堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

津波を受けなかった地域の被害状況

2011年03月17日 | 地方自治

 阪神淡路大震災から15年、錦六会でも至誠学舎との合同防災訓練を実施したばかり。

 錦六会でも、自主防災組織の強化を中心にして防災対策の見直しを始めている最中。
 安全安心マップの作成の基礎資料作りのための街歩きも実施したばかり。

 今回の災害の特色は想像を絶する津波、原発事故であろう。
 従って、報道はそれらを中心としてなされるのは当然であろう。

 阪神淡路大震災の時は、地震発生後1週間の後、ささやかな救援物資をもって、現地に行った。特に、三宮等の市街地、大火災が発生し、焼け野原と化した長田、競輪で友好関係にあった西宮市など。
 また、避難場所となった学校、公園、自衛隊の救援の実態。

 もし、立川で同程度の地震が発生した時どうなるのだろうか。
 そのことをイメージしながら、報道を見ている。津波は当然ない、火災も、気仙沼のようにコンビナートの油や、長田のようにゴム製品の中小の製造工場もない、その態様は立川独自のものとなろう。

 阪神淡路大震災が起こって15年と言う事をきっかけにして、その教訓について資料集めを開始したばかり。
 津波の影響がない所での被害の実態はどうなっているのか気になる。
 破壊された家屋等の建造物からの生存者の救出についても、今回の津波の場合は、単なる地震による家屋の倒壊と異なり、流され、位置関係はめちゃくちゃになっている。津波の影響が無い所ではどうなっているのだろうか、ほとんど報道されていない。
 避難所経営についてはいかなる所においても共通していると感じた。安否確認、情報の収集発信も同様。

 情報発信については、防災行政無線に問題ありと言いたい。このことは、現職の頃再三主張してきたことだ。
 内容が聞き取れない。防災行政無線の情報を無視すれば問題がない、しかし、正確に理解できず誤解してしまった場合、デマなどの原因になり、混乱を生じることの方が怖い。
 抜本的見直しが必要となろう。

 計画停電の情報を「見守りメール」で発進したことは評価できる。

 防災訓練も同様で、訓練のための訓練になっていないか考え直す機会にすべきである。

 近所の庭先に、小さな可愛い花が咲いていた。名前は分からない、誰か教えてください。

     
 


議員報酬と会期

2011年03月05日 | 地方自治

 昨日、名古屋の市議会議員選挙が告示された。
 様々な論点・争点のある選挙であることに間違いはない。

 議員報酬についてもその削減の是非について争われている。
 名古屋の問題についてはその実態を知らないので高すぎるのか低いのかの判断はできない。

 報酬の問題は地方議会改革の大きな論点の一つであることに間違いはない。
 しかし、今回の名古屋市議選では、報酬についての本質的な議論はなされず、情緒的で感情的な言動と単純な市民感情に支配され、本当の結論は出ないだろう。

 議員や地方議会の本来のあるべき姿を十分に理解しないで、報酬の高さを指摘し、削減を叫ぶ人が多いような気がする。
 私も現在の大方の地方議会の姿では議員報酬との関係で問題ありと言いたい。

 先日、NHKの朝のニュースで、地方議会改革で議員報酬について放映された。その中で福島県の矢祭町の議員報酬日当制が紹介されていた。

 議員は専業であるべきなのか、兼業でよいのか、ボランティアでもよいのではないかとの議論がある。
 地方自治体の規模、財政規模などそれぞれ異なり、それに従って結論は異なると思われる。
 正に、地方主権の問題であり、その自治体によって議員と職業との関係を決めればよいと思う。全国一律に論じることは間違いであると思う。
 従って、矢祭町の日当制について当否を決することはできない。

 立川市について言えば、兼業やボランティアではとても議員としての使命を全うできない。
 勿論、議員を市民の手足と考え、単なるパイプ役で市民のニーズや要求を単に行政に伝達するだけであれば、それでよいだろう。
 それに類する議員も確かに存在する。

 兼業議員も決して否定はしない、24時間365日議員活動に専念でき、議員を片手間と考えない人の場合のみではあるが。

 しかし、議員とは、本来、政策立案能力を有し、市民の真の幸せのために、議会で議論し、行政をリードしていく立場にある。
 議員提出議案として条例を制定し、或いは、市長提案の議案を修正する、新たな政策施策を提言し具現化していく等二元代表制の機能を発揮していかなければならない。

 行政と対峙していく場合、相手の市職員は行政のプロである。
 議員は、それに対抗していけるだけの力がなければならない。知識を蓄積し、最新の質の高い情報をできるだけ多く収集していかなければならない。
 時間がいくらあっても足りない、兼業やボランティアではまず無理である。
 議員が単なる名誉職の時代は遠い昔に終わっている。

