オーストラリア ヒロシのリタイヤ日記

1994年からメルボルン在住のヒロシです。留学後に現地で就職、国際結婚、2020年、55歳からリタイヤ生活。

オーストラリアの給料

2024年09月18日 18時45分43秒 | 仕事

今日は10時半から臨時アルバイトが入っていたので、朝食の後、散歩に出発。いつもの公園の隣にある運動器具を使って、懸垂20回、腹筋20回、ディップス10回してきました。

腹筋をしている時に気付いたのですが、、、「これから20回しよう!」と思っても、不安になりますが、3回づつのセットで考えてそれを複数回すれば20回くらいになりますから、まず、最初のセット(3回)してみて、それが出来たら、「よし、もう1セット!」という風にしてみたら、無理なく出来ました。

その後の懸垂もいきなり10回ではなく、1セット(3回)が出来たら、「よし、もう1セット。」と3回づつやってみたら、気分的に楽になりました。

最近はジョギングも週に1度くらいしか出来ていないので、トレーニングの倦怠期に入っているというか、運動に対する興味が薄れてきてしまっています。

でも、フルタイムで仕事をしていた頃は、ほぼ一日中椅子に座って仕事をしていましたし、通勤も車でしたから、殆ど運動は出来ていませんでした。なので、早期リタイアが出来て高齢者になる前に運動(ボート、スキー、ハイキング)が始められたのは非常に良かったと思います。

例えば65歳になってからリタイアして、運動を始める体力や気力がないまま高齢者になってしまったら、老後は運動もあまり出来ず、そのまま足の筋肉も細くなってしまい、フレイルという状態になってしまうのだと思います。

さて、帰りは4時半と、いつもより遅くなりましたが、帰りのラッシュアワーにぶつかってしまい、久しぶりに車の渋滞を経験しました。働いていた頃は、毎朝晩、渋滞でしたから慣れていましたが、車の渋滞は、仕事よりもストレスになると思いました。

日本では正社員になると交通費が支給してくれる会社が一般的だと思うのですが、こちらでは交通費は支給されません。考えようによっては、こちらでは給料の中に一律交通費も入っていると考える事も出来ます。その他、日本の会社では様々な福利厚生がありますが、こちらでは基本的に給料(年俸)を26で割ったものが2週間に一度支給されます。

日本では賞与(ボーナス)が出るのは普通だと思いますが、こちらではボーナスを出す会社は珍しいです。(ある会社もあるのかも知れませんが、聞いたことがありません。)それに、日本では考えられないのですが、、、退職金も貰えません。日本では、賞与や退職金は給料から天引きされて、従業員の為に会社が積み立てていると考えることも出来ます。こちらでは、例えば老後の準備をするのは、会社の責任でははく、個人の責任ですから、自分で準備をしなければいけません。

ということで、今日は給料の話になってしまいました。

それでは、明日も、このブログでお会いしましょう。

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アルバイト2日目

2023年10月13日 18時55分03秒 | 仕事

今朝も5時起きで、アルバイトに行って来ました。5時に起きて、出発したのは、6時頃。現場についたのは7時前。8時前に着けば良いことになっていましたが、予定より1時間以上の余裕を持って、早く着けました。

仕事場のドアも閉まっている状だったので、車の中で1時間、待機。待っている間に寝てしまうかも知れなかったので、念のため、携帯電話の目覚まし時計をかけて、車の中で携帯を見ていました。

今日の仕事場は、昨日と同じ所でしたが、少し顔ぶれは違っていて、今日も1年ぶりに友人、知人に会えて良かったです。お昼休みは、さながら宴会会場のようでした。

職場で会った人達に、1時間以上も早く着いた事を言ったら、皆に驚かれました。ついでに、日本に帰る前日には、旅行前不安になるので、前回、早朝出発の飛行機に乗った時は、飛行機に乗り遅れないように、空港のベンチで一夜を過ごしたことも、話しました。

昨日と同様に昼食後は眠くなりましたが、、、3時40分には無事に職務は終了して、夕飯前には家に帰れました。

来週の火曜日もアルバイトが入っていますが、、、この3日間のアルバイトで、日本に行く航空券とお小遣いが稼げたと思います。

それでは、明日も、このブログでお会いしましょう。

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久しぶりにアルバイト

2023年10月12日 19時03分33秒 | 仕事

今日は久しぶりにアルバイトをしてきました。日本人の知人や元同僚に会えました。明日と来週の火曜日にもアルバイトがあります。

今日は妻の仕事が休みだったので、久しぶりに妻が夕食を用意してくれました。普段は僕が専業主夫で家族の夕食は僕が作ります。

では、明日、ブログを書きます。(今日は、既に寝る時間で、明日も5時起き、、、。)

