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ちゃこ花房~本日も波瀾万丈~

前向きに生きています。
健康で楽しく生活できたらそれが一番
周りの人たちを、元気にできる自分でいたい。

長男の留学(10)

2023年02月17日 | 留学
1997年の3月末、 小学校を卒業した12歳の長男はシドニーへ留学するため日本を経ちました。 彼のシドニーでの留学期間は、UTS(シドニー工科大学)を卒業するまで11年に及びました。 かれこれ25年前の話です。



   親子の決意

  
当時3年生と4年生の次男と三男のこと
    
できれば、小学校の教育は、日本で受けさせたい。
日本語の文法をちゃんと身につけさせなければと強くおもっていたし、
日本語も、英語も中途半端になるような気がしていた。
 (ここは、夫婦で意見が一致)

母子4人で向こうに行くのは、弊害が多すぎる。

夫婦で、散々話し合った。時には大喧嘩になったし、夫にたいしては、身勝手なエゴだとなじった事もある。
そこまでして留学させる必要があるのかなと
中学校を卒業してからでも良いんじゃないの?と。

夫はこうと決めたらひかない性格で、
わたしはわたしで筋金入りの頑固ものだ。

それでなくても口論、議論はエネルギーが要るというのに。

環境さえ整えば、留学は悪い話ではない。
最終的には、本人に選択させようということになった。
途中で挫折しても、それはそれでいいのでは、
その時は帰ってくればいいのだから、と
本人にその気があればやらせてみようかな?
精神的なフォローを、夫婦でやっていけば
なんとかなるだろうと。
わたしも次第に気持ちが傾いていた。
なんだかんだいって、今にして思えば、わたしと長男は夫にはめられたのじゃないかなと思う。

当の本人は、というと
休みの多い現地の学校生活に、魅力を感じてしまったようだ。
それに親元を離れて暮らす事の寂しさを、当時は想像できなかったのだと思う。
それともう一つ、父親の期待に応えたいとい気持ちが長男はとても強かったのだ。

こうしてその年の(1996年)の秋頃から、
急きょ留学にむけて、留学にむけての準備をが始まった。

そんなに時間がないぞ!


私がシドニーに来るのを、指折り数えて待っていた長男
当時長男は、とにかく二人で出かけたがった。
学校が終ると二人でシドニーの街を歩き回った
「僕の両親は、日本の両親だけだ」と、ホストファミリーに心を開くことはなかったという。

「兄ちゃんが可哀想」とよく泣いていた三男

年子の2人
野生ザルを飼ってるようだった
次男は「僕は絶対留学はしない❗ママが行っても僕はカップラーメンを食べて日本で暮らす」が口癖だった。



ホームシックにかかっていた長男
夫がオーストラリアへ行き、2人で旅行へ
涙が出てくる写真です。
まだ12歳なんだよ〰️💦😭💦

毛がある頃の夫。
40代前半
キャンプは息子たちにサバイバルを教えるためのもので、木々を拾い集め火起こし、テントの建て方を小さい頃から教えていた夫。
冬のスキーは朝から夕方まで滑り
夕飯後、ナイタースキー。
アイスバーンで滑ってた男4人


兵庫県
久美浜でキャンプ
私、真っ黒‼️やん💦😭💦

木陰が全くない海でのキャンプ、色白で肌が弱い私にとってキャンプは、日焼けが辛かった。
背中は水脹れができるほどの日焼け、と言うより火傷だ!
その後シミとなる。
もうここでのキャンプは嫌だ‼️と思った。

猛暑だったこの年のキャンプはハードだったのを覚えている。
早朝、ビニールボートから釣りざおを垂らしてキスを釣り、焼いて食べたのが、最高に美味しかったのを皆よく覚えている。

夏休み、冬休みはかならず日本に帰国していた長男にとって家族5人でいられる夏のキャンプ旅行と冬のスキー旅行は楽しくて楽しくて仕方なかったようだ。
シドニーへ帰る日が近くなると、わたしと長男は目を合わせられなくなってくる。
別れが辛いから。







コメント (2)
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