泉市民体育館に、遠藤洪平六の「情熱・躍動・飛翔」と言う彫刻がある。
元は違う場所にあったが、モノレールが作られるときに現在の場所に移された。
何も考えずに、壁際に追いやられたという感じである。
体育館に来た人も気が付かない人が多いのかもしれない。
私はこの作家の作品を他に見ていない。
牛浜の駅にあるそうだが、今まで知らなかった。牛浜は以前よく降りた駅だが。
機会があったら見てみたい。
泉市民体育館に、遠藤洪平六の「情熱・躍動・飛翔」と言う彫刻がある。
元は違う場所にあったが、モノレールが作られるときに現在の場所に移された。
何も考えずに、壁際に追いやられたという感じである。
体育館に来た人も気が付かない人が多いのかもしれない。
私はこの作家の作品を他に見ていない。
牛浜の駅にあるそうだが、今まで知らなかった。牛浜は以前よく降りた駅だが。
機会があったら見てみたい。
柳通り商店街に節電キャンペーンを展開している旨のポスターが店頭に貼ってある。
柳通り商店街は、JR立川駅の北口を降りて、線路に沿って東側にある。
街路には様々な愛称がついている。
立川に住んでいても「柳通り」の名前の由来を知っている人は少ないのではないだろうか。
想像の域を出ないのであるが、私が子どもの頃、あまりきれいでない、どぶ川の様なものが線路沿いに流れており、その端に柳の木があった。そこで、柳通りと名付けられたのではなかろうか。
現在は、柳通りをまっすぐに東に進むと、立川通りに降りる階段にぶっつかる。立川通りに降りずに直角に右に曲がると中央線の下を通る地下道となる。
昔、川はどこに流れていたのだろうか。今から思うと疑問である。
子どもの頃、南から北に抜けるには、踏切を渡った。
錦町から曙町に行くのには、当然、駅には自由通路はなかったので、柳通りに抜ける以下道の真上あたりにあった踏切を渡った。
柴崎町から曙町に行くのには、諏訪通りを直進して、同じように、地下道の上にあった踏切を渡った。
当時、東の踏切、西の踏切と呼んだいた。
しかし、中央線と立川通りがどのように交差していたのか全く記憶にない。
踏切の記憶もないので、中央線の下を通っていたのであろうが、柳通りの川がどのように流れていたのか、どこに流れていたのかもわからない。
立川通りについては、子どもの頃の強烈な記憶がある。
米軍が、当時、進駐軍と呼んでいた、ブルドーザーやグレーダーや見たことも名前も分からない重機をを使って、道路工事を行ったことである。
舗装道路等ない時代、見る見る間に見事な舗装道路が出来上がった。
軍事的理由で他の施設と結ぶ幹線道路として、占領直後のことだと思う。
現在でも、立川で南北を結ぶ唯一の幹線道路である。
当時、4歳か5歳であったので、大きな機械がものすごい勢いで働いているのが面白かったのである。
米軍の工兵からチョコレートであったと思うが、何かお菓子の様なものをもらった。
甘いものに飢えていたので、それも楽しみの一つで、毎日、飽きもせず見に行っていえた。
柳 通 り
古川隆久著『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』(中公新書)を買った。
昭和天皇を通して、昭和、特に、第2次世界大戦の顛末を知ろうと思った。
先日、城山三郎の「落日燃ゆ」を見た。原作も読んだがあまり記憶にない。
文官として唯一人死刑判決を受けた。城山三郎は、従来の広田弘毅像に新たな解釈を加えた。
この小説を読んで、私が、考え方を変えた人物がいる。それは吉田茂である。世間での吉田茂に対する考えは様々あるが、米軍占領下における首相としての考え方や行動には一定の評価を与えたい。
「落日燃ゆ」に描かれた広田弘毅に対しては、同情こそすれ、評価するには躊躇する。
結局、政治家には厳しいようだが、結果責任が問われる。
歴史上の人物の実像に迫ることは、実に難しいと思う。
残された、文献や、史料をどう解釈するかにある。文献や資料自体もその人が置かれた状況で悪意のものや、逆に故意に賛美されたものなどが混とんとまじりあっている。あるいは、故意に抹殺されてしまっている。
