堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

平山郁夫&八ヶ岳山荘

2010年07月31日 | 日記

 昨年12月に亡くなった平山郁夫の美術館が甲斐小泉駅前にある。
 平山郁夫シルクロード美術館である。
 例年、キャンプで立川市の八ヶ岳山荘に行っているが、ここ2、3年行っていない。
 美術館では、奈良遷都1,300年を記念して行っている「シルクロードー奈良への道 平山郁夫展」と同時に、遺作となった作品の展示もあるということなので、八ヶ岳山荘の楽しみも兼ねて両方に行くこととした。    

     

 画伯が描き続けた仏教伝来の道、その終着点ともいうべき奈良・大和の姿・・・特に、遺作となった平城京の大下図には感銘した。継ぎ足しのための画鋲も押せない体力の中で細かく書き込まれた家並み等、その意欲と気迫に圧倒された。
 代表的なシルクロードを描いた、「絲綢の路 パミール高原を行く」「バーミアン大石仏を偲ぶ」、奈良を描いた「寧楽(なら)の幾望」「朝陽法隆寺」などの作品が展示してある。
 色彩と言い筆遣いと言い写真で見るのとは全然違う。

 美術館の直近に、日本の名水100選の一つで、武田信玄の遺跡としても有名な三分一湧水がある。その名の由来は、湧水を三カ村に平等に水を分けるものである。

     

 移動は小淵沢から小海線を使う。
 鉄道としての日本最高地点は清里と野辺山の間にある。
 小海線には、2007年7月31日から世界で初めて導入されたディーゼルエンジンと電動モータを使うハイブリット鉄道車両が走っている。

     

     

 八ヶ岳には、現在子ども会等で使われているバンガローが建てられた前の古い時代からきているが、本館に泊まったのは、本館が新築され、視察で来て以来である。
 殆ど初めてに近い。
 八ヶ岳は山岳地帯特有の気象現象で、度々夕立に会ったり、夜雨が降ったりした経験はあるが一日中雨だった事は殆ど記憶にない。

     


続真夏の多摩動物公園

2010年07月24日 | 日記

 昨日に引き続き真夏の多摩動物公園

 真夏の動物園ほど人気のないものはないのではないだろう。
 多摩動物公園は山の中にある、木陰に入れば幾分涼しいだろう。しかし、この日は無風状態。一陣の涼風も期待できない。
 動物達も・熱帯にすむものも全く動かない。暑さと湿気で全く無気力。
 人気がないのは当然。従って、お客もほとんどいない。そんな動物達を見るのもこれまた一興と出かけた。

 それでもインドサイは真夏の照りつける太陽のもとで、干し草を無心に食べていた。

     

 この日は、人気のあるアフリカ園は避け、アジア、オーストラリアを中心に見て回った。
 カンガルーもKO状態。

     

 水牛も巨体をもてあまし気味、炎天下の池は見るからに暑そう、お湯のようになっているのかも。

     

 穴熊は体が小さいせいか元気に動き回り、愛嬌を振りまいていた。

       

 多摩動物公園は野猿峠にある。
 野猿峠は多摩川の左岸の住民にとって結構関係があった。
 左岸は河岸段丘が迫っていたので多摩川の水を引くことができず、畑作であった。サツマイモの苗床を作ったり堆肥を作るために大量の落ち葉が必要であった。その供給地が野猿峠であった。

 先ほど多摩川の左岸と言ったが、立川市は多摩川の左岸なのか右岸なのか悩んだことがあった。
 毎年正月に行う「どんど焼き」のために国交省の京浜河川事務所に河川敷の使用許可申請を出さなければならない。申請書に使用個所を特定しなければならない。
 その時、海に向かって、つまり下流に向かって左が左岸、右が右岸ということが分かった。

 子供の頃、近所の農家の人たちと一緒に落ち葉掻きに野猿峠に行った。
 大人たちが落ち葉を集めている時に、子供たちには大きな楽しみがあった。
 ヤマユリの根や自然薯掘りである。
 ユリ根を掘るのは比較的簡単だが、自然薯掘りは大変である。木の根の中に深く成長している。途中で折らないよう、遺跡の発掘さながら神経を集中して作業を進める。
 できるだけ大きなものを他人に先を越されないようにしなければならない。
 それにはちょっとしたコツがある。
 ユリ根は花の数が多いほど大きく、自然薯は茎が太いほど長く太い。
 そこで、秋に山に行き、地上に出ている茎をむしり取ってしまい、適当に成長したものに自分だけが分かる印を付けておく。
 それを落ち葉掻きの時に掘りだしてくる。
 自然薯にはもう一つの楽しみがある。むかごである、塩ゆでにして食べたものである。今では、居酒屋で小皿に乗ってそこそこの値段が付いている。

