四季を通じて人の心持ちを浮き浮きさせる春ですが、春の花…… なんてえことを申しまして、まことに陽気でございます。
「銭湯(せんとう)で上野の花の噂(うわさ)かな」
花見どきはどこへ行きましても、花の噂で持ちきり……
「おう、昨日、飛鳥山へ行ったが、大変な人だぜ。仮装やなんか出て面白かった」
「そうかい、花はどうだった?」
「花? さあ…… どうだったかな?」
してみると、花見というのは名ばかりで、大概(たいがい)は人を見に行くか、また騒ぎに行くようで……
「よう、おはよう。さあさあ、みんな長屋の者はちょっとここへ揃ってくんねえ。いやね、みんなを呼んだのは他でもねえが、今朝、みんなが仕事に出る前に家主(おおや)の所へ集まってくれという使いが来たんだ」
「何だい、月番」
「さあ、行ってみなけりゃ分からねえが、ていげいは見当はついている」
「何だろうな。朝っぱらから家主が呼びに来るのは、ろくなことじゃあねえぜ」
「店賃(たなちん)の一件じゃあねえかな」
「店賃? 家主が店賃をどうしようってえんだ」
「どうしょうってことァない。催促だってんだよ」
「店賃の? ……図々しいもんだ」
「図々しいったって…… おめえなんぞ、店賃のほう、どうなってる?」
「いや、面目ねえ」
「面目ねえなんてところをみると、持ってってねえな」
「いや、それがね、一つだけやってあるだけに、面目ねえ」
「そんならいいじゃねえか。店賃なんてもんは、月々一つ持っていくもんだ」
「月々一つ持ってってありゃ、ここで面目ねえなんて言うことはねえ」
「そりゃそうだな。先月のをやったのか、一つ?」
「なに、先月のをやってありゃあ、大威張りじゃねえか」
「じゃ、去年一つやったきりか?」
「去年一つやってありゃあ、何も驚くことはねえ」
「すると、二、三年前か?」
「二、三年前なら、家主のほうから礼に来るよ」
「よせよ。いってえおめえ、いつ持っていったんだ」
「俺がこの長屋へ引っ越して来た時だから、指折り数えて十八年にならあ」
「十八年、仇討ちだな、まるで…… そっちはどうなてる? ……おめえはこの長屋の草分けだが店賃のほうはどうなってる?」
「ああ、一つやってあるよ」
「いつやったね」
「親父の代に」
「上手(うわて)が出てきたね。 ……そっちはどうだ、店賃…… 」
「へえー、こんな汚い長屋でも、やっぱり店賃を取るのかい?」
「おうおう? 出さねえでいいと思ってんのか。酷え奴があるのんだ。 ……おいおい、お前さんはぼんやりしているが、店賃の借りはねえだろうな?」
「え、ちょっと伺いますが、店賃というのは何のことで…… 」
「おやおや、店賃を知らない奴が出て来やがった。店賃というのは、月々家主の処へ持って行くお銭(あし)だ」
「そんなもの、まだ貰(も)ったことがねえ」
「あれ、この野郎、店賃を貰う気でいやがる。どうも、しょうがねえ。一人として満足に店賃を払ってる奴がいねえんだから…… まま、これじゃあ、店立(たなだ)て(家主が借家人を追い立てること)ぐれのことは言うだろう。
けれどもな、ものの分かる面白い家主だ。ああいう家主に金を持たせてやりてえなあ」
けれどもな、ものの分かる面白い家主だ。ああいう家主に金を持たせてやりてえなあ」
「そうよ。そうすりゃあ、ちょいちょい借りに行ける」
「おーやおや、店賃を払わねえ上に、借りる気でいやがる。ま、ともかく、みんな揃って行くだけは行ってみようじゃねえか」
「家主さん、お早(は)うございます」
「え、お早うございます」
「え、お早うござい」
「お早う」
「お早う」
「おいおい、そんなに大勢でいっぺんに言うと、煩(うるさ)くていけねえ。一人言やあいい、一人」
「ええ、それでは、あっしが月番でございますから、総名代で、お早うございます、と」
「総名代が一番後から言っちゃあ、何にもならねえ」
「お言いつけどおり、長屋の連中、揃って参りましたが、何かご用でしょうか?」
「何だ、そんな戸袋(とぶくろ・敷居の端)のところへ片間(かたま)って…… そんな遠くから怒鳴(どな)ってねえで、もっとこっち来な」
「いいえ、ここで結構です。すみませんが、店賃のところは、もう少し待っていただきたいんですがねえ…… 」
「ははは、俺が呼びにやったので店賃の催促と思ったのか。しかし、そう思ってくれるだけでありがてえな。今日は店賃のことで呼んだんじゃあないよ」
「そうですか。店賃は諦(あきら)めましたか」
「諦めるもんか」
「まだ未練があるな…… 割りに執念深い人だね。物事は諦めが肝心だあ」
「おい、冗談言っちゃあいけねえ。雨露をしのぐ店賃だ。一つ精出して入れて貰わなくちゃ困る…… まあ、いいからこっちへ来な。実はな、お前さんたちを呼んだのは他じゃない。いい陽気になったな。表をぞろぞろ人が通るじゃないか…… 」
「何所(どこ)へ行くんですかねえ?」
「決まってるじゃないか。花見に行くんだ。うちの長屋も世間から貧乏長屋なんていわれて、景気が悪くってしかたがねえ。今日は一つ長屋中で花見にでも行って、貧乏神を追い払っちまおうてえんだが、どうだ、みんな」
「花見にねえ…… で、何所へ行くんです?」
「上野の山は、今が見どころだってから、近くていいから、どうだ」
「上野ですか? すると、長屋の連中がぞろぞろ出かけて、花を見て一回りして帰ってくるんですか?」
「歩くだけなんて、そんな間抜けな花見があるもんか。酒、肴(さかな)を持ってって、わっと騒がなくっちゃあ、せっかく行った甲斐(かい)がねえじゃあねえか。なまじっか女っ気のねえほうがいい。男だけで繰り出そうと思うんだが、どうだい?」
「酒、肴…… ねえ、そのほうは?」
「そのほうは、俺がちゃんと用意したから安心しな」
「へえー、家主さんが酒、肴を心配してくれたんですか?」