半公が語ります。
「それから、大きな声で、『音羽屋!』、『音羽屋!』、『音羽屋!』」
「それから、大きな声で、『音羽屋!』、『音羽屋!』、『音羽屋!』」
「うるせえな、この野郎」
「のべつに膝(ひざ)を突っつくんだよ。ここが忠義の見せどころだと思ったからね。夢中になって、『音羽屋!』、『音羽屋!』てんでやってると、周りの奴が笑ってやがる。女が俺の袖を引っ張って、『もう幕が閉まりました…… 』」
「間抜けな野郎だな。幕の閉まったのも気がつかねえのか?」
「俺もばつがわりいから、『幕!』…… 」
「馬鹿っ、幕なんぞ褒めるなよ」
「そのうちに、女がふたありで、何かこそこそ喋っていたが、『どうぞ、ごゆっくり…… 』ってんで、すーっと下へ降りてって、それっきり帰ってこねえ」
「ざまあみやがれ。てめえが幕なんぞ褒めたもんだから、呆れ返(けえ)って逃げ出したんだろう?」
「うん、俺もそうだと思ったから、帰ろうかなと思っているところへ、若え衆がやって来て、『お連れさまが、お持ちかねでございますから、どうぞ、てまえとご一緒に…… 』と、こう言うんだ」
「へーえ」
「『人ちげえじゃねえか?』、『いいえ、お間違いではございません。どうぞ、ご一緒に…… 』って言うんだ。若え衆の案内で茶屋の裏二階へ行くと、さっきの女がいて、上座に席ができていて、『先ほどのお礼と申すほどのことでもございませんが、一献(いっこん)差し上げたいと存じまして…… 』と、きた」
「へーえ、一献てえと、酒だな?」
「そうよ。水で一献てえなあねえからな…… 『婆や、お支度を…… 』と、目配せをすると、婆やが心得て階下(した)へ降りる。入れ違いに、トントンチンチロリン…… 」
「何だい、それは」
「どこかで三味線でも弾いてたのかい?」
「分からねえ野郎だな。女中が酒を運んで来る音じゃあねえか」
「女中が、梯子段(はしごだん)を上がる音だ」
「へーえ…… チンチロリンてえのは、何だい?」
「そりゃあ、おめえ、トントンと上がるから盃洗(はいせん)の水が動くじゃあねえか。すると、浮いている猪口(ちょこ)が盃洗のふちへ当たる音が、チンチロリンと言うんだ。
これが、トントンと上がって来るから、トントンチンチロリン、チンチンチリトテンシャンと言うのは、猪口が盃洗の中へ沈んだ音だ」
これが、トントンと上がって来るから、トントンチンチロリン、チンチンチリトテンシャンと言うのは、猪口が盃洗の中へ沈んだ音だ」
「こまけえんだな。で、どうしたい?」
「酒が来て、やったり、取ったりしているうちに、女はたんといけねえから、目のふちがほんのり桜色」
「ふーん」
「俺も、空(すき)っ腹へ飲んだから、目のふちがほんのり桜…… 」
「やい待て、畜生め。図々しいことを言うない。相手の女は、色の白いところへ、ぽーっとなるから桜色てんだが、おめえは、色が真っ黒じゃあねえか。おめえなんぞ、ぽーっとなったって、桜の木の皮の色よ」
「なに言ってやんでえ。余計なことを言うない…… 飲んでいるうちに、酒は悪くなかったけれども、身体の調子だと思うんだ。頭が痛くなってきやがった」
「うん」
「どうにも頭が痛くてしょうがねえ。そこで、『姐(ねえ)さんご馳走になった上に、こんなことを言って申しわけございませんが、少し頭が痛くなりましたから、ご免を蒙(こうむ)って失礼させていただきます』と言って、俺が帰ろうとするとね、『とんでもないことになりました。たくさんあがらないお酒をおすすめいたしまして申しわけございません。少しお休みになったら、いかがでございますか?」と言うから、『そうでござんすね、ここへ横になったところで直りますまいから、家に帰って寝ます』と言ったら、『同じ休むなら、ここでお休みになっても、同じことじゃありませんか』と、こう言うんだ。
言われてみれば、最もだから、『じゃあ、まあ、そういうことにお願いしましょう』、『よろしゅうございますわ』てんで、しばらく経つと、『さあ、こちらへ…… 』と言うんで、、行ってみると、隣座敷へ蒲団(ふとん)を敷いてあるんだ。それから、『失礼させていただきます。頭の直るまで…… 』ってんで、おらあ、そこへ入(へえ)って寝ちまった」
「うん」
「すると、女が、すーっと行っちまったから、こりゃあいけねえ。女が帰っちまっちゃあ大変(てえへん)だ。ここ勘定はどうなっているんだろうと思って…… 」
「しみったれたことを考げえるなよ」
「けれどもよ、そう思うじゃねえか。ところがね、しばらくすると、すーっと音がした」
「何だい?」
「障子が開いたんだ」
「誰が来たんだい?」
「誰だって、分かりそうなもんじゃあねえか。その女が入(へえ)って来たんだ」
「ふーん、どうしたんだい?」
「女が枕もとで、もじもじしていたが、『あのう…… わたしもお酒を戴きすぎて、大層、頭が痛んでなりませんので、休みたいとは存じますが、他の部屋がございませんので、お蒲団の端のほうへ入れさせていただいてもよろしゅうございますか?』って、こう言うんだ」
「えっ、そいつぁ大変なことになっちゃったなあ。おーい、みんな、こっちへ寄って来いよ。ぼんやりしている場合じゃねえぞ…… で、おめえ何と言ったんだ? …… 『早くお入んなさい』か、何か言ったろう?」
「どうもそうも言えねえから、『どうなさろうとも、あなたの胸に聞いてごらんなすっちゃあいかがでございましょう?』と、俺が皮肉にぽーんと、ひとつ蹴(け)ってやった」
「うめえことを言やがったな。それからどうしたい?」
「そうすると、女の言うには、『ただいま胸に訊ねましたら、入ってもよいと申しました。では、ごめんあそばせ』ってんで、帯解きの、真っ赤な長襦袢(ながじゅばん)になってずーっと…… 」
「畜生めっ、入(へえ)って来たのか?」
「入(へえ)って来たとたんに、『半ちゃん、一つ食わねえか』って、起こしたのは誰だ?」
「何?」
「『半ちゃん、一つ食わねえか』って、起こしたのは誰だ?」
「起こしたのは俺だ」
「わりいところで起こしやがった」
「なーんだ、畜生め。夢か?」
「うん、そういう口があったら世話してくんねえ」
「静かにしてくださいよ。あんまりこっちが賑(にぎ)やかなんだね。気を取られていたら、今の客、銭を置かずに帰っちまった」
「性質(たち)の悪い奴だな、どんな…… 」
「今そこで髭(ひげ)をあたってもらっていた印絆纏(しるしばんてん・江戸時代の職人が着た絆纏)を着た、痩せた男かい」
「ああ、ありゃ、町内の畳屋の職人じゃあねえか?」
「それで、床屋(とこ)<床畳>を踏みに来たんだ(踏み倒したと言う意味)」
お後が、宜しいようで……