堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

続今年の重大ニュース

2010年12月31日 | 日記

 今朝、大変なことを忘れていたことに気が付いた。1月9日のどんど焼きのポスター、各町会に配るということである。
 「今年の重大ニュース」を書いている時である。
 あわてて中止した。
 中途半端になってしまっているので続きを書くこととした。今は夕方である。
 ブログは新しいものが先に来てしまうので、内容は後先になってしまう。

 尖閣諸島の問題である。

 問題点の三つ目は、公務執行妨害容疑で逮捕・送検された中国漁船の船長が処分保留で釈放された件である。
 当初は、検察が独自の判断で決定したと発表された。
 誰もが、釈放それ自体もおかしいが、検察が外交関係を判断の根拠にしたことに対し、あまりに政治的で、検察が独自に取るべきはずがないと考えた。当然、裏で政府の力が働いたと考えるのが自然である。
 検察に対する指揮権を持っているのは法務大臣であり、政府であるからである。国民に真実を語らなかったところに問題がある。 

 四つ目は、現在を象徴する今日的問題点である。
 情報それ自体と情報伝達手段のデジタル化の問題である。
 画像情報がアナログであればその媒体はフィルムであったりヴィデオテープであり、それを持ち出すことは困難である。従って、情報が拡散することはかなり難しい。
 加えて、情報伝達手段としてインターネットを使えば瞬時に世界中に情報が伝達される。

 インターネットは、もともと軍事的攻撃から通信網を守る為に米国国防総省が開発したものである。つまり、特定の箇所を攻撃しても通信網は守られる、安全の分散がその特徴である。

 今回の、尖閣諸島の情報流出事件は情報のデジタル化がもたらす危険性、セキュリティー、情報管理の難しさを端的に示している。
 

 


今年の重大ニュース

2010年12月31日 | 日記

 年末になると、新聞各社が今年の10大ニュースを発表する。
 その中で今年を象徴する事件は、各紙の上位に位置する、尖閣諸島の中国漁船の衝突事件であろう。

 この事件の中には、現在から今後にかけての課題や問題を多く含んでいる。

 第一に中国の変化である。今年中国は、国内総生産・GDPで日本を抜いて世界第2位になった。

 近時、中国の世界のなかでの姿勢が強硬化し、自己主張が強くなり、世界の評判を気にしなくなった。
 その一つの表れが、これも今年の重大事件の一つであろうが、ノーベル平和賞を中国の人権活動家劉暁波
が受賞し、その授賞式に家族をはじめとし、関係者の出席を国が阻止し、授賞式の前日に孔子平和賞を創設し、その授賞式を行うと言う行動に出た。

 中国国内で起きた、対日デモも、中国国民の対政府批判に起因するところも大きい。
 中国の権力内部での変化、どちらかと言えば親日的である胡錦濤に対し、対日批判派の習近平氏の台頭などの国内事情もある。

 余談であるが、今、NHKで放映中の坂の上の雲の日露戦争も当時の大国ロシアに勝利したのも共産革命が起こったというロシアの国内事情が大いに関係している。

 尖閣諸島漁船衝突事件も、この中国の変化の一つの表れではなかろうか。
 従って、これらの状況を十分理解したうえで、日本は対中国外交での対応が問われる。
 

 これが第二の問題である。
 つまり、民主党内閣の外交姿勢であり、外交能力である。
 今年は、外交問題でいくつかの問題がった。
 沖縄普天間基地問題のなかでの日米合意、ロシア大統領の北方四島公式訪問、拉致問題等々。

おせち

2010年12月27日 | 日記

 今、年賀状を印刷している、時間があるのでブログを書くこととした。

 年賀状にこのブログのことを書いておいた、何人の人が見てくれるか楽しみでもある。
 今年、20代前半に、お世話になり、それ以来50年近く、賀状のやり取りだけで、全くお会いしていない方から、ブログを見たとのメールをいただいた時には感激した。と同時に、たった1通の年賀状が果たす意味も大いに感じた。

