、時折立ち止まって、当たり前と、何の疑問も持たず、考えたことすら
ない日々の営みを、特に生きていられることを、じっくり考えて、振り返ってみるのよ。
冬ならば、暖房の効いた暖かい部屋で、季節の野菜がふんだんに入った鍋料理をいただ
く。家族が揃うと、一番のあったか料理だわね。そんな時、
「もう、いやだ。俺この会社辞めたい」
とか
「もしかして、会社が倒産したらどうしよう」
なんて思いながら働いているかもしれない一家の主に、
「毎日、本当にご苦労様。こうやって食べられるのも、あなたの(お父さんの)お陰よ」
と声に出して、そう、声に出さなきゃいけないのよ。以心伝心なんて、ありえないと思っ
て。
「今更、そんなこと恥ずかしくて言えない」
とか
「家族を養うのは当たり前じゃない」
とか
「現実、戦争も自然災害もないんだから、なんでこの人に」
なんて、言わないで。
大体、熱しやすく冷めやすいのが私たち日本人。喉元過ぎれば熱さを忘れる。そう、嫌
なことは早く忘れた方がいいと思うけれど、大事なことは、反芻しなくては。
声に出さなかったが故に、誤解が生じたり、失望したりになりやすい人の関わり。女達
だけじゃない男達も、そうなのよ。
「ま、いいか。」
とか
「触らぬ神に祟りなしだから」
とか
「ワイドショーの話と、誰それさんがの話だけか」
とか
「また、何か買いたいって話か」
なんて思わないで、思うのは自由だけど。便利なお手伝いさんか
「もう、しょうがないわねえ、今度だけだからね」
って許してくれる、母親代わりの存在に、妻をしていないか。考えてみる必要があるわね。
月々100万円も200万円も妻に渡している男は滅多にいないでしょうから、
「大変だよなあ、俺の収入でヤリクリしてるんだから」
とか
「安心して仕事に精を出せるのも、お前が(お母さんが)一生懸命家の事をやってくれて
るからだよ」
って声に出して言うことが、いかに大事か。
そんな感謝と褒め言葉が存在する家庭で育った子ども達は、ほっといても何の心配もな
いわ。援助交際に走ることもないでしょうし、カツアゲしたり、ホームレスの人をなぐり
痛めつけたりなんてこともしない
「お母さんは、あなたが元気で、おいしそうに食べている顔を見るのが好きよ」
だったり
「うーん、いい顔してる。楽しい?」
って聞く。
この場合のいい顔っていう表現は、美男子や美女に対して言うそれじゃなく、幸せそうな
満ち足りた、安心している状況から派生する、なんとも言えない味がある表情ね。
それに美男、美女かどうかは、自分たちのご面相を見てりゃわかるものだし、事実認定はとっく
に済んでいることでもあるわね。
「あのさ、子どもの喧嘩に、親は口出しするなって言われるじゃない。私もそう思うわ。
だけど、どうしても子ども同士で解決できない問題が起きたら、言うのよ。そのために
親って居るんだから」
って。
どうして家族間だと、言葉の出し惜しみをするのかしら。相手を褒める、持ち上げる、
いわゆる相手をいい気持ちにさせることに、ものすごいためらいや、抵抗を示すって、
どういうことなのかしらって。じゃ、家族ってどういうものなのかしら、どうしてこの
女あるいは男と結婚して、子どもを産んで育てよう、と思ったのか。家族を作ることと
はどういうことなのか、考えたのかしら、って思わずにはいられないわね。そして、自分
の想像外(この想像という作業をあまりしてないことが問題なんだけど)の事態に遭遇
すると、パニックに陥る。そして、自分以外が全ての原因って思う。グジャグジャの部
屋の中から、探し物をする。益々グジャグジャになって、探し物は見つからない。こう
いうことでしょう。
人は誰しも自分が一番可愛い。だからその自分が納得したり、いい気分でいられる状
況の中にいたいって、思うのよね。しかも常に。強欲な生き物が人間だから、無意識な
自分であっても、心地よい居場所を求めるし、心地よい空間を得たいって思ってるのよ。
そうすると、それが家族であっても、いえ、家族ならばこその無遠慮な間柄に、安心し
て、剥き出しの自分の大売出しになってしまうわけね。底は割れてるんだから、カッコ
つけてなんかいられないって。
