奥山の頂には古く朽ちた祠がある。
この時期は雪に埋もれて見えなくなってしまってるが・・・。
下々の村に棲むひとたちの自然への畏怖と、信仰心が遺した記念碑でもある。
神や仏だと騒ぎ始めるはるか以前から、この国には太陽を見上げて暮らす民が、あちこちに暮らして居った。
仏教や神教や異教やではなくって、原始の宗教心とはそんなものだった。
メンドクサイしきたりや慣習や形式にはとらわれず、ただ太陽に手を合わせて暮らして居った。
人の居ない奥山に登る愉しみには、そんな朽ち果てた祠に出会う、そういうこともある。
銀座にも、古いお稲荷さんがあったりする。
その土地の売買をやっている。
建築基準法上の再建築不可の狭い間口、閉鎖謄本を調べても築年数の定かではない木造の、その後に増築もしている建物、その建物の所有者は意思表示の出来なくなってしまったお婆さん、権利証書はどこかに紛失してしまい、息子を成年後見人にして売買を行うが、敷地にあるお稲荷さんを撤去することが買主の条件になっている。
こういう場合は、一般的にはそのお稲荷さんから魂を抜く作業をする。
神主を呼んで魂を抜き、お稲荷さんを壊して撤去する。
この現代でも、みな祟りや怨念を怖れ、やりたがらない。
結局は、俺みたいな周旋屋がやることになる。
相続人どうしの話し合いから、いろんな障害を取り除いてゆき、お稲荷さんとも会話をしなければいけない。
行き先を失ったお稲荷さんが彷徨うものならば、俺の店の俺が入ってる神棚に入ればエエやんけ。
みな愉しい神々だ、仲良くしようではないか、そんなこと。
昨今の不動産取引は単純化されつつあるが、むかしの不動産バブルの頃はややこしい案件は多かった。
そこで生まれる利益よりも、関わった以上はなんとかしようと蠢き回るのが周旋屋。
賃貸専門の不動産屋や、投資専門の不動産屋なんぞは単細胞な煽り営業ばかりで喰ってるが、こういうややこしい取引ばかりやってる周旋屋も、この現代には居る。
泥にまみれ、陰湿な地面を見つめてる。
こういうことばかりやってるから、絶景の山々から下界を見渡したくなる。
俺もさ、30年近くもそう想ってる、古びて朽ちた銀座の周旋屋なんだろうな・・・。