 今日、近くまで行ったので、デパ地下に行ってみた。
 年のせいか、おせちにあまり興味がなくなった。
 特に、きんとんだとか伊達巻など甘いものは昔から弱い。
 正月だからと言って、昼間から酒を飲むのはあまり好きではない。
 しかし、何時もだと、どうしても酒を飲みだすのは遅い時間になってしまう。やはり正月だとやや早い時間から飲み始める。
 酒の肴には、手間がかからず、家族全員で楽しめるので、近年、鍋が多くなってきている。
 特に、今、キムチ鍋が多い。野菜でも肉でも魚でもなんでも入れられる。
 市販のキムチ鍋のもとを買ってきて使っている。辛いのが好きなので、韓国料理店の「たんぽぽ」キムチを入れて作る。
 元日はお雑煮をいただくが、もちは我が家の非常食である。災害用だけではなく日常的に食べている、お雑煮も例外ではない。
 三が日でもキムチ鍋の残った汁に冷ご飯を入れて、おじやを作って食べる。
 寒い朝、起きぬけにそのおじやを食べると、体が温まり、活力が湧く。怠け者の節季働きで、暮れに仕事をやり残してしまうので、正月にやる羽目になってしまう。

 昨年は、30日に買い出しに行ったところ、鮮魚売り場はおせち料理のオンパレードで、鍋に入れる魚は皆無に等しく、2日に買い物に行ったのを覚えている。
 現在は、肴の保存技術が優れているので、暮れも正月もないが、やはり、気分的に暮のうちから仕入れておいた方がいい。
 明日、行くことにした。

 


有馬記念

2010年12月26日 | 日記

 今日は有馬記念、このレースだけは毎年買う。
 三連複を買ったが、11は買えない。
 ギャンブルは殆どやらない。
 三十代まではパチンコはやったが、今の機械ではとてもやる気がしない。

 昔、本当のギャンブルとは、ほとんど偶然性に左右されるものだということを聞いたことがある。ルーレットにしても丁半賭博にしてもそうである。

 その点から考えれば、競馬や競輪は色々考える余地があり、データを基にした推理を働かせることができる。
 しかし、偶然性もかなり高い。

 もともと私の性格からいって、データを集め、推理し一定の結論を出すことは嫌いではない。
 やり始めれば深みにはまるのが目に見えているのでやらないようにしている。

 買わないが、競馬を見るのは好きである。
 特に、TVが液晶に代わってからは、馬体の美しさは見事である。鍛え抜かれた機能美はまさに芸術作品である。
 競輪に比べ、その華麗さは比較にならない。

 競輪・競馬、いわゆる公営競技は厳しい。
 特に競輪は全国的な傾向からしてかなり厳しい。立川市でも嘗ては競輪財政でかなり潤っていた。

 もともと戦後復興の財源として認められたのが公営競技・公営ギャンブルである。その使命を果たした後は、都市基盤の整備に大いに役立った。
 もし、仮に、赤字に転落するようなことになり、一般財源を使うようになれば、何のための競輪かということになる。
 終止符を打つにしても、従事員の問題も含め多額の費用が掛かる、当然、幕引きの準備をしているであるが、市民に対しては何の説明もなされていないのではなかろうか。
 


続年賀状

2010年12月25日 | 日記

 昨日、ブログを書いている途中で電話が入り、イブの巷に出かけた。帰宅を急ぐ人たちが手に手にケーキの箱をぶら下げているのを見て分かったのだが。

 住所録の整理もまだ途中であり、今日も年賀状作りを続けなければならないので、ブログも昨日の続きを書く。

 年賀状を虚礼であるとか儀礼的なものなので止めるという人もいる。確かに、中にはそれに類するものもある。
 しかし、
それが仮に木で鼻をくくったような、パソコンソフトにあるものをそのまま使ったものであっても、その人の心の中に自分があり、無事だあったかどうかは分からないが、一年を締めくくり、新たな一年に向かて出発したことだけは確認できる。

