平成22年度第65回文化庁芸術祭賞テレビドキュメンタリー部門大賞を受賞した、NHKスペシャル「密使若泉敬、沖縄返還の代償」のビデオを見た。
この番組を見るまで、若泉敬については、全く恥ずかしい話だが、全然その人物を知らなかった。
以前、澤地久枝女史が著した、「密約」を買った。
言うまでもなく、この本は、沖縄返還交渉に関わる外務省の機密漏洩事件を扱ったものである。
買ったのだが、読むことなく、積読状態にある。
この際読んでみようと思う。
平成22年度第65回文化庁芸術祭賞テレビドキュメンタリー部門大賞を受賞した、NHKスペシャル「密使若泉敬、沖縄返還の代償」のビデオを見た。
この番組を見るまで、若泉敬については、全く恥ずかしい話だが、全然その人物を知らなかった。
以前、澤地久枝女史が著した、「密約」を買った。
言うまでもなく、この本は、沖縄返還交渉に関わる外務省の機密漏洩事件を扱ったものである。
買ったのだが、読むことなく、積読状態にある。
この際読んでみようと思う。
平岩弓枝の「妖怪」を読み始めた。
主人公は鳥居甲斐守忠耀・耀蔵である。当時、あり得ない筈だが、甲斐守は二人いた。そこで、鳥居忠耀は「耀甲斐」と言われ、その行状から妖怪に変じたとも言われている。
以前に宮部みゆきの「弧宿の人」を読んだ。
丸亀藩に幽閉された鳥居耀蔵を思わせる人物が登場する。
鳥居耀蔵と言えば「妖怪」という言葉に象徴されるように、悪人の印象が強い。特に「蛮社の獄」に代表される強圧的政治が印象に残る。
宮部みゆきの「弧宿の人」を読んだとき、状況設定から、そこに登場する場所と人物が、丸亀藩と鳥居耀蔵ではないかという感じがした。
ところが、場所は別にして、登場人物に違和感を感じた。極悪人というふれこみで、作品は始まるが、作品の後半になるにしたがって、主人公の少女「ほう」とのかかわりの中で、今まで抱いていた鳥居耀蔵のイメージとはだいぶ違う。
平岩弓枝の「妖怪」も、従来の鳥居耀蔵についての解釈、人物像から離れ、別の観点から眺め、新たな鳥居耀蔵を描き出しているものと思われる。
宮部みゆきの「弧宿の人」では、鳥居耀蔵らしき人物は直接、表に出てきてりるわけではないが、その人物の描き方が、極悪非道の人であり、諸悪の根源であるという噂と、評判に反し、実態は違うという、人間性の豊かさをほうふつとさせる。宮部みゆきが鳥居耀蔵をこのように解釈した理由と経緯を知りたくなった。
平岩弓枝は正面から鳥居耀蔵と取組んでいると思われる。
歴史上の人物に対する評価は様々である。
その人の生きた時代背景や力関係、その人の最後など故意に歪曲されて伝えられる。また、評価される時代も多大な影響を及ぼす。
足利尊氏などは第2次世界大戦の天皇崇拝の真っただなかでは、時の軍部の都合上、逆臣として、悪人として扱うことが、軍部にとって戦意高揚の上からも必要であったのであろう。
我々のように、その人物の業績や思想、その時代の流れを明確に知らないものにとって、悪人にも善人にもなる。
小説の面白さは作者の知識や調査力文章力や物語の展開等でその人物像が出来上がる。既成概念とは違ったイメージが形作られる。それが、作者の力量であろう。
この種の体験の最初は、山本周五郎の「樅の木は残った」の原田甲斐であろう。NHKの大河ドラマを見るようになったのも、この作品からだったと思う。
両者に「甲斐」がつくのも面白い。
今日はこの夏を予感させるような暑さだ。
去年の酷暑を思い出させた。
私の書斎にはクーラーはない。
クーラーは嫌いである。しかし、もともとクーラーが嫌いなのではないと思う。
クーラーのない日常生活を送っているうちに、クーラーが体質に合わなくなってしまったのであろう。
夏は、外出する時、上に羽織るものを持っていく。電車や飲食店などの冷房が強すぎるからである。
今年は大震災の影響で、冷房の温度も高めに設定するであろう。大歓迎であり、その意味で、過ごしやすい夏となるであろう。
