8時間を超える手術の最中に全身麻酔を追加して、翌日、まだ激痛と後遺症で吐き気と眩暈、幻覚を見るような酷い状態だったが、それでも10歩くらいは歩いた。
車椅子を看護師に押して付いてきてもらって、ベッドから立ち上がるだけでも大変だったが、それでも歩いた。
それから最短で退院を目指して、毎日一日中、夜中に目が醒めてもトボトボと歩いた。
ボ~っとしてる時間はない、その分だけ身体は駄目になる、そう想っておった。
チューブを突っ込んである腹部からダラダラと血液が流れ出てきておったが、関係なしに歩いた。
動かさなければ駄目になる、動かして治す、これはガキの頃から身に付いてる処方だったろう。
毎日いろんな面会人が来ても、病室ではなく面会室まで歩いた。
凄まじく目だけギラギラした夜叉のような顔をして面会しておった。
手術1週間後の深夜、歩いて横になると、男根が勃起した。
腹膜炎も起こし、ボロボロになった腸があちこちの臓器に癒着して、不能になると言われておったものが、カチカチになった。
痛みを堪えて射精してみると、鮮血が飛び散った。
・・・こりゃ~まだあかんわ・・・
苦笑いで報告した主治医や看護師は、笑うしかなかった。
・・・じきに正常になりますよ・・・
2週間で銀座の店に出たが・・・あれは癌でもうダメだろう・・・同業の若い衆は陰口を叩いておったことも、キチンと俺の耳に入っておった。
体重は15キロくらい減っておった。
そこから5カ月間、傷の後遺症と合併症に苛まれたもんだが、シャワーの湯さえ飛びあがるような激痛で、右向きでしか眠れない日が続いておっても、仕事は普通にこなし、3カ月目くらいから里山歩きを始めた。
・・・もうええか・・・諦めかけた命だったが、死ぬまで生きようとすることが俺の生だと考え、とことん戦うつもりになった。
車を運転しておっても、揺れの振動で激痛が走ってる頃だ。
治療中の毎日交換の簡易パウチのまんま、幼稚園児の団体に追い越されながらも、重いザックを背負って、ポールをついてトボトボ、ぜーぜー歩いて山頂まで辿り着いておった。
5m進んでは休憩、10m進んでは座り込み、亀にも抜かれる・・・そんなスピードだった。
傷口は痛かった。
眺めは良かったが、痛みの方が勝っておった。
大量に出されておった薬は、ぜんぶゴミ箱に捨てた。
次はもうエエわ、これで駄目なら終わって良い、腹の底からそう想った。
温泉にも浸かり、温水プールで歩き泳ぎも始めた。
退院半年目に、2000mの山に戻った。
同行者には 先に頂上で待っててくれ! そう伝えた。
みっともない姿は見せたくなかった。
頂上直下の急登では、一度に3mくらいしか登れなかった。
肺が破裂しそうだった。
良いだとか悪いだとかではなく、意地になってた。
・・・赤鬼みたいな顔してたよ・・・
なんども重いザックごと滑って転んで、なんども繁みに仰向けに倒れ、休憩をとりながらの山頂だった。
これは今でもはっきり覚えている、目頭が熱くなった。
景色に感動したのではなかった。
そんなことは初めてだった。
転び過ぎて、全身、傷だらけだった。
それが自信になって、1か月後、外房の海に泳ぎ出た。
沖で波にプカプカ浮いて流され、心地いい、生きてるという実感がはっきりとあった。
この想いを忘れずに、残った時間を過ごしていたいと、それだけを想った。
体重は退院した頃と較べると、3年後のいまは20キロは増えている。
なにを喰っても美味いから、しかたない。
カチカチの筋肉も戻り、いぜんよりも気合が入ってる分、ガタイは良くなった。
176cmで75キロ、2Lが3Lになっているから、下着からすべて買い替えている。
そのまんま、山を歩き続けている。
海でも泳ぎ続けている。
仕事も続けている。
身体にフィットしないパウチを使ってる頃は、大量の汗を全身にかき、激しい岩場を登り切って、腹のパウチが剥がれてしまったり、漏れや剥がれは日常だった。
タオルで剥がれた箇所を押さえながら下山したことも、一度や二度ではない。
すぐに小蠅や蜂やアブやらが寄ってきて、人間ウンコみたいになっておった。
綺麗な沖縄の海や外房の海で泳ぎ潜った時も、剥がれてしまって、小魚が寄ってきて、人間漁礁みたいになっておった。
・・・もう、おとなしく生きて居れば??
よく周囲からは言われたもんだが、退院後の5か月間の苦しみは何の為?? 冗談じゃ~ね~よ。
ただ、人生60年、男の色気だけで生きて来たエロ親父には辛いことだった。
その後にいまのパウチと出会い、すべてが解決した。
今じゃ~、どこに出掛けてもだ~れも障害者と見てくれなくなった。
いろんなことがあった60年だけんども、この3年間も、いろんなことがあったよ。
もう3年になる。
これがオストメイトの本当の姿だ。
辛気臭いオストメイトの苦労話など嘘ばかり、その辺の健常者には負けやせん。