それでは、明日も、このブログでお会いしましょう。

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ブラック企業就職編

2022年06月03日 07時51分24秒 | 仕事

昨日は突然コロナ陽性になってしまい、読者の皆様にはご心配をお掛けしてすみませんでした。今日の病状は幸いにも相変わらず、時折痰を伴う咳がでるくらいで、熱もなく、この様にブログを書くことができます。普段、僕が買い物や食事、後片付けの担当なのですが、昨日に引き続き今日も妻は仕事を休んで、僕の代わりに息子を学校に送ったり食事の準備や後片付けを代わりにやってくれています。

このブログはまだ始めて一週間程で、読者の方は一日数人程度だったのですが、三日ほど前にブログ村とブログランキングに登録した途端、ページビュー数(PV)とユニークユーザー(UU)が大幅に増えて、毎日数十人の方々に読まれていて、嬉しさと驚きが混ざった複雑な気持ちです。これからも、ご期待に沿える様に、毎日更新を目指して頑張りますので、よろしくお願いいたします。

さて、3日程前から海外就職や海外移住に興味がある方の為に、普通の日本人(僕のような)にも十分可能であることをお伝えしたく、僕のオーストラリア移住までの道のりを書いています。

 

9か月の留学を終えて帰国したのは大学四年生の5月ごろで、1980年代後半の当時は丁度就職活動を始める時期でした。大きな会社に入って、その会社の小さな歯車になって働くより、どうせ働くなら、鶏口牛後の諺どおり、小さな会社に入って経営を学ぶのもいいかも、と内定を頂いた地元にある社員20人足らずのアパレル/繊維業の零細企業に就職を決めました。

この企業に就職した理由は3つで、まず、この業界にしては珍しく、ボーナスが多くて、中には11か月分貰った社員がいると企業説明の雑誌に載っていたこと(この社員は社長の息子の常務(当時32歳)であったことが後に判明)、

次に希に、外国(の零細企業)とも取引があって得意の英語が使えそうだったことと、

最後に勤務先が家から自転車で通える距離で、通勤の車が必要ないので、留学の費用が手っ取り早く貯められそうだったからです。同期は僕を含めた5名(男子4名、女子1名)でした。

就職して一番大変だったのは、退社時間の遅さで、仕事があってもなくても、毎晩夜の9時、10時になって、上司の許可が出るまで、退社することができませんでした。バブル真っただ中の当時の経営者は、「社員には出来るだけ長く働かせて、稼げるだけ稼ぐ。社員のライフバランスなんて要らない。奴隷と一緒。」という考えだったと思います。残業代がでないのに、夜遅くまで家に帰してもらえない(サービス残業)など理不尽な労働環境でした。今でいうブラックですが、当時はそれがどこでも当たり前だったので、そんな言葉はありませんでした。

一か月程の社内研修が終わってから、僕は業務統括部に配属されました。名前はカッコ良さそうですが、仕事の内容は社の雑用係といった部署で、花形の企画営業部(チェック柄など生地のデザイン)や生産部(外部の工場に委託生産)とは違い、中途採用の上司と僕だけの地味な部署でした。どちらかといえば社内余剰人員待合室といった方生産部の助っ人として原料である糸(ウール・羊毛)や製造した反物(毛織物)を委託工場や倉庫に配送、コンピューター入力、規格外で返品されてきた商品(高級婦人服)の修繕(ピンセットで糸に混ざった不純物を取り除く)などでした。仕事がなければ、コンピューターに向かって、忙しく働いているふりをして、時間が過ぎるのを待つという、何とも辛い部署でした。

当時はバブルの真っ最中、一着30万円もする婦人服(ワールド、樫山、三陽商会などの大手アパレルが顧客)のこの会社はこの頃が売り上げがピークだったと推測します。この後、日本経済のバブルがはじけると同時にこの会社は倒産してしまいましたが。以前、日本に帰国した時に、会社の同期の友達に会いに行こうと、会社の前まで行ってみてびっくり、その会社の建物は