クーラーという人工の環境のもとにいると、自然の恵みも感じられないであろう。
昔は、縁台を出して、蚊取り線香を焚き、打ち水をして、夕涼みをした。将棋をしたり、線香花火に代表されるような地味な花火を楽しんだ。
夕涼みという言葉、それ自体が死語に近いのではなかろうか。
今、クーラーのない暑い部屋でこのブログを書いている。時折、涼しい風が窓から入ってくる。この感じは部屋を閉め切り冷房の中にいる人には絶対に味わえないだろう。ある意味で、至福の一瞬である。確かに、昔と違って、夜になっても暑い。何とかしてほしいとも思う。夕涼みどころではない。
大震災以来、日常生活を見直そうという流れができてきている。
特に、原発事故以来、節電が、必要に迫られて叫ばれている。夜の照明はいたるところ明るすぎる。
電気の消費だけではなく、あらゆる面で、見直すべきであろう。
文化論的というべきか文明論的というべきか正確には分からないが、転換期に来ていると思う。
石原都知事が「天罰」という言葉を使ってひんしゅくをかった。
私は、どのような状況で、どんな話し方をしたのかわからないので、知事の発言を評価することはできない。しかし、現在のわれわれの生活を見て、その本質をついているとも思う。
大量消費、それに伴う多量生産。電気もその例に漏れない、電気代さえ払えば、東電の電柱から無制限と言ってよいほどの電気を自由に消費できる。
その裏に、大量生産がある。地球温暖化で化石燃料の消費が抑えられれば、当然の流れとして、原発絵の依存度は高くなる。
そんな意味をも含めて、人間・日本人のおごりが現代の風潮でもあるような気がする。その意味で天罰かもしれない。
今年も、酷暑に耐えながら、冷房のない部屋で、わずかに、一陣の涼風を楽しむ生活を送っていきたい。
以前から、クーラーはないので、節電には影響ないのが残念。
真夏の炎天下に生き生きと咲く向日葵のように、今年の夏を乗り越えよう。
年を考え、熱中症に気を付けて、水分補給と帽子の着用を忘れずに。
今日は、三小で、3年生を対象に自転車運転免許の実技の勉強を行った。
100名を超える児童が参加した。三小はすべて3クラスだが、3年が児童数では一番多い。
体力的にもまだ自転車に乗るには不安が残る、保護者と一緒に街を走るのが良いのではないかとも思われる。
自転車に乗り始め得る時期に、基本的なルールを教えるのは、効果的であると思われる。高学年になって、自由に自転車を乗り回せるようになってからでは、自分流の乗り方が身についてしまい、基本的な乗り方やルールが優先してしまうのではなかろうか。
環境問題や健康の面から近年自転車が見直されているが、道交法の改正も自転車に関しては多いような気がする。
気軽に乗れる自転車だが、重大事故の発生も起こりうる。保険の適用も無く重い負担がのしかかってくる例もある。
大人も自転車のルールをしっかり守っていきたものである。
フラットファイルよりも薄いものがほしく、探しているがなかなか見つからない。
少し前までは量販店や100円ショップで買えたものがほとんどない。
量販店や100円ショップでは売れないものはたちまち店頭から姿を消してしまう。利益率を上げるために、デッドストックとなるものを見せにおかないのは分かるが、消費者としては不便である。特に、文房具店は、私たちが子どもの頃は学校の周りには必ずあったが、今は、市内でも数えるほどしかない。
ちょっと特殊な品物が手に入らない。
文具で近頃驚いたことがある。
瑞穂のジョイフルホンダに行った時、ふと見た棚に、「京大式カード」があったことである。
「京大式カード」は、私が学生時代に論文を書いたり調べ物のまとめの時に愛用した。もう50年近く昔のことである。それがいまだに健在で、愛用者がいることに驚かされた。
私は、PCを使うようになってもカードで情報や知識を整理することが身についてしまい。
最初に使ったデーターベース用のソフトは、ザ・カードである。