 多摩動物公園の木陰のあちこちにヤマユリが咲き、良い匂いを漂わせていた。
 子供の頃の野猿峠を思い出させた。

      


真夏の多摩動物公園

2010年07月23日 | 日記

 かつて、旭川市を視察した時印象に残っているオランウータンの空中散歩を多摩動物公園でもやっていると聞き、真夏の暑い中での空中散歩見ようと行ってきた。

 旭山動物園
 
旭山動物園は今でも強烈な記憶が残っている。
 目的とする調査事項を終えると、その市が自慢できる施設に案内してくれるのが常であった。
 その日も、議会事務局の職員が旭山動物園に案内すると云う。
 当時は全国的に無名に近いものであり、今のように有名ではなかった。旭川市まで来て動物園はないだろうと、丁重にお断りしたが、再三勧めるので行くことにした。
 行ってみて驚いた。今、TVやマスコミで報道される旭山動物園のすごさをその時感じた。
 この動物園も旭川市が運営するもので、極めてありきたりなもので、入園者も少なく、当然の結果として恒常的な赤字経営であった。
 それを改革したのは園長の意欲と経営の能力あることは当然であるが、旭川市の行政の取り組み姿勢である。
 いま全国的に有名になっているイベントや事業、施設改善の原型はそのときすでに出来上がっていた。
 その中の一つにオランウータンの空中散歩があった。
 全国へ向けての情報発信を思い、東京の議員を照れていきたかったのである。

 旭川市の行政への取り組み姿勢
 その時の視察項目の一つは。日本で初めての恒久的な歩行者専用道路である、旭川平和買物公園でした。
 「平和」と名付けられた所以は、その道が「師団通り」と言われ、旭川が第七師団を要する軍都であった名残りです。立川が軍都から商都へ歩んだ道筋と共通のものがあった感じたことも視察先として選んだ理由の一つだあったのかもしれない。
 ほかにも意欲的な行政経営を示す施設がある。中原悌次郎記念・旭川彫刻美術館である。
 当時、彫刻のある街づくりを手掛けていた私としては是非見ておかなければならない美術館のひとつであった。
 日本彫刻界の第一人者の登竜門である中原悌次郎賞の受賞者の作品が多く展示されている。
 時間が無い中での視察であったので、朝4時に家を出て、旭川行きの一番機に乗り、旭川市役所を訪れる前にみてしまいたかったからである。

 多摩動物公園・オランウータンの空中散歩
 旭山動物園のものに比べても素晴らしい。勿論、野猿峠の一隅に作られている地の利は、そのロケーションという点で代えがたいところである。
 
 全長150メートルは世界最大とのこと、

    
              親子で空中散歩・・・まずは子供から

   
       続いて親が登場・・・・身長を比べてみてください

 空中散歩もさることながら、日常行動も面白い。
 旭山では食べ物等をケージの外に置き、棒などを見つけてきて、それを道具として使い見事に手元に引き寄せてします。
 動物園も炎暑の中であった。
 そのうち一頭がプラスキックの桶で池の水を汲み、

   

 手で水をすくったり、顔を入れて水を飲んでいたが、
 ついに頭からその水をかぶってしまった。

   

 一方、詩人か哲学者の如く、心頭滅却すれば火もまた涼しの心境で泰然自若としているのか、暑さが過ぎ去るのをただ待ち続けているのだろうか。

   

 猛暑の中の多摩動物公園の続編は近日中に掲載します。


遺跡発掘

2010年07月21日 | 日記

 先日、NHKアーカイブス「謎の都飛鳥京~よみがえる水の都」を見た。
 2001年7月に放送されたものである。
 放送の2年前の1999年6月に、約1000平方メートルの池を含む大庭園跡の全貌が朝日新聞をはじめとして多くの新聞やTVで報道された。
 当時のことはあまり覚えてはいないが、大規模な池のある庭園で、飛鳥時代を解明する一大発見であったことは印象に残っている。
 番組は約10年前の発掘の様子なので、現在は発掘調査もだいぶ進んでいるのであろう。

