先日、NHKアーカイブス「謎の都飛鳥京~よみがえる水の都」を見た。
2001年7月に放送されたものである。
放送の2年前の1999年6月に、約1000平方メートルの池を含む大庭園跡の全貌が朝日新聞をはじめとして多くの新聞やTVで報道された。
当時のことはあまり覚えてはいないが、大規模な池のある庭園で、飛鳥時代を解明する一大発見であったことは印象に残っている。
番組は約10年前の発掘の様子なので、現在は発掘調査もだいぶ進んでいるのであろう。
明日香村を中心に石神遺跡、酒船石、亀石、石舞台古墳など様々な遺跡がある。興味があり一度は行ってみたいと思っている。
奈良にはほかにもキトラ古墳、高松塚古墳などがあり、古代史を知る上で貴重な存在である。
吉野ヶ里遺跡
私が発掘現場を実際にこの目で見た最初は佐賀県にある吉野ヶ里遺跡である。
昭和61年、この地に工業団地造成計画が持ち上がり、埋蔵文化財保護法による文化財発掘のための調査を行った結果、58.3ヘクタールもの範囲に遺跡が広がっていることが判明した。
私が行った時には全国最大規模の弥生時代環壕集落であり、膨大な数の甕棺、副葬品の銅剣、青色のガラスの管玉、この遺跡のシンボル的存在である物見櫓の柱の発掘現場など足にマメを作って見て回った。
遺跡は発掘調査が終わり、建造物等が復元されて展示されていると面白さ和半減する。例え、発掘されたままで屋根等で覆われて展示されていても同じである。
発掘途中であれば、柱の穴を見れば自分なりに建てられていたであろう建造物を想像し、ゴミ捨て場から出てきた木の実や魚の骨を見れば食生活を想像し、遺跡全体がどの程度の規模なのかを思い、古代のロマンに思いを馳せることができる。
復元され完結しまった史跡は、勿論それなりの価値があり、面白いものではあるが、ただ土地の凹凸だけで、神経を集中して発掘に携わる人々の姿を見ると、吉野ヶ里であれば、弥生の時代にタイムスリップしたような気になる。
吉野ヶ里遺跡が注目されたのは、日本の古代史で大きな論争のひとつである魏志倭人伝に出てくる女王卑弥呼の治める邪馬台国の九州説を力強く推し進める根拠の一つとしてクローズアップされた。
当時、経済優先の考えは広く国民の支持を得ていた。
吉野ヶ里遺跡も工業団地造成の勢いは強く、学術的調査が終了した段階で埋め戻し、遺跡は小規模なもので残し、大部分を工業団地にしようとの意見が強かった。
ところが、学術的な観点からも多くの建造物、環濠等を復元し、後世に残すべきであるとの声も次第に強くなっていた。
私を案内してくれたボランティアの人も熱意をもって訴えていた。
それらの人の声が集まって今の公園がある。
発掘途中の吉野ヶ里を訪れた者として、もう一回現地を見てみたい。
三内丸山遺跡
今では常識となっているが、当時の私の常識・世間一般の常識を覆してしまった遺跡発掘の現場がある。
それは、青森市にある三内丸山遺跡の発掘現場である。
吉野ヶ里遺跡が弥生時代の重要な遺跡であるのに対し、三内丸山遺跡は縄文時代の常識を覆す遺跡である。少なくとも私の縄文時代の概念をものの見事に覆してしまった。
三内丸山遺跡の性格を決定付ける発掘は大方終わりの段階を迎えていた。
幾つかの建物は復元され、想像の翼を広げるにはいささか時を逸していた、行くのが遅すぎた。発掘現場の素晴らしさをもう既に終わっていた。
私の縄文時代の考えを大きく変えたものが数多くあった。
その一つに技術力の高さである。既に漆製品が作られ、栗の木の大木で作られた六本柱の建造物、既に復元されていた大型竪穴式住居等々である。
食べ物にこだわる私としては、縄文時代の豊かな食生活に驚かされた。
狩猟・採取生活が縄文の時代かと思ったが、既に栗、豆等が栽培されていた。
ゴミ捨て場からは、マダイ・ブリ・サバ・ヒラメ・ニシン・サメ類等の骨も見つかっている。
縄文人の豊かな食生活がうかがい知れる。
それら現物を見ることで古代のロマンに浸ることができる、
このことはすべての事に共通する。現場の生々しさに接しなければ何事も始まらない。
市町村総合体育大会閉会式会場の日野市民会館前の公園のくちなしの花