今は、リレーショナルデーターベースを使っているが、プリントアウトするときはカード形式である。
ファイルを買おうと、奥多摩バイパスにある100円ショップに行ったが、やはりなかった。
帰りに根川緑道に行き、夕暮れの残堀川で泳ぐカモを撮った。
アーサー・ヘイリーの「ホテル」を読み終え、あまり抵抗がなかっただけでなく、結構面白く一気に読んだ。
同じ作者の本をと思ったが、幅を広げるために他の作家をと考えた。
海外の作家の本を読もうと思うが、知識も情報も不足していて、なかなか決まらない、というよりわからない。
そこで、とっつきやすく、無難なものは、ミステリ―かサスペンスかと思い、週刊ブックレビューのHPを見た。
日本ではあまり書かれてないジャンルで海外の作品に優れたものが多い、リーガルサスペンス・ミステリーを読むこととした。
確か、NHKの児玉清氏を偲ぶ週刊ブックレビューでも紹介されていと思う「スコット・トゥロー」の作品「推定無罪」を買ってきて読み始めている。
良い作品は、当然のことではあるが、時代が経っても面白い。私の年齢がそうさせているのかもしれないが。
文庫本の字も小さい。
つまらない本は時間の無駄であり、古希を迎えた私には、人生の無駄遣いにもなってしまうので、あっさりあきらめることにしているが、この本は最後まで読み切れそうである。
世の中に知れ渡り、著名な作家であり、いまさらと思う人は多いと思うが、私としては、新しい作家に会えてうれしい。
つゆの季節、アジサイがきれいだ。
街を歩くと、柏葉紫陽花が目につく。
ファイルを探したが出てこない、写真は気の向くまま撮ってあり、整理が追い付いていない、無秩序に保存されている。いざという時になかなか目的のものが見つからない。困ったものである。
明日写真を撮って載せたい。
葉が柏に似ているのでその名がついた。
写真は6月21に撮影したもの。
また、痛風の痛みに襲われた。
昨年の8月の終わりに発症し、爾来、通院し、ユリノームを服用し、肝機能と尿酸値を検査していた。
尿酸値は低く、発作が起こる何日か前の検査では5.2、正常な値を示していた。肝機能も正常。
左足、親指の付け根に違和感を感じた。全てが正常値であったので、風呂に入り、焼酎を少々飲んで寝た。
近頃は、酒も、量を減らし、回数も2日か3日に一回となっている。
足に違和感を感じてから2、3日後の朝、痛みと言い、腫れかたと言い、正に痛風であった。
痛みはほぼ収まったが、腫れはまだある。
話を聞いたり、色々調べた。
尿酸値が低くても発症するのは、そんなにまれなことではないみたいである。
逆に、尿酸値が低くても、発作を起こさない人もいる。
人それぞれで、体調やストレスなど様々な要因が複雑に絡み合って、発症するのであろう。
改めて、人間の複雑性を感じた。
それなりに注意してきたつもりであるが、現象が現れれば、それに適切に対応することも大事であると思った。
先週は、青梅の吹上菖蒲園に行くつもりであったが、断念せざるを得なかった。
今週も、雨模様の日が続きそうでもあり、足に負担をかけたくもなく、来週に行くこととした。
いずれあやめかかきつばた、と言われるように「あやめ」「カキツバタ」「花菖蒲」の区別はつかない。
もう何年になるかわからないが、羽衣町のみのわ通りに花菖蒲の様な花が咲いていた。
私のの中の既成概念では、花菖蒲は水辺の植物、どんよりとした梅雨空の中に咲く花という印象があった。
ところが、乾燥したみのわ通りの歩道に照り付ける太陽のもとで咲いていた。違和感を感じた、花菖蒲とは違う。
それもそのはず、後で分かったのだが、それはヨーロッパ生まれのジャーマンアイリスであった。
あやめ、花菖蒲、カキツバタはやはり湿地の菖蒲園が絵になる。
みのわ通りに咲くジャーマンアイリス
TV でジャーナリストの鳥越俊太郎がニューオリンズに「マイ・ラスト・ミュージック」を探す旅に出る番組を見た。
私と同年代で、1つ上。
