最近書いてきて思うのは、私が書いてきたことによっていくらか社会を変えることができのかという思いがあります。大げさに言えば年齢的にも精力的に書ける年ではなく、またいつまで続けることができるかという不安もあります。せめて生きているあいだ、体が動くあいだ、頭がぼけないあいだになんとしても考えたことを世に残していき、世の中を少しでも良くする方向に動かしたい。
自分が死んだ後、自分にとって何の意味も無いことは、死後が無いということを理解している私にとって、私自身書いたことは何の意味も無くなるわけですが。書いて残すことが私の責任なのかを考えます。
若いときとは違って、新聞記事で世界経済を読んだとき、即理解できるのですが、やがて読んだことを自身の引用で使おうとすれば、そのときには記憶があいまいになっています。結果的に引用(データ)が無く自分の頭に浮かぶことしか書けないわけです。それと書きたい言葉や、文字がなかなか出てこないことで何か一方的に書いている印象を与えているのではないかと思ってしまいます。
でも最終的には貨幣とは何かという、貨幣の歴史の始めからを振り返った中で、いくばくかの貨幣研究者が現れてくれることを願い、経済学者・政治に携わる人たち、そしてお金を日常使っている人々にも理解できることのため、何らかの行動を取れればいいと考えています。
それは格差反対のデモに、自分も参加して多くの経済学者に貨幣とは何かを考えてもらうチャンスになればという希望もあります。
つまりプラカードに「貨幣とは何かを経済学者は考えろ」「経済学者は本来の経済とは何かを考えろ」とか色々と私が書いてきた中にヒントになるものがあるかと考えています。
ここまでは私の愚痴になりました。老人の愚痴ということで勘弁を…
これを読んでくださる人にとっても、どうしても貨幣を考えると言っても現状の財布から出したお金の支払いから抜け出せないのではないでしょうか。そこには使ってしまえば無くなってしまう。それ以上考えようとすれば、残業をやってより稼ぐこと、そして使えるお金(貨幣)を増やすしか方法が無いと。それは永い間刷り込まれてきた一部の人間の利益のための宣伝から脱却していないためですとしか言いようがありません。
おそらく社会の上部で貨幣に携わっている人達、貨幣の使われ方を研究している人達。デフレ脱却をどのようにすればよいのか、インフレ率を何パーセントに目標を置けばいいのか等を真剣に研究している人達、また報道している人達、私にとって彼等が話すことは貨幣とは経済とは難しいのだ、博打を打っているようなもので、どうしようもないことだとしか言っていないように聞こえます。
経済は人間の心理でしか動かない。それは私の書いた「A・Eの関係」を読めば解るかと思います。世界がEU問題等を入れてマイナスの報道にもっていけば未来に対し弱気になりお金を使わなくなる。また現実に持てない人(失業者)が増えていることから、どのように太鼓を敲いたとしても財布の紐は硬くなるだけです。
高級を得ながら経済を考えている人達に、このようなことが解っていないはずはないと言い切れます。なのにあたかも皆さんが財布を開かないのが悪いので私たちはその財布を開かせようと頭を並べて考えていますというイメージしか報道していない。これではどんどんデフレスパイラルに落ち込んでいく。
脱却するには皆さんたちがどんどん買い物をしてください、ただしその責任は自己責任だということを忘れないように。という発言でしかないように感じる。
インフレ率1パーセント。そのことは将来物があがりますから今のうちに買い物をしてくださいと、高給取りの日銀総裁が無責任極まりない発言をしている。
そして彼等の目標であるインフレの芽が出てきたとしたら,物価が上がるという未来に対する不安感から、なけなしの金を使い物を買いに走り回る。そしてインフレになってきたと目標達成を喜んでいるが、そのインフレの芽を1パーセントに留めおく自身さえも無いと言える。逆にそのことで債務超過の人が何パーセント増えるのか。自己破産する人が何パーセント増加するのか。本来はもっと根が深い所に原因があるのだが…