楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

イスラエルの地上戦について Ⅱ

2009-01-09 09:53:24 | Weblog
 なぜベトナム戦争でアメリカ兵が戦意を喪失したのか昨日の続きとして書いてみる。

 かつての戦場であったジャングルの中、案内人に連れられていった場所には地面に細長い穴が開いておりその両側に板がかかっていた。その板には無数の釘様の針が刺さっており、蓋が閉まっている状態では周りの地面に溶け込みなんら不自然さを感じさせないように作られていたのであろう。

 ただアメリカ兵が地面と思って踏み出した足がその板の上に乗ったとき、板が両側に開く。体の重さがそのまま地面に吸い込まれるように落ちていくが、両側に開いた板の針が兵の体に刺さり、彼は無数の針に支えられながら地面に着地することなく宙に浮いた状態となる。

 そうなったとき周りにいる戦友も手の施しようも無くただ呆然としいるだけであろう。落とし穴に落ちた戦友が助けを求めて苦しがっていてもどうすることもできない。周りにいる者もパニックになって手の下しようが無いことは判断できる。冷静になったとき落とし穴に落ちた戦友に詫びながらも早く楽にしてやることを考える。つまりピストルで頭を打ち抜いてやるしか助ける方法がないと気が付く。

  かつての仲間から頭を打ちぬかれ、遺体となった戦友を引き出すことは可能だったのだろうか。

  ベトナムでのアメリカ兵とベトナム兵の地上戦をかいま見た思いがした。このような光景に遭遇し戦意を無くした兵に戦い続ける気力がうせたとしても解るような気がした。ベトナムから母国アメリカに戻った兵の中に精神的な治療を受けている者が数多くいるということも聞いている。

  どのように戦争に対し技術が発達したとしても最後には地上戦の道しかないのであろう。兵をロボット化したとしても人間の知恵がそれを上回るようである。最終的には人間と人間の殺し合いとなる。

  今回のイスラエルのガザ攻撃では多くの関係の無いものが殺されていく。あたかもイスラエル側の早く停戦に持ち込まなくては我々は多くの人間を殺戮するぞというシグナルに見える。

 09年1月9日の日経新聞朝刊6面では『レバノンからロケット弾』という見出しがあった。それを少し引用してみたい。

 >パレスチナ自治区ガザへの進行を続けるイスラエルの北部で8日、隣国レバノンから発射されたロケット弾数発が着弾、イスラエル軍は対抗してレバノン領に砲撃を加えた。

 レバノンからのロケット弾攻撃は昨年1月以来だという。射程からヒズボラからの攻撃だと考えられる。イスラエルがガザでの戦闘のほかレバノンとの戦闘に発展すればイスラエルにとっては、二〇〇六年のレバノン領での大規模攻撃による兵160人の死者を出したことから国内が騒然とすることは確かな様である。

 早期停戦に持ち込むこと以外イスラエルにとっては道がないようである。その仲介役としてのエジプトを怒らせるわけにもいかず。エジプトからガザへのトンネルを閉鎖させる唯一の解決方法が何時実るのか、それまでは空爆・艦砲射撃・地上部隊によって多くの罪の無い人命を殺傷し、世界が早く停戦に持ち込まなくてはまだ死者が出るぞと脅しをかける以外方法は無いのか。

 今、レバノンからヒズボラがイスラエルに参戦すればイスラエルは戦端を二箇所開くことになる。この状態ではハマスが停戦に応じる様子は程遠いのではないか。

 新聞では=ヒズボラとの戦端を開けば、ヒズボラの背後にいるイランやシリアなど中東全域を巻き込む形で混迷が深まり、事態の早期収拾は難しくなるという。

ちょっと寄り道 イスラエルの地上戦について

2009-01-08 09:26:04 | Weblog
 イスラエルがガザでの地上戦に突入してから早数日、新しい情報が伝わってこない、 今までの情報はイスラエル側の情報でありハマスの兵士を数百人殺害したという話である。殺害した人の中になんの罪も無い子供を含めた民間人が犠牲になっていることも確かなことである。