20代でオスカー・ピターソンと出会い、レコードがすり減るほど聞いたという。
私も学生時代、何の機縁であったか忘れたが、当時いうところのモダンジャズにひかれ、喫茶店やライブハウスに通った。
ジャズに興味を持ち、最初に聞いたのはデキシーランドジャズであった。ニューオリンズジャズの白人版である。
同年代の人にジャズフアンは多い。
オスカーピータソンもよく聞いたが、ピアノはやはりセロニアス・モンクだ。
彼が出演していたミントンズと似た名のミントンハウスというライブハウスが立川の曙町の住宅街の中にあった。よく行った。中央線沿線から有楽町までよく行った。
ライブではソニーロリンズ、アートブレーキー等を聞いた。
番組を見ながら当時を懐かしく思った。
言うまでもなくニューオリンズはジャズ発祥の地であり、その意味で、アメリカの地名では身近に感じる。
今読んでいるアーサー・ヘイリーのホテルの舞台もニューオリンズである。
併せて街の雰囲気が、行ったことはないが、以前に増して親しみを感じるようになった。
立川公園の花菖蒲はどうなっているのか気になっていた。
だいぶ前に菖蒲祭りが行われたときには行ったことがあるが、しばらく見ていない。
タバコを買うついでに行ってみた。
水路もきっちと整備されており、手入れは行き届いていた。
時期的には少し早い感じで、まだつぼみの状態の種類もあった。
昨日は急な用事ができて途中で、宇宙の学校について書くのをやめざるを得なくなってしまった。
続きを書く。
後半は熱気球づくりであった。
材料は普通のゴミ袋程度の薄いビニールの袋。
最初に、袋の縦の長い部分を切って、4枚を張り合わせ1つの口のないものを作る。
その後で、熱せられた空気を入れる口を厚紙で作り、ビニール袋に絵をかいて完成。
袋づくりは大人がやり、絵は子どもがかく。
完成したものに、熱せられた空気を入れて飛ばす。
昨日、錦学習館で行われた「立川 宇宙の学校」を見に行った。
主催は立川市教育委員会、共催のNPO法人KUMA(子ども・宇宙・未来の会)。
指導に当たったのは、NPO法人のクーマ。
当日は、法人の理事であり、立川の中学校の校長でもあった遠藤先生。
最初に、宇宙の学校の今後の内容や仕組み、クーマについて、遠藤理事から話があり、発泡スチロールを使った凧と熱気球を作った。
子ども達は、紙飛行機をはじめ空を飛ぶものに興味を持つ。
以前、放課後子ども教室・さんさんクラブでも紙飛行機と一枚の紙にちょっとした工夫をして飛ばす遊びをしたことがある。
今回の宇宙の学校では薄く切ったハッポースチロールを使った。
しばらくぶりで古本屋に行った。
前から気になっている本がある。
私の本棚の結構気が付きやすい場所にある。アーサー・ヘイリーのホテルという本である。
どういうわけか下巻しかない。上下2巻揃えて買ったのは間違いない。
何度か探したが出てこない。
昭和40年の作品で、文庫化は49年、新潮文庫であるが、当然既に絶版であろう。
何気なく外国の作家の棚を見ていた時、目に入った。
この機を逃すと買えないと思い、買った。ただちょっと後ろ暗い感じがした。上下2巻揃っているのに上巻だけ買った。下巻だけ買う人は、多分いないだろう。古本屋さんに損をさせてしまったかもしれない。
児玉清さんの追悼番組・週刊ブックレビューの録画を見た。
その中で、バハマに住むアーサー・ヘイリーへのインタビューが出ていた。
ついに見つけたホテルの上巻と著者へのインタビュー、不思議な感じがした。
このところ心身ともに疲れを感じていたので、ビデオばかり見て、本と少し疎遠になっていた。
週刊ブックレビューを見て読書への意欲が湧いてきた。
まだ読みかけの本があるので、ホテルに取り掛かるのは先になりそうだ。
読書傾向として、外国人作家の作品はあまり読まない。
今日も古本屋で、外国人作家の書棚を眺めていたが、どれを読んだらよいかわからなかった。
幸い、NHKのHPに週刊ブックレビューのページがあるので、探してみたい。