立場の異なる、多くの人の著作を読み、判断するしかない。
昭和天皇に対してもそうである。
昭和天皇について書かれたものを読むのは初めてである。
錦六公園で毎年の恒例行事である「ラジオ体操」が行われた。
夏休みはどこの家庭も色々な予定がある。
子ども会行事も日程的に制約される。夏休みが始まったばかりの時期は、比較的に無難である。
従って、ラジオ体操も今頃である。
何年続いている行事なのだろう。私も、小学生時代に参加した記憶があるが、場所については忘れてしまった。
場所は錦六公園。昨日までの盆踊りの提灯のもとで。
ラジオ体操の会場を後にした。
カワセミの様子も知りたかったので、根川緑道に行くこととした。
カワセミが一羽飛んできたが、直ぐにいなくなってしまった。
カワセミの生態はよく知らない。夏の朝、7時前後に、いつもの場所にいることが分かっただけでも収穫である。
土手を降りて見上げると貝殻坂橋があった。
ちょっと違ったアングルで写真に収めた。
根川緑道は、詩歌の道とも言う。
所どころに歌碑がある。この橋のすぐそばにもある。
私自身、短歌・和歌は俳句ほど親しみを持てないが、これを機会に、根川の下流から上流に向かって、気の向くまま紹介していきたい。
この歌は、「立川連合短歌会」の創設者でもある八木下禎治の歌碑である。
「日の色の 寒き川原に ひらめける
芒(すすき)の そよぎ 声のごときもの」
冬の多摩川の様子を読んだ歌であろう。
土曜日、日曜日納涼盆踊り大会を行った。
今年は節電の意味も含めて、午後6時開始、8時終了とした。
計画の段階で、日のあるうちから始めたのでは、との声もあった。終わりも8時では早すぎるのではないかと。
特に、誰からも不満の声は聞かなかった。反省会でどんな声があるか。
子ども達主体の行事であることを考えると、早く終わるのも良いのかもしれない。
良好な地域コミュニティーの形成が、防犯や防災、町の安全・安心にとって欠くことのできない要素である。
青少年部や体育部の多くの人たちにお手伝いをいただいた。
浴衣を着飾った子どもたちとともにお父さんやお母さん方も多く参加された、今後の町会活動への参加に期待する。
模擬店もゲームも楽しんでもらったことであろう。
偶然に、「建築探偵の冒険 東京編」と言う本を見つけた。
著者は藤森照信、ちくま文庫である。
その中に「看板建築」と言う一項があった。
昭和レトロの建築物に興味がある。そのうちの一つが看板建築である。
命名者は建築史が専門の本書の著者である。路上観察学の面でも著名である。
ちなみに本書は「サントリー学芸賞を受賞している。
何日か前に、復興小学校のことを書いたが、看板建築も関東大震災直後に建てられたものである。
看板建築は、軒を出さずに、平坦な前面に銅板等で装飾を施したものであり、二階建て以上の木造の商店である。
この建物は、小金井公園にあるものである。
だいぶ前に、神田の古本街では多く見かけたような記憶があるが、もうしばらく足を運んでいないが、今はどうなっていることやら。
今月、「東日本大震災の被害を踏まえた学校施設の整備に関する検討会」が緊急提言を行った。
学校施設が災害発生時の地域の中核施設であることは論を待たない。
従って、中核施設としての安全性の確保と機能の強化が求められている。
この提言は、「学校施設の安全性の確保」「地域の拠点としての学校施設の機能の確保」「電力供給力の減少等に対応するための学校施設の省エネルギー対策」の3章からなっている。
一読しただけで、詳細な検討をした訳ではないが、日頃から気になっていることを書いてみたい。
我が地域の第一次避難場所は三小である。
耐震診断を行い、補強工事も行った。
少なくとも、倒壊の恐れはないであろうとは思う。しかし、確実に安全なのであろうか。提言にもあるとおり、構造部材の被害により、応急避難場所として使えなかった学校もあったとのこと。