 ただ昨日の新聞ではイスラエル側からの報道しかできないというニューアンスが書かれてあったが。パレスチナ側からの戦況報道は我々には伝わってこない。

 このことから日本での戦中時に大本営発表なるラジオ放送で国民を欺いていたことを我々の戦中派は覚えている。そこからイスラエル兵の犠牲者の本来の数字は発表されていないのではないかと疑いの目がある。

 地上戦は残酷なものである、お互いが相手を殺すか相手に殺されるかの戦いになる。それは兵の1対1の戦いとなる。地理を知り抜いていたほうが有利になることは確かではないか。イスラエルではこの戦いが長引くということを最初から言っている。なぜ長引くのか、なぜハマスを壊滅することができないのか、その情報は我々には伝わってこない。

 話が変わるが昨年の3月に私は家族でベトナム旅行をしてきた。観光が目的であったが、その中に組み込まれていたベトナムと米国の戦いの場である戦場見学があった。そこで目を引いたのがアメリカが空爆を繰り返しても最終的には地上戦にもって行かなくてはならないこと。つまりベトナム側から地上戦にアメリカ側を引っ張り込んだという作戦のようだ。その結果アメリカ側の兵の戦意が喪失し結果としてアメリカ側の敗北に終わってしまった。

 ここで言えることは空爆・海からの艦砲射撃をいくら繰り返しても相手を殲滅させることはできないと言うことになる。最後は兵の損失を考慮に入れてでも地上戦をおこなわなくてはならないということになる。これが長期戦を覚悟しているとしたら、それほど国が大きくないイスラエルにとっては最後まで持ちこたえることができるのだろうか。早いうちに自国の兵士の損失にならないうちに停戦に持ち込みたいのではないだろうか。ハマスは停戦の条件になるロケット攻撃を続行するという。現在の段階では第三国が調停に入っても停戦になるのかどうか。これからイスラエルの弱音が見得てくるのではないだろうか。

 ベトナム旅行でかつての戦場を見学した模様は明日にでも書き込みます。地上戦の残酷さ。アメリカ兵が戦意をなくした理由。国に帰国してからもトラウマにおびえている理由をまたの機会に書き込みます。

欲求の二重の一致

2009-01-06 14:59:19 | Weblog
 昨日の文章で欲求の二重の一致と言う言葉を何度か使ったが、文末に注釈を入れるつもりで用語を調べたが、無いかもしくは説明不足であったため私なりの説明をしてみたい。

 欲求の二重の一致とは、貨幣において商品と交換(購入)する場合と、物々交換時において交換する場合との比較である。

 貨幣において商品を購入するときは、その商品を買いたい者がなんの躊躇い、または問題も無く商品を持っているものに貨幣を渡し、商品を持ち帰ることができる。だが物々交換においては交換する相手が自分が持っている物を欲しがっているかどうか、他の物との交換を望んでいれば交換するのは至難の業になる。

 例を挙げてみよう。
 
 仮にAさんが鶏肉を持っておりBさんがリンゴを持っていたとしよう。Bさんは鶏肉が欲しいがAさんは魚が欲しい。この状態では欲求が二重の一致に到達できないことになる。ここに物々交換の市場が大きくなればBさんのリンゴと交換してくれるという、探した結果のZさんが鶏肉を持っていたので交換ができた。何とか二人の欲求の一致が充足され両者が満足したことになる。ただここには大きな市場と探し回る時間が必要になるが。

 では貨幣を仲介とする交換(販売・購入)の場合はどうであろうか。Bさんが鶏肉を欲しかった場合、Aさんのところに行きお金を出し鶏肉を購入する。Aさんはそのお金を持って魚を買いに行く。やがてBさんのリンゴも他の人が買いに来るはずである。貨幣を介した交換は即「欲求の二重の一致」が叶うことになる。

 貨幣を介した交換は爆発的な分業を作り出すことになる。

貨幣は偶然の中から生み出されたものである

2009-01-05 08:50:47 | Weblog
 新年おめでとうございます。

 現在使われている貨幣(お金)に対しなぜタイトルにある文章をわざわざ使ったのか疑問に思われる方もおられるかと思います。

 貨幣は偶然から生み出されたもの、つまり私が言いたいのは私達が何気なく当たり前のように毎日を生活していくために財布から出しているお金、その起源が偶然から生み出されたものであると言うことなのです。

