江戸時代、ちょん髷(まげ)という、海苔巻きのようなものを頭につけていた時分には、町内の若い衆が、髪結床(かみゆいどこ・今でいえば、床屋のこと)へ集まって、一日中、遊んでいた。
床屋で遊ぶというのはおかしいが、ここは、四畳半とか六畳ぐらいの小間(こま・小部屋のこと)があって、将棋盤に碁盤、貸本のようなものが備えてある。
看板も今と違っていて、油障子に奴(やっこ)の絵を描いたのが奴床、天狗の下に床の字が書いてあると、これが天狗床、おかめの絵の下に床の字がついていると、おかめ床という具合に……
「おいおい、ご覧よ」
「あの海老床の看板、よく描けたじゃねえか。海老がまるで生きてるようだな」
「え?」
「あの海老、生きてるな?」
「いや、生きちゃあいねえや」
「生きてるよ」
「生きてるもんか。どだい、絵に描いた海老だよ。生きてるわけがねえだろ」
「いや、生きてるよ。見てごらんよ。髭(ひげ)を、こう、ぴーんとはねて…… 確かに生きているよ」
「嘘を言え。死んでらい」
「生きてるってのに…… こん畜生! 殴るぞ!」
「何をっ!」
「おいおい、お待ち、お待ち。お前たちは、何だって喧嘩してるんだ?」
「へえ、ご隠居さん。今ね、この髪結床の障子に描いてある海老が、実に良くできてるんで、まるで生きてるようだと言いますとね、この野郎が『死んでいる』と、こうぬかしやがる。
ねえ、ご隠居さんがご覧になって、あの海老は、どう見えます? 生きてるでしょう?」
ねえ、ご隠居さんがご覧になって、あの海老は、どう見えます? 生きてるでしょう?」
「生きちゃいないなあ」
「ざまあみやがれ! 生きてるわけがねえじゃねえか。ねえ、ご隠居さん、死んでますよね?」
「いや、死んでもないな」
「へえー、生きてなくて、死んでもねえっていうと、どうなってるんです?」
「ありゃ、患(わずら)っているな」
「患ってる?」
「ああ、よくご覧よ。床についている」
「誰だい。向こうでの隅で、壁に頭をおっつけて本を読んでいるのは。銀さんかい…… 銀さん、何をしてんだい?」
「うん、今、本を読んでいるんだ」
「いったい、何の本?」
「戦(いく)さの本」
「ほーう、何の戦さだ?」
「姉さまの合戦」
「え? 変な戦さだなあ。姉さま?」
「あの、本多と真柄(まがら)の一騎討ち」
「ああ、それなら姉川の合戦じゃないか?」
「ああ、それ…… 」
「そりゃ、面白そうだな。本を読むなら声に出して、読んで聞かせておくれよ」
「だめ」
「どうして?」
「本てえもんは、黙って読むところが面白い」
「そんな意地のわりいこと言わねえでさ。みんなここにいる奴は退屈しているんだからさ、ひとつ読んで聞かせておくれよ」
「じゃあ、読んでやってもいいが、そのかわり、読みにかかると止まらなくなる」
「そんなに早えのかい?」
「立て板に水だ」
「へえー」
「さーってやっちまうよ。途中で聞き逃してもおんなしとこは、二度と聞かれねえからな」
「そうかい、じゃあ、そのつもりで聞くよ」
「静かにしろ」
「うん」
「動くな」
「うん」
「息を止めろ」
「冗談言うない。息を止めりゃ死んじまわな」
「よし、始めるぞ。 ……えー、えーえーッ」
「ずいぶん『え』が長いね」
「柄が長いほうが汲みいいや。 ……ううゥ ……ん」
「何だい、うなされているようだな」
「いま調子を調べているところだ…… ひと…… ひとつ…… ひとつ…… ひとつ…… 」
「何だい、いつまでたっても、一つだね。二つになんねえかい?」
「黙って聞きなよ…… ひとつ、あね、あね、あね川かつ かつせん、のことなり」
「何だか、あやまり証文(詫び状のこと)みてえだな。『一、姉川合戦のことわりなり』から、始められちゃかなわねえ。本多と真柄の一騎討ちのところから読んでくれよ」
「じゃあ、真ん中から読むよ。 ……えへん、このとき真柄ッ」
「調子が上がったね」
「ここんとこから二上がりになる」
「お後は?」
「このとき、真柄じゅふろふさへへ…… さへへ…… さへへ…… 」
「おいっ、どこか破れてるんじゃねえのか。お前のは『立て板に水』じゃねえ、『横板にモチ』だよ。 ……そりゃ真柄十郎左衛門だろ?」
「ああ、そうだ、そうだ。 ……で、どうなるんだい?」
「お前が読んでいるじゃあねえか」
「ああ、そうそう。 ……真柄十郎左衛門が、敵にむかつ…… むかつ…… むかついて…… むかついて…… 」
「おい、誰か金だらいを持ってこいよ。むかついてえから…… 」
「何を余計なことをするんだよ。ここに書いてあるからよ…… 敵にむか…… ああ、むかって…… だ」
「ああ、心配したぜ。向かってなら分かるが、むかついてって言うからよ」
「戦さなんてものは、両方の大将がむかついて始まるもんだ。 ……敵に向かって、一尺二寸(約37.8cm)の大太刀を…… まつこうッ」
「おい、松公、呼んでるぜ」
「まつこうッ」
「何だい?」
「何で、そこで返事をするんだ?」
「今、お前、松公ッて呼んだろう?」
「違うんだ。本に書いてある。 ……敵に向かって。真ッこう…… だ。真ッこう、あ、あ、じょうだん、に、ふり、ふりかぶり…… 」
「何だい、だらしがねえなあ。ところでお前。 ……一尺二寸の大太刀を真っ向、大上段に振りかぶり…… って言ったけど、一尺二寸といえば、こんなもんじゃあないか、真柄十郎左衛門といえば、北国随一の豪傑だぜ。長えから大太刀だろう? 一尺二寸の大太刀ってえのはないだろう?」
「横に断わり書きがしてあらあ」
「何としてあるんだ」
「もっとも一尺二寸は刀の横幅なり」
「え? 横幅かい? しかし、そんなに横幅があったんじゃあ、振り回した時に向こうが見えなくなるだろう?」
「ああ、それだから、また、断り書きがしてある」
「また、断り書きかい?」
「うん、 ……もっとも、振り回した時に、向こうが見えないといけないから、所々に窓をあけ…… 」
「へーえ、こりゃ驚いた。刀に窓が開いてんのかい?」
「ああ、この窓から覗いては敵を斬り、窓から首を出しては、本多さんちょいと寄ってらっしゃい…… 」
何を言ってやがるんだ。もうお止しよ。そんなばかばかしいものを聞いていられるかい」
「どうしたい、みんなで銀さんをからかったりして…… 」
「からかってるんじゃない。逆にからかわれちまった」