堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

小沢氏・証人喚問:事実は誰が解明するのか

2010年10月10日 | 時事
 今日のNHKの日曜討論で小沢氏の国会での証人喚問がテーマとなった。
 
検察審査会の議決で強制が決まり、司法の場で決着がつけられることとなった。
 これを受けて、野党が小沢氏の証人喚問を要求している。

 小沢氏は検察審査会の結論が出た段階で、検察の強制捜査で結論が出ておるとし、検察審査会の結論に不快感を示している。
 検察が不起訴と決定したのは、小沢氏が清廉潔白であると云う事では決してない。
 訴訟を維持するだけの証拠を検察官が見つけることができず、検察敗訴が明確であるからにすぎない。
 日本の検察は、最初から負ける戦いはしない。敗訴すれば、それは検察の敗北となるからである。法の解釈の違いであればまだしも、事実関係を立証できずに負けることが分かっている事件は、決して起訴しない。
 従って、小沢氏の言うことは全く納得できない。不起訴即無罪では決してない。

 余談になるが、背任や横領、詐欺などの経済事犯で被害金額の少ないことに驚いた人も多いと思うが、これも立証できた被害金額で、実際の被害金額とは異なる。

 「疑わしきは罰せず」という考え方、厳格な証拠主義を採用した理由は不当な国家権力から国民の権利を守ると云う歴史的背景がある。

 裁判所に係属中の事案を立法府である国会で審議し、証人喚問を行うのは三権分立の原則に反するという意見がある。
 私もその意見には原則的に賛成である。
 素人である国会議員がプロの法律家である検察官が起訴できなかった事案を明らかにし法的責任を問うことはできないだけでなく、三権分立の上からなすべきではない。

 しかし、国会での証人喚問は行うべきである。
 なぜならば、国会で証人喚問を行い、明らかにすべきものは法的責任ではなく政治的・道義的責任であるからである。
 国会で明らかにすべきことは、例え裁判で証拠不十分で無罪となったとしても、それで政治的・道義的責任も問えないということではない。そこを明らかにするのが国会の責任である。
 国会で証人喚問が行われても「忘れました」「記憶にありません」「訴訟係属中ですのでお答えできません」という答弁が繰り返されることは予想に難くない。

 3億4千万円の土地、4億円の資金の問題、庶民からすれば想像もできない金額である。
 それらの処理を一介の秘書--大物 政治家小沢一郎氏からすれば--に任すわけがない、これが一般市民の考えである。検察審査会も、市民の通常の常識から、起訴相当という結論を出したのだろう。

 小沢事務所では金をどのようにして集め、どのように使っていたのか、誰が集め誰が使っていたのか、指揮監督はどのように行われていたのか、日常業務を洗い出すことで政治と金の関係を明らかにし、小沢氏の政治的・道義的責任を問うべきである。
 国会で証人喚問を行う国会議員の力量も問われる。
 従って、証人喚問も通常のやり方とは異なったものでなければならないと考える。

 小沢氏が裁判で有罪判決を受けるよりも、国会で政治的・道義的責任を問われ、国民の批判の場にさらされる方が、より責任の追及としては厳しいものとなると考える。

 与党も清潔な政治を標榜するなら、千載一遇の機会である。
 責任を持ってこれに対処してほしい。対応を誤れば、小沢氏と同罪と云うより、むしろ、罪は重いと言わざるを得ない。
 将来の禍根を断つという意味で、法体系の整備は急務である。


 雨上がり、外に出ると金木犀の香りが心地よかった。
 金木星より銀木星の方が香りは強いが、何故か金木星の方が圧倒的に多い。