 一般に報酬の高低を論じる場合、仕事の質と量と報酬の額が見合っているかどうかが問われる。
 私は、残念ながら見合っていないと考える。従って、報酬は高すぎると思う。
 しかし、報酬の引き下げには絶対に反対である。

 議員は、地方主権を具体化するためには極めて重要な役割を果たさなければならない。地方議員にはその使命がある。

 議会改革の大きな論点の一つに会期の問題がある。

 これは議員報酬の額とも大きな関係がある。
 1年12か月で、定例会が開かれる期間は4か月である。
 会議等で拘束されている時間を基礎に時間給を算出すれば大変な額になるだろう。
 これに対する反論は様々言われる。

 多くの市民に会い、要望や要求、不満を聞き、行政と折衝しその解決にあったていると。
 また、来たるべき議会に備え、情報・資料の収集や行政が行っている事務や事業のチェックしていて、決して遊んではいないという。
 確かに、真面目な議員は24時間365日市や市民のために活動している。このことは決して否定はしない。

 しかし、本来の議員や議会の使命や権利権能と照らし合わせて果たしてこれで十分と言えるのだろうか。という疑問が起こる。
 本来議員とは議会が働く場であり、力を発揮するところであり、使命の場である。

 結論から言えば、市議会の通年開会制である。
 変化のスピードの激しい現代、三か月に一回しか定例会を開かない。しかも委員会は長くて一日。議員自らの権利放棄とも言える委員会での時間制の導入、これで市政を変えられると思っているのであろうか。

 会期の問題は、地方自治法ではなく、条例である。立川市の条例さえ変えれば、明日からでも実現可能である。
 しかも、条例制定権は議員自らの権利であり、権能である。

 いきなり通年開会制が無理ならば、他にも方法がある。
 一番簡単な方法は懸案事項を調査する特別委員会を利用すれば、市議会閉会中も審査できる。
 方法はいくらでもある。要は、議員や議会のやる気の問題である。

 議会があまり機能していない原因の一つは有権者の側にもある。
 市民が議会を注目していないという事実である。議会に対し無関心で、議会がいつ開かれ、何を決めたのか、議員が何を発言し、何をしているのか全く知ろうとしない。

 私も現職時代に有力な支持者からよく言われた。「議会で発言し、活躍しても、有権者は見ていないし、一票にもつながらない。それよりも家の前に街灯を付けたり、道路の穴を埋めた方が票につながる」と。
 議員は当選しなければならないという至上命題がある。従って、常日頃から選挙を意識している。
 駅頭で朝の挨拶などはその典型である。駅頭に立っているだけで「良くやっている」と評価する。これでは地方自治体の未来は暗い。

 市民、住民も鋭い視線で議会を監視し、次の選挙で厳しい判断をすべきである。
 これが地方主権を具体化させることができる道であろう。


縁とは

2011年03月02日 | 日記

 録画リストを見ていてふと気が付いた。
 撮りっぱなしで未だに見ていない録画がたまっている。
 その中に無縁社会についてのものが二本ある。

 「無縁社会」は西欧ではなんというのであろうか。
 英語ではinvolvementを使うのであろうか。

 「縁」とはもともと仏教からきた言葉であり、日常的にさまざまな形で使われている。
 「縁は異なもの味なもの」「縁もゆかりもない」等であろう。

 この「縁」という言葉が象徴的に使われている例として「袖すりあうも多生の縁」というのがある。
 「多生の縁」と正確に書ける人はどのくらいいるのだろうかと思う。特に若い人は。「多少」と書く人が多いのではなかろうか。
 「袖すりあう」のも、その人と少しは縁があるからだろうと解釈されがちである。
 本当は、袖すりあったその人とは、前世で縁があり、今世で袖すりあうという結果が出たと言う事である。

 縁という言葉には哲学的に深い意味がある。
 無縁社会という言葉の裏には、日本的、東洋的な人間関係が言い表されているような気がする。
 企業形態も日本型からアメリカ型に変化してきている。そこからさまざまな問題も起き、今再び日本型企業形態、経営形態が見直されてきている。

 「縁」で思い起こされる言葉に「縁側」というのがある。
 「縁側」というと、今の若い人は、多分、すしネタのヒラメの縁側を思い浮かべるだろう。
 都会育ちの若い人は建物の「縁側」での体験を知らない人が多いのではなかろうか。

 家の内でもなければ外でもない、その中間で曖昧な場所が縁側である。
 日常的な付き合いでは、玄関からではなく縁側から家の中に入る。
 そこに、日常的な人間関係が生まれ、近所づきあいが円滑に進行する。
 地域の結びつきも、当然に濃密になる。
 防犯上の観点からは、現在の様な壁で厳然と外界を遮断した建物の方がよいに決まっている。
 しかし、玄関という公式の入り口から入るより、気軽に縁側から家に上がる方がより自然な人間関係が築かれるのではないだろうか。
 個人と地域の関係にも影響してくるのではなかろうか。