 しかし、古希を迎える今、今年いただいた年賀状を見てみると、中学校、小学校時代の友人で大人になってから一度も会っていない人、仕事や地域でお世話になったが、転勤などで地方に行かれた人、定年で退職されその後まったく会っていない人など多くの人から賀状をいただいている。
 大変に懐かしく感じる。これも年のせいなのであろうか。

 訃報や喪中ハガキをいただく度に、生前お会いしておきたかったと思う人が多い。

 今年こそは多くの方にお会いしてみたい。

 いただく年賀状の中に、全く感動しないものがある。
 それは議員からの年賀状である。
 議会報告という形をとっている。形式的には年賀状ではない、しかし実質的には年賀状である。

 このことで議員を責めることはできない。
 法律が悪いのである。
 公職選挙法は選挙区内の有権者に年賀状を出すことを禁止している。
許されるのは返事を手書きで出す場合だけである。
 理由は「売名行為」に当たるからだという。
 確かに、資金力のある議員は電話帳から無差別に名前と住所を抽出して、大量の年賀ハガキを郵送することができる。資金力によって不公平になるからだという。

 従って、議会報告に名を借りた年賀状は、脱法行為となる。

 選挙民は賢明であり、はがき一枚に左右されない。私は公職選挙法の改正を行うべきであると思う。

 私は、現職時代、法律を厳守し、立川市内には年賀状を出さなかった。
 その理由は、法律が正しいと考えていたからではない。
 脱法的年賀状を受け取るとき、有権者の気持ちは、私の本意とは逆に売名行為と感じる恐れがあったからである。

 遠方の人に年一回の賀状で疎遠を詫び、今後とものお付き合いをお願いするのは許されるが、国会議員は別として、狭い立川市内の支持者の方に一年間全くお会いせずに年賀状だけで済まそうとすることが果たして許されるのであろうか。

 私は、骨身を惜しまず、我がことのように応援してくださる支持者の方々には、その旨の挨拶文を印刷した「議会報」を持参し、年末のあいさつに回り、年始には、正月用のそれと右肩に「謹賀新年」を朱色で印刷した手製の名刺を持参し、元旦から年始回りをした。
 1月4日は俗に「坊主のお年始」と言い、皆家にいるので、休んだ。
 新年会も2月の初めまで行われるので、1月いっぱい年始回りを行った。暮れから正月は死ぬほど忙しかったのも、今となれば懐かしい思い出である。


年賀状

2010年12月24日 | 日記

 年賀状は今年こそ元旦に着くようにしたい。これが今年の願望であった。
 ようやく今日から準備を始めた。
 まず、名簿の整理を始めた。

 喪中のハガキが数枚着ている。ご両親の場合は、天寿を全うした方がほとんどである。
 つれあいをなくされた方は悲しさもひとしおであろう。何れどちらかが先に亡くなるのであろうが、人生を感じさせられる。年末の悲しみの一つである。
 親しくお付き合いをいただいていた方については、葬儀に出席し、お別れをし、それなりに気持ちの整理ができている。
 嘗ては、人生の一コマに切磋琢磨したり、様々な面でご指導をいただいたり、激励したりと深いつながりがあった方が亡くなった旨の知らせは残念であり悲しい。


PDF

2010年12月23日 | 日記

 今まで、PDF作成ソフトととして、アドビのアクロバット7エレメンツを使っていたが、64ビットPCでは動かない。
 買い換えようとビックカメラに行ったが、アドビでは低価格商品はもう販売していない。
 PDFファイルの作成だけで十分であり、ほかの使い方は、他のソフトを使い十分仕事ができるので、高価なものは必要がない。

 地域のHPを立ち上げているので、ワードで作った情報などはそのまま送ってもらって、変換してアップしているので、PDF作成ソフトは必要である。

 とりあえず今回はお金をかけずに、フリーソフトを使ってみることとした。
 上手く動かなければ、その時は適当なソフトを買おうと思っている。
 フリーソフトは、定評のあるキューブPDFにした。

 PDFをそのままの形でアップするのも能がないので、jifかjpegに変換している。

 たまたま、雑誌売り場の日経PC21を見ると、PDFの特集記事が載っていたので、これを機会に勉強してみようと思って買ってきた。
 今晩、酒を飲みながら読んでみよう。
 
 


酒粕と熱燗の季節

2010年12月22日 | 日記

 ネットでたまたま、酒粕の効能について、NHKの「ためしてガッテン」のページが出てきた。
 健康に良い食品であることが書かれていた。いろいろあるが、コレステロールを減らす作用があるという点に注目した。
 その主役は、レジスタントプロテインという食物繊維の一種だそうだ。
 このレジスタントプロテインは油と結合しやすい性質があるとのこと。食物繊維の一種なので、消化されずに小腸まで行き、余分な脂やコレステロールと結合し、体外に排出する作用があるとのこと。

 食物繊維の一種なので便秘にも効果があるそうだ。

 私も健康診査の結果、他の高齢者の例にもれず、善玉コレステロールが少なく、悪玉コレステロールが多いことが分かリ、薬を飲み始めている。その結果今は正常値になっているが、薬を止めればわからない。
 この冬は、酒粕で作った甘酒に日本酒を少量入れて飲むこととしよう。

 酒粕の使い方は、数汁、粕漬け、甘酒の代用品ぐらいしか調理法は思い浮かばないが、そこでは思いもよらない味の料理が出来ることが紹介されていた。
 番組はアンコール放送されたそうである。興味のある方はHPをご覧になることをお勧めする。

 現在の酒粕は以前より味がよくなっているとのこと。その理由は、日本酒の醸造技術が発達して、雑味をとる為の工夫がなされているとのこと。従って、抽出された成分が酒粕に混ざり複雑な成分構成となるためだそうだ。

 酒粕で甘酒の代用品を作るのは、至って簡単なことである。酒粕を水に溶いて、砂糖と少量の塩を入れ温めれば、出来上がりである。
 イベントなどでよく作る。
 錦町では、来年1月の9日に恒例の「どんど焼き」を多摩川の河川敷で行う。かつては酒粕の甘酒は定番の飲み物であった。
 松飾は取れたとはいえ小正月前である。正月気分は抜け切れたいない。そこで、大人たちが本物のお酒を入れてしまう。そうなれば当然子供たちは飲めない。酒お入れなくとも、もともと酒粕には約8パーセントほどのアルコール分が残っており、煮立ててアルコールを飛ばしたといっても、においは残っている。従って、子供たちにとっては、人気がいまひとつない。
 今は、甘酒に変わって、コーンスープになっている。

 私は本来日本酒党である。
 日常的には値段や健康を考え焼酎を飲んでいる。
 味わいや酔い心地を考えると日本酒が最高である。

 同じ醸造酒のワインも捨てたものではない。ワインは味と表現してよいのかどうかわからないが、渋みや酸味、こく、香りなどが、作られた国や地方、ブドウの種類等による微妙な違いや大きな違い、その両方が楽しめる。

 本来の日本酒党として、今どきの日本酒には大いに不満がある。
 日本酒離れが進み、蔵元は大いに悩んだのだろう。
 日本酒離れの大きな原因の一つに、そのにおいがあると思う。日本酒が嫌いな人は大体においを嫌う、特に、熱燗のそれは敬遠する。
 その結果、吟醸や大吟醸酒のように冷やして飲む、冷酒がもてはやされるようになった。
 おいてある酒の種類も、常温や冷やして飲む種類は多いが、熱燗で旨い酒の種類は極めて少ない。
 また、雑味を嫌う傾向があり、すっきりした味を好む結果、深みのある日本酒が姿を消しつつある。

 気の置けない人と秋の夜長や寒い冬の夜、気の利いた肴を味わいつつ、渋い陶器の器で一献傾け、語り合うのは、正に、至福のひと時である。
 余談だが、「気の置けない人」と言ったら、油断のならない人と解釈され、閉口した覚えがある。「情けは人のためならず」ほど誤解はされてはいないが。

 正月は、旨い日本酒をいただくこととしよう。


師走の今

2010年12月21日 | 日記

 前から比べて忘年会の数は減ってきている。
 すぐに新年会があり、同じ顔ぶれが集まるので、暮れの忙しい時の忘年会はだんだん減ってきていつのであろう。
 今年もいくつかの忘年会に出た。
 新年会と比べてふと思ったことがある。
 新年会は規模も大きくどちらかと言えば、忘年会と比べて儀礼的、形式的なものが多いような気もする。
 例外もあるが、忘年会の方が人数も少なく、人間関係も濃密な間柄のものが多いような気がする。
 一年を振り返り、新年に思いをはせるという意味で、正に、望年会という感もする。

 新しい年の抱負もきっちりと今年を顧みることから始まるのであろう。
 総括なくして新出発はない。後十日で今年も終わる。師走の慌ただしさに紛れて流されてしまってはならない。

 来年の手帳や日記帳が店頭に並んでいる。
 TV番組でユニークな手帳術を垣間見た。
 「情報は一冊のノートにまとめなさい」~100円でつくる万能「情報整理ノート」~(奥野宣之著・株式会社ナナ・コーポレート・コミュニケーション発行)という本を読み、自前のノートを作り、使っている。
 師走の日程管理をしっかり行うためと来年のために、新たな自分だけのノートを作ろうと試行錯誤を始めた。
 現在も手書きとPCを連動させてはいるが、更に機能的で、データーとしての保存性も兼ね備えたものとしていきたい。
 しっかりした情報管理は密度の濃い日常生活に密着するからである。
 来年、確かな離陸ができるためには、師走からの助走が必要不可欠であるからである。
 


暑・・・今年の漢字

2010年12月20日 | 日記

 財団法人日本漢字能力検定協会は毎年の世相を表す漢字一字を発表している。
 今年は「暑」である。
 夏の酷暑、いつまでも続く残暑などの自然現象、チリの鉱山の落盤事故で地下700mの熱暑中から全員無事に救出されたころ、小惑星探査機「はやぶさ」が地球再突入の際1万度の高熱に耐え無事帰還を果たしたこと、白鵬の双葉山の連勝記録に今一歩まで肉薄したりバンクーバーオリンピックなどスポーツで熱くなったことなどが理由で「暑」が選ばれた。

 ともに人に起因するものであるが、歓迎されるものとされざるものがある。
 異常気象は地球の未来を危うくするもので、深刻である。

 そんな時、日本語 表と裏で 松尾芭蕉の「秋ちかき心の寄るや四畳半」という句に出会った。
 「秋ちかき心」とは、大津の医師木節の庵に集まった、近づいた秋を感じとる心の持ち主のことである。
 この句はそういう人たちが自然と庵に集まったさまを見事に描き出している、と著者は言う。

 確かに夏から秋に移り行く感じは夏の思い出への感傷と澄んだ空気、紅葉の素晴らしさへ、読書の秋に象徴される意欲的なすがすがしさをもっている。
 しかし今年は、夏がいつまでも続き、途端に寒くなるという感じであった。
 「秋ちかき」という感じはまったくしなかった。
 日本の四季はグラデーションのようにいつの間にか春や秋になるという穏やかな変化が情緒を誘い、四季の素晴らしさを感じさせたものである。
 うろこ雲、秋風とともに気温の微妙な変化に季節の移ろいを感じるのである。
 これからは俳句の世界でも変化が現れるのかもしれない。

 気象の変化は情緒的なものだけであれば我慢もできるが、野菜の高値などの社会問題や地球破壊に向かう前兆現象であればことは深刻である。
 環境破壊を食い止める微々たる努力でもしていかなければと感じる。