楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

『神の見えざる手』の解明を今年の抱負とします

2009-01-01 19:57:18 | Weblog
 新年おめでとうございます。

 本来は昨日、1月元旦に書き込みを入れた最初に書く文章ですが、昨日は『富とは何かと』という昨年からの続きとしてまとめを書きましたので割愛しました。また富とは何かで思い当たることがあれば再度書き込みますが一応次の疑問に進みたいと考えています。

 それはタイトルに書きましたアダム・スミスの国富論の第4編第2章に現れる言葉であり、古典的自由主義経済における市場法則を指す熟語としてあまりにも有名な一説です。

 ただ私としては新・貨幣論の中で編集者の注意により見えざる手という言葉で書いています。本来は見えざる手なのですがいつからか神が付くようになったのかは知りませんが…

 以下の文章はウィキペディアの見えざる手から引用したものです。今回はこの考え方に現代的な生命を吹き込み新たな考えを思索していくつもりです。

 市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が「見えざる手」によって達成される。このことは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすものとした。
 
 スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入を否定し、あとは市場機構による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済への介入を批判した。スミスの国家観は「夜警国家」のそれであったということができる。
市場法則を神の摂理と捉えたところに、自然と神を同一視する楽観的な考え方であるとする指摘もある。この考え方は、後の新自由主義のイデオロギーとなった。
 

富とは何か まとめ

2009-01-01 07:36:07 | Weblog
 前の文章で「富とは何か」を書いたが、書き足りないところがあったので「まとめ」」として再度書き足す。
2008-12-23 14:11:21 | Weblog 富とは人生を豊かにするものが「富」であると言うとき、そこには広義に考えて人間の社会にとって、人間の労働であると言う解がきてしまう。 中略

 また労働は富を生み出すものであるという解釈もできる。それは現代の資本主義社会下においては『富』の考え方が身近なものと考えるよう訓練されているからではないかと思われる。

 『富』とは何かを突きつけられたとき、人はそこに金銀財宝(その考えは古いかもしれないが)豪勢な邸宅、数え切れない程の桁数の並んだ預金通帳(貨幣)貨幣はいつでも他人の労働と交換できることから、人にとっては最大の富を手に入れたことになる。


 ここに書き足りない文章を足します。

 『富とは何か』に対し二つの考え方があると言える。一つは人間全体が幸福になるための『富』それに対し個人から身近な国家単位のかたちでの『富とは何か』である。

 後者の富とは何かであれば最終的に考えられるのは『貨幣』と言うことになる。
貨幣(お金)は全てのものと交換できる、金銀財宝もそうであるし、豪勢な邸宅、自家用ジェット機、クルーザー、農業に最適な肥沃した土地、近代的な工場、高度に熟練した技術者を雇うこともできる、数億の絵画さえ金があれば購入することもできる。

 つまり煎じ詰めていけば『富とは何か』は貨幣が発達してきたときから現代に至るまで『富とは貨幣である』と言うことになる。これはあくまでも資本主義社会においての一部の人間だけが享受できる富であり、人間全体の富ではない。その偏った富のためアメリカン・ドリームが考え出されたことは言うまでもない。

 一部の人間だけが享受できると書いたとき、そこには貨幣の性質が隠されていることが前提となる。

 市中に貨幣として交換機能を持つお金が投入されたとき、それは一つのパイに例えることができる。たとえそこに公的資金が投入されたり、公共投資で最終的には税金から払うお金が投入されても、あたかも全体に行き渡り経済が活性化すると考えているが、単なるパイを大きくしただけであり、取り分に対しおろそかにされているのが現代社会である。

 取り分に対し一人が大きく取れば、後の残りのパイを皆で分けることになる。現代の金融と言う考え方では労働から離れたところでパイの分捕り合戦が行われ、直接労働により商品を作り出している者、労働を提供している者にはパイの取り分はなくなってしまう。つまりパイにありつけなかった者は失業と言う世界が待っていることになる。つまりパイが貨幣(お金)であるというとき生きるためのお金が回ってこないことになる。

 だが偏った貨幣所持は最終的には社会を危険な状態に落とす。それは今回の金融危機がその答となる。

 そのとき人は貨幣は富であると言うことができるであろうか。

 労働が人間社会の富であるというとき、その労働を拒否してしまう社会はやがて大きな試練に立ち向かうはずである。

 それは労働を拒否(失業)された人々が多くなればなるほど人間社会全体にとって試練は大きくなるはずである。

 今回の労働の拒否がどのくらいになるかわ定かでは無いが、現在はその入り口に入ってきたものと言える。

 そこからもう一つの『富』の考え方がある。それは人間社会の富は『労働』であると言う考え方である。金が金を生む社会を無くし、労働によって人間社会の富を築き上げ、需要と供給のバランスが崩れるようであれば市場経済の中で自然に調節されるように全体のコンセンサスが得られ社会を目指す。できないわけは無いと考えるが。

 加齢と体の調子が悪いせいか集中力が最後まで持たなかったことをお詫びします。