堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

街から町へ

2010年04月10日 | 日記

 昨夜は校長が退職したので共に杯を酌み交わした。
 校長が送別会という言葉を嫌い、共に飲む会とした。地域の人やPTAの多くの人が集まった。
 在職7年であった。歴代のPTAの会長も集まった。地域の人の中には学区外の人も着た。
 錦町とはそういう所である。
 地域力が問われる昨今。日常的な特定の枠を超えた人と人との関わり、活動、問題意識、それらの積み重ねが、地域を生き生きとさせ、人の匂いのする町になるのではないだろうか。

 立川も選挙の年である。ポスターやリーフレットが溢れ出して来ている。相変わらず「街」という言葉が溢れている。
 市民の税金を使い予算化し具体化していくのが行政であり議会であるのだから、ハードの面が強調され、「街」となるのかもしれない。
 錦町のアイデンティティーは錦町に住んだり、生活の場として過ごしている人々によって、長い時間の経過の中で形作られていく。
 行政の使命はそれを下支えすることである。

 新学期を向かえ、放課後子ども教室も始まる。
 2年を経過する中で、同じような形で出発した三小の「さんさんクラブ」と七小の「菊っこクラブ」も少しずつ形が変わってきている。
 それぞれ個性を持ち出してきている。
 それも学校の考え方や地域の関わり方、考え方の違いによるものであろう。
 それぞれが思いを持ち誠実に関わってきたことにより成長してきた結果であろう。
 行政の支援は同じでも形は違ってくる。それが地域と言うものではなかろうか。
 立川市では全校が放課後子ども教室を行っている。
 ところが、いくつかの類型に分けられるが、相当違ったものとなっている。
 それも地域の違いであり、地位気力の違いではなかろうか。

 行政はすべて地域に任せるのではなく、明確な考え方、ヴィジョンをもって地域を牽引していく責任があるのではないでしょうか。
 議会も同じです、票がほしいばかりに地域に追随しオピニオンリーダーとしての役割を放棄してはならない。

 入学式も終わりソメイヨシノは花吹雪となったが、今咲き始める桜もある。

                       

 「ウザイ」の語源は意外にも多摩地域とのこと。
 それは「うざったい」という言葉だそうだ。
 確か、子どもの頃、どこかのおばさんが頻繁に使っていたことを思い出した。
 ウザイブログにならないよう気おつけよう。以上。


日本語・・・気になる言葉

2010年04月03日 | 日記

 先日、NHKのバラエティー番組「みんなでニホンgo」を見た。
 以前、昼間の番組の中で、気になる日本語をテーマにしたコーナーがあり、偶然見た。
 日本語に興味があるので、その後も見たかったが、昼間であり、しかも、始まりの時間も終わりの時間もわからず、録画もできなかった。
 テーマが面白かったので、独立したものができないものかと思っていたので、今回始まった番組を録画しておいた。
 バラエティー番組なので、少々騒々しく、密度も薄いものではあるが、それなりに楽しい番組ではある。

 前に見た番組を思い出しながら、NHKのしたたかさとすごさも感じた。
 以前の番組でそれなりの資料と情報が集められていたのではないだろうか。
 それらを基にして、新たなものを集め、別の番組を作る。質の良い正確な情報は、処理の仕方や視点を変えれば別のものが作れる、
 重要なのことは、生の情報をどれだけ多く持っているかである。NHKの多くの人材群と取材網、財力がものを言うのではないだろうか。民放ではとてもできない。
 しかし、それだけでは正確で良質な情報は集まらない。大事なことは基本となる考え方、視点でる。
 情報化時代といわれる現在、過去には考えられないほどの情報に溢れている。それをどう選択し、どう使いこなしていくかは組織や個人の問題であろう。

 この番組の中で「全然」という言葉の使い方がおかしいのではないかとの問題提起がなされた。
 「このクッキー、全然おいしい」という使い方は間違いであるとのことである。
 「全然」の後に肯定する言葉が来るのはおかしいのではないかということである。
 ちなみに辞書を引いてみた。
 我が母校立川三中の校歌を作詞をした久松潜一氏が佐藤謙三氏とともに編纂した角川国語辞典によれば「下に打消しの語をともなう」とある。
 確かな記憶はないが、学校でもそのように教わったのであろう。
 しかし、多くの人が使っており、現に私も使う。

 番組の中で1つの実験が行われた。
 普通の状態で、アナウンサーに「全然の後に肯定の言葉が続くのはおかしい、使わない」と言っていて人が、その後の会話の中で前言を翻し、全然の後に肯定を意味する言葉を繰り返し使っていた。
 そこで、ある人がそこには省略があると指摘した。
 つまり、「このクッキー、私の手作りなの、お口に会うかどうか」に対し、「全然(まずくありません)、おいしいです」と言うことで、カッコのなかに言葉が省略されてしまった結果、「このクッキー全然おいしいです」となってしまったとのこと。
 相手への思いやりが自然と言葉になったのではないかと。
 そういわれれば、確かに会話の中では頻繁に使うが、文章では使わない。ある出演者が「そんな文章を書けば、バカだと思われる」と言っていた。
 本当にそんな文章を書くのは馬鹿な人なのだろうか。

 文学作品の中ではどうであろうか。
 驚くべきことが見つかった。
 夏目漱石等の偉大な文豪が、その作品の中で「全然」+「肯定語」を使っているのである。
 夏目漱石は馬鹿なのか、日本語を知らないのか。そんなことはない。
 では、何故、日本語の常識となってしまったのであろうか。

 戦争直後、日本語が乱れ、全然が多用され、それを抑制するため、「全然」+「否定語」と言う使用法が強調され、教育現場でも子どもたちの教えられ、辞書にも載るようになってしまったとのこと。

 言葉と言うものは時代や社会の中で生きており、その姿を変える。
 正確に意思が伝わり、美しくあれば、あまりこだわらず自由に使えばよいのではないでしょうか。
 夏目漱石は非常識ではなく、辞書も間違いではないのでしょう。

 もう一つあるのですがあまり長くなり、時間も無くなったので後日にいたします。

 朝、TVで桜と菜の花の写真が出ていました。
 桜ももう満開、いつも町中の写真を撮るのですが、今年は何時になく多忙、したがって、写真も撮れません、かつて、昭和記念公園で桜と菜の花の素晴らしいコラボレーションの写真を取ってきました、ここに載せます。

   

 少し古いのですが、2007年4月7日に昭和記念公園で撮影したものです。