また、天井や照明器具、体育館のバスケットゴール、窓ガラスなどの非構造部材の安全性。
これらに問題があれば、余震等による第二次被害も予測される。
安全・安心と対で語られるが、両者の関係は微妙である。
単に、耐震診断を行い、耐震補強工事も完了した。そのことを、単純に信じれば安心していられる人もいよう。
逆に、全て完全に行われていたとしても、行政への不信や、猜疑心の強い人は、そうは思わないであろう。
大事なことは、いかなる診断が行われ、いかなる対応がなされたかが、明示されることであろう。
情報が開示され、それを的確に判断しすれば。客観的に安全であり、主観的に安心できる。
今回の大震災で、スピードの問題が論議されている。
6月の立川市議会定例会でも、一般質問等で防災問題を多くの議員が取り上げている。一般質問の性質上、散発的で、非体系的である。
以前このブログで、まちづくりについての特別委員会が、特別委員会の本旨にそぐはないものであることを指摘した。
今回の大震災を教訓に立川市の防災・減災対応が適切なものであるかどうかを、集中的に審議し、一定の結論を早急に出すべきである。
正に、特別委員会はそのためにある。6月議会で設置すべきであったにも拘らず、その機を逸したことは誠に残念ではあるが、9月議会で設置し、防災・減災に対する議会意思を明確にすべきである。
これも、議会改革の眼目であると言ってきている、通年開会を早急に実現すべきである。
今回の検討会の緊急提言も次回の定例議会が開かれる9月までは議論できない。
山種美術館のすぐそばに広尾小学校がある。
美術館の帰りに寄ってみた。
是非、見たい小学校の一つである。理由は、関東大震災後に行われた、小学校復興事業の末期に建設されたものだからである。所謂、復興小学校である。
広尾小学校は、歴史のある学校で、大正5年4月1日に開校した。
関東大震災で被害を受けてしまった。
復興に当たり、東京市は、学校を災害発生時の避難場所として、都市計画上で位置づけた。
震災当時、東京市立の小学校は195校あり、殆どの小学校が被害を受けた。
従って、倒壊や火災に強い鉄筋コンクリート造りとし、公園を併設すというようなことも行った。
広尾小学校には消防署を併設した。現在は消防署はないが、望楼はある。
復興小学校として建設されたものは117校に及ぶ。
当時の東京市が小学校を地域の防災拠点として重要視していたかがうかがい知れるというものである。
復興小学校のデザインは凝ったものがあるが、広尾小学校は復興事業の後半の昭和7年であったので、デザイン性は後退し、わずかに玄関部分がデザイン化されている。
同校は、登録有形文化財として文化庁より指定を受けている。
なお、同校建設に当たって、子爵であった、土岐章の財政的支援も受けたとのこと。近くにあった土岐氏の邸宅は郷里の沼田市に移築されている。
一見に値すると思う。
単に防災拠点としてだけではなく、昭和の建築物としての価値をもっている。
当時の東京市の行政の文化性も垣間見たような気がする。
他にも、復興小学校の初期の段階のものには芸術的に見ても優れたものも多いようである。
幾つか見てみたい。
旅をする機会は少なくなったが、身近なところに意外なものがある。
NHKの東山魁夷特集の中で紹介された「年暮る」がどこの美術館にあるか探した。
山種美術館の所蔵であり、今、正に「美しき日本の原風景」と題する特別展で公開されていることが分かった。
この一点だけ見れればと、思いながら、詳細を見ると、特別展の他の作品にも魅力的なものが多かった。
早速、昨日行ってきた。
平成23年、もうすぐ古希を迎える。昭和も遠くなった。変わりゆく日本の姿、そんな中で、日本の原風景を探し求めている。
この展覧会は、的確に答えてくれた。
特別展の構成は、「美しき原風景」「風景画の流れ」「富士を描く」の三章からなっている。
第1章の「美しき原風景」は、川合玉堂、奥田元宋、東山魁夷、横山操が中心である。