 当然そこには原始の社会で物々交換の中で初期の貨幣に替わるものが突然生まれたことになります。

 それは必然性を持って生まれてきたのではないかと考えられないこともありませんが、ただ必然的といったとき物々交換では決して叶えられない貨幣になる物には「欲求の二重の一致」という観念ができていたことになります。

 つまりここで書きました「欲求の二重の一致」が貨幣(お金)が持つ最大の特徴になるからです。これは物々交換社会では最大の市場があったのち、交換する相手を探し出すまでには多くの労力を割かなくてはならないからです。

 貨幣は市場が無くても個々の生産者から貨幣を通して必要物を得る最短距離の近道があると言えるからです。皆さんの中にも、その方が農家の人であれば野菜を販売したお金を持って近所のコンビニへ走っていけば暖かいおでんと交換することができると言う便利さがあるのを経験しているでしょう。

 もし現代まで貨幣がなかったら自給自足社会か物々交換で生きるために必要物を得るしか方法が無いわけです。当然のこと社会が分業化されていく段階で出来てきたコンビニという店舗も無いわけです。

 物々交換社会では限られた分業しか育ちませんが、交換に貨幣を使った社会では多くの分業を作り出すことが可能になるわけです。それは貨幣が持つ「欲求の二重の一致」をいとも簡単に満たすことが出来るからです。

 ここまでは貨幣について概観を書いてきましたが、本来のテーマに戻して「貨幣は偶然の中から生まれてきた」という問題について書いていきます。

 偶然の中から生まれてきたというとき、貨幣の発生時には貨幣についての何の理論も無く、また使われてきた段階においても現代に至るまで貨幣についての更なる理論も無いと言うことになります。ただ闇雲に交換において「欲求の二重の一致」さという便利さゆえに使われて来てしまったと言うことになります。

 ここで問題となるのが貨幣はまだ他に別の面を持っていたと言うことです。それは貨幣には蓄蔵機能が付いていたと言うことです、おそらく原初の時代、偶然から生み出されてきた当時は「欲求の二重の一致」さゆえに発達されたと考えますが使用していく時点で蓄蔵できると言う新たな道を発見したわけです。

 この蓄蔵できるという機能が歴史上数多くの不平等を作り出した元になるわけです。そして最終的には現在の金融危機の元凶とも言えるわけです。

 私がこのように書くのは多くの人達に貨幣とは何かを知ってもらい、そのことから新しい社会を考えていく手がかりになるのではないかと思っているわけです。

『神の見えざる手』の解明を今年の抱負とします

2009-01-01 19:57:18 | Weblog
 新年おめでとうございます。

 本来は昨日、1月元旦に書き込みを入れた最初に書く文章ですが、昨日は『富とは何かと』という昨年からの続きとしてまとめを書きましたので割愛しました。また富とは何かで思い当たることがあれば再度書き込みますが一応次の疑問に進みたいと考えています。

 それはタイトルに書きましたアダム・スミスの国富論の第4編第2章に現れる言葉であり、古典的自由主義経済における市場法則を指す熟語としてあまりにも有名な一説です。

 ただ私としては新・貨幣論の中で編集者の注意により見えざる手という言葉で書いています。本来は見えざる手なのですがいつからか神が付くようになったのかは知りませんが…

 以下の文章はウィキペディアの見えざる手から引用したものです。今回はこの考え方に現代的な生命を吹き込み新たな考えを思索していくつもりです。

 市場経済において各個人が自己の利益を追求すれば、結果として社会全体の利益が達成されるとする考え方。個人が利益を追求することは一見、社会に対しては何の利益ももたらさないように見えるが、社会における個人全体が利益を追求することによって、社会の利益が「見えざる手」によって達成される。このことは、価格メカニズムの働き、最適な資源配分をもたらすものとした。
 