 明日香村を中心に石神遺跡、酒船石、亀石、石舞台古墳など様々な遺跡がある。興味があり一度は行ってみたいと思っている。
 奈良にはほかにもキトラ古墳、高松塚古墳などがあり、古代史を知る上で貴重な存在である。

 吉野ヶ里遺跡
私が発掘現場を実際にこの目で見た最初は佐賀県にある吉野ヶ里遺跡である。
 昭和61年、この地に工業団地造成計画が持ち上がり、埋蔵文化財保護法による文化財発掘のための調査を行った結果、58.3ヘクタールもの範囲に遺跡が広がっていることが判明した。
 私が行った時には全国最大規模の弥生時代環壕集落であり、膨大な数の甕棺、副葬品の銅剣、青色のガラスの管玉、この遺跡のシンボル的存在である物見櫓の柱の発掘現場など足にマメを作って見て回った。
 遺跡は発掘調査が終わり、建造物等が復元されて展示されていると面白さ和半減する。例え、発掘されたままで屋根等で覆われて展示されていても同じである。
 発掘途中であれば、柱の穴を見れば自分なりに建てられていたであろう建造物を想像し、ゴミ捨て場から出てきた木の実や魚の骨を見れば食生活を想像し、遺跡全体がどの程度の規模なのかを思い、古代のロマンに思いを馳せることができる。
 復元され完結しまった史跡は、勿論それなりの価値があり、面白いものではあるが、ただ土地の凹凸だけで、神経を集中して発掘に携わる人々の姿を見ると、吉野ヶ里であれば、弥生の時代にタイムスリップしたような気になる。

 吉野ヶ里遺跡が注目されたのは、日本の古代史で大きな論争のひとつである魏志倭人伝に出てくる女王卑弥呼の治める邪馬台国の九州説を力強く推し進める根拠の一つとしてクローズアップされた。

 当時、経済優先の考えは広く国民の支持を得ていた。
 吉野ヶ里遺跡も工業団地造成の勢いは強く、学術的調査が終了した段階で埋め戻し、遺跡は小規模なもので残し、大部分を工業団地にしようとの意見が強かった。
 ところが、学術的な観点からも多くの建造物、環濠等を復元し、後世に残すべきであるとの声も次第に強くなっていた。
 私を案内してくれたボランティアの人も熱意をもって訴えていた。
 それらの人の声が集まって今の公園がある。
 発掘途中の吉野ヶ里を訪れた者として、もう一回現地を見てみたい。

 三内丸山遺跡
 今では常識となっているが、当時の私の常識・世間一般の常識を覆してしまった遺跡発掘の現場がある。
 それは、青森市にある三内丸山遺跡の発掘現場である。
 吉野ヶ里遺跡が弥生時代の重要な遺跡であるのに対し、三内丸山遺跡は縄文時代の常識を覆す遺跡である。少なくとも私の縄文時代の概念をものの見事に覆してしまった。
 三内丸山遺跡の性格を決定付ける発掘は大方終わりの段階を迎えていた。
 幾つかの建物は復元され、想像の翼を広げるにはいささか時を逸していた、行くのが遅すぎた。発掘現場の素晴らしさをもう既に終わっていた。

 私の縄文時代の考えを大きく変えたものが数多くあった。
 その一つに技術力の高さである。既に漆製品が作られ、栗の木の大木で作られた六本柱の建造物、既に復元されていた大型竪穴式住居等々である。
 食べ物にこだわる私としては、縄文時代の豊かな食生活に驚かされた。
 狩猟・採取生活が縄文の時代かと思ったが、既に栗、豆等が栽培されていた。
 ゴミ捨て場からは、マダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメ類等の骨も見つかっている。
 縄文人の豊かな食生活がうかがい知れる。
 それら現物を見ることで古代のロマンに浸ることができる、
 このことはすべての事に共通する。現場の生々しさに接しなければ何事も始まらない。

     
     市町村総合体育大会閉会式会場の日野市民会館前の公園のくちなしの花