不安定で、ストイックな自分が、普通の、スタンダードだなんて、絶対思ってない。誰
よりも幸せでありたいって思ってる。そこに、
「ああするな、こうするな」や
「ああせい、こうせい」の
艦砲射撃の日々だと、自然仏頂面になるし、口なんかききたくなくなるわね。
たとえば親が子どもに言う台詞。あれを他人の子どもに言えるか。言えない。そうよね、
あの剣幕はすごいものがあるからねえ。
「もう、ンとに何回言ったらわかるんだよ。ンとに馬鹿なんだから」
「エーッ、聞いてンの、おまえ」
「勉強はやったの、宿題は済んだの」
「なんとかちゃんより上だろうね」
ビビリまくってた子どもも、そのうち
「自分だって覚えられないクセに」
「俺・私の言うこと、ちゃんと聞いてくれたことあるかな」
「トンビはそうそう鷹は産まない」
「よかったね、あんた達の成績表が今なくて」
って、思うようになるのよ。
あれはなんなのかしら。私は耳を覆いたくなる。
おまえという呼称は、貴様と同様、侮辱語ではなかったという話は、こっちに置いとい
て。ごく普通の会話の中に登場させるに、あきらかに自分より格下の者を呼ぶ時に遣う
「おまえ」を、私は人に対しては遣わない。我が家の飼育動物にのみ遣う言葉を、いと
も気軽に遣う人に、嫌悪感を抱いてしまう。「おまえは」なんて、偉そうに、そう決し
て偉くない証としてしゃべる人の意見や説教を、心から聞くことなんかできないし、聞
く必要などないと思うわ。
教師も、よそのお子さんをつかまえて、よく呼び捨てなどできるものと、あきれ果てて
モノが言えないわね。浮世を渡るための一手段の、教職課程を通過したってことで、自
分が習得してきた(と思われる)知識・技術を伝授する立場の人間が、
「教えてやるんだ」
って、思って教職についたとしたなら、
「どうぞ、お辞めください」
だわね。ましてや、給料が税金(汗・涙の結晶)でまかなわれている国公立の教師は。
お上に守られているのに、日本が大嫌いな教師を、何で私達は養わなきゃならないのか。
人が人として、人と関わる時は、優劣をどこにつけるのか。その前に、人の優劣って
何って思うわね。能力の差は、あって当たり前の話で、何かの分野で大きな差があったと
しても、興味・関心があって、なおかつ志向が向いていれば、大いなる刺激として受け
止めて、自分を鼓舞するための教材にすればいいことで、その正反対の位置に自分がい
たとしても、なんら恥じ入ったり、落ち込んだりする必要もないってことに気がつかな
ければいけないし、親や教師の仕事はそういうことの手助けをすることじゃないのかっ
て、思うわね。
それに、能力の点からいっても、上も下も「ここが終点」というものはない。限界はな
いということも知らなくてはならない。これは、教える立場の人間が知らなきゃならな
い最重要課題よ。
「私があなたに伝授することは、ほんの少しかも知れない。それでもできる限り、私が
学んできたものを、あなたに渡したいと思っているし、また一緒にあなたと学びたいと
思うから、頑張りましょう」って。
自分が大切なら、当然人も大切ということを知っているはず。そんな人は、相対する人
をつかまえて、それがどんなに自分より格下であったとしても
「おまえ」呼ばわりはしないし、呼び捨てなんかしないものよ。
遠い昔を思い出すに、髣髴(ほうふつ)と心に浮かんでくる過ぎ去りし人々は、すべから
くみんな謙虚だったし、優しく、節度を心得た人々だった。
「少しだけ、あなたよりこの分野の事は知ってるかもしれないけれど、人としての立場
は、そんなに違わないのよ」
って、言ってたような雰囲気を醸し出していた昔の教師。
色々なお稽古事をしていたから、当然師匠につく。習い事は厳しいものだから、その中
では、思うようにいかないジレンマに陥ったり、そんな時の先生たちは、一様に怖かった。
けれども、どんなに厳しくても、人を見くびるような言動はなかったことを、子ども心に
も察していた、否、子どもなるがゆえに素早くキャッチしたのだったのかもしれないわね。
多くの大人たちが勘違いしていたり、認めたがらないことが、それなのよ。
子ども達の感受性の強さ、もろさ、傷つきやすさ、感動するやわらかい心などなどを持
ってる事実と現実を、知らない親おとな達。