 スミスはそのために、国家は国防・警察・教育等の必要最小限以外の経済活動への参入を否定し、あとは市場機構による経済の発展を重視すべしとの立場をとり、国家の経済への介入を批判した。スミスの国家観は「夜警国家」のそれであったということができる。
市場法則を神の摂理と捉えたところに、自然と神を同一視する楽観的な考え方であるとする指摘もある。この考え方は、後の新自由主義のイデオロギーとなった。
 

富とは何か まとめ

2009-01-01 07:36:07 | Weblog
 前の文章で「富とは何か」を書いたが、書き足りないところがあったので「まとめ」」として再度書き足す。
2008-12-23 14:11:21 | Weblog 富とは人生を豊かにするものが「富」であると言うとき、そこには広義に考えて人間の社会にとって、人間の労働であると言う解がきてしまう。 中略

 また労働は富を生み出すものであるという解釈もできる。それは現代の資本主義社会下においては『富』の考え方が身近なものと考えるよう訓練されているからではないかと思われる。

 『富』とは何かを突きつけられたとき、人はそこに金銀財宝(その考えは古いかもしれないが)豪勢な邸宅、数え切れない程の桁数の並んだ預金通帳(貨幣)貨幣はいつでも他人の労働と交換できることから、人にとっては最大の富を手に入れたことになる。


 ここに書き足りない文章を足します。

 『富とは何か』に対し二つの考え方があると言える。一つは人間全体が幸福になるための『富』それに対し個人から身近な国家単位のかたちでの『富とは何か』である。

 後者の富とは何かであれば最終的に考えられるのは『貨幣』と言うことになる。
貨幣(お金)は全てのものと交換できる、金銀財宝もそうであるし、豪勢な邸宅、自家用ジェット機、クルーザー、農業に最適な肥沃した土地、近代的な工場、高度に熟練した技術者を雇うこともできる、数億の絵画さえ金があれば購入することもできる。

 つまり煎じ詰めていけば『富とは何か』は貨幣が発達してきたときから現代に至るまで『富とは貨幣である』と言うことになる。これはあくまでも資本主義社会においての一部の人間だけが享受できる富であり、人間全体の富ではない。その偏った富のためアメリカン・ドリームが考え出されたことは言うまでもない。

 一部の人間だけが享受できると書いたとき、そこには貨幣の性質が隠されていることが前提となる。

 市中に貨幣として交換機能を持つお金が投入されたとき、それは一つのパイに例えることができる。たとえそこに公的資金が投入されたり、公共投資で最終的には税金から払うお金が投入されても、あたかも全体に行き渡り経済が活性化すると考えているが、単なるパイを大きくしただけであり、取り分に対しおろそかにされているのが現代社会である。

 取り分に対し一人が大きく取れば、後の残りのパイを皆で分けることになる。現代の金融と言う考え方では労働から離れたところでパイの分捕り合戦が行われ、直接労働により商品を作り出している者、労働を提供している者にはパイの取り分はなくなってしまう。つまりパイにありつけなかった者は失業と言う世界が待っていることになる。つまりパイが貨幣(お金)であるというとき生きるためのお金が回ってこないことになる。

 だが偏った貨幣所持は最終的には社会を危険な状態に落とす。それは今回の金融危機がその答となる。

 そのとき人は貨幣は富であると言うことができるであろうか。

 労働が人間社会の富であるというとき、その労働を拒否してしまう社会はやがて大きな試練に立ち向かうはずである。

 それは労働を拒否(失業)された人々が多くなればなるほど人間社会全体にとって試練は大きくなるはずである。

 今回の労働の拒否がどのくらいになるかわ定かでは無いが、現在はその入り口に入ってきたものと言える。

 そこからもう一つの『富』の考え方がある。それは人間社会の富は『労働』であると言う考え方である。金が金を生む社会を無くし、労働によって人間社会の富を築き上げ、需要と供給のバランスが崩れるようであれば市場経済の中で自然に調節されるように全体のコンセンサスが得られ社会を目指す。できないわけは無いと考えるが。

 加齢と体の調子が悪いせいか集中力が最後まで持たなかったことをお詫びします。