川合玉堂は御岳に美術館があり、奥多摩に行った折、何度か立ち寄っており、なじみの作家でもあリ、好きな作家でもある。
今回は20点もの作品が展示されている。全て山種美術館の収蔵品。
今回のお目当ては、言うまでもなく「年暮る」。
ところが、そこには意外な情景があった。魁夷の描く京都の四季があったのだ。「春静」「緑潤う」「秋彩」「年暮る」の4作である。20年の歳月をかけて完結した。それを目の前にして感動した。夏の「緑潤う」もその色彩の素晴らしきこと。
横山操の「越路十景」も全作品を見ることができた。
10の作品を全て見ることで、横山操の故郷への思いを感じた。
横山操は昭和48年に53歳で亡くなった、新潟出身の画家であり、今回初めて知った。当然、作品も初めて見た。他の作品も見てみたい。
奥田元宋の「玄溟」の赤が素晴らしい。「奥入瀬・春」も対照的で面白い。今回の特別展で唯一の個人蔵で山種美術館以外の作品。
奥田元宋も初めて出会った作家。広島県三次の出身の作家だそうだ。
第2章「風景画の流れ」の中では、出展目録に出ていた、広重・近江八景の内の「三井晩鐘」がなかったのは残念。
富士の絵では、横山大観の「霊峰不二」。教科書等では見ていたが、実物を見るのは初めて。
伊東深水が不二を描いていたのには驚いた。青が印象的。
地方に行ったときには、時間をこじあけ、コースを苦労し、可能な限り美術館を観た。
しかし、一番集積している地は東京。
あまりに見ていない。特別展を漁り、見ていきたい。
今回知ったのだが、恵比寿ガーデンプレイスに日本では数少ない、写真と映像を中心とする「東京都写真美術館」があることを知った。
自己流で写真を撮っているので、機会を作って、是非行きたい。
山種美術館は、正面の大きなビルの地下にある。
適当な広さで、丁度良い。今回は、厳選された作品、疲れずに全作品を堪能できた。
山種美術館は山種証券の創業者、山崎種二氏が収集した美術品を主に展示する美術館。
帰りは、炎天下の中、渋谷まで歩いた。
一期一会という、そんな大げさなわけではないが、又、再び訪れるのは、何時になるかわからない。そんな事で、目的地の周りの雰囲気や人々の生活、歴史を知りたくて、散策する。
渋谷は、地名に「谷」の字があるとおり、昔は川が多く流れていた。今は地下に潜伏してしまっている。
現在残る、数少ない川が渋谷川である。
写真を撮った場所は、神奈川県から多摩川を渡り、猿楽塚から、ここで渋谷川を渡り、青山学院から千駄ヶ谷を抜け東北に達する鎌倉道と言う軍道が通る橋の上である。
立川市の八ヶ岳山荘を予約した。
8月はほぼ一杯いで。ようやく1日とれた。キャンセルがあって開いていたとのこと。
何故か、今年は予約が多かったみたいである。
丸々1日ゆっくりできないのは残念であるが仕方がない。
去年は丸々1日雨にたたられ、全く外に出られなかったので、今年こそはと思っていたが、今年もあまりゆっくりできない。
そこで、今年の目的の一つに、小諸に一泊し、小海線を小諸から乗ることにした。
今まで、キャンプなどで行ったとき、鉄道の日本最高地点は何回も行っているが、小海線全線を乗ったことはない。
グーグルの地図には、小海線を八ヶ岳高原線としてある。
真夏の高原をローカル線でゆっくり旅するのも一興であろう。
もともと、私は地方に出たとき、郊外であろうと都市部であろうと各駅停車で行くのが好きである。
ゆっくり走る、電車の車窓に流れる景色を眺めていると日頃の憂さを忘れ、心が豊かになる。
旅に出て、文庫本や新聞を読んでいる人の気持ちが分からない。
気ぜわしい現代人にとっては、時間がゆっくり流れ、のんびりとした旅はリフレッシュのために必要なのではなかろうか。
近頃のテレビ番組で、路線バスやローカル線の旅を扱ったものが多いのも、そんな理由があるからではなかろうかと思う。
丁度、青春18きっぷが使える時期なので、それを利用する。
1枚余るので、日帰りの旅を考えている。どこになるかわからないが、真夏の暑い時期ならではの計画を立てたい。
去年の、八ヶ岳山荘から見る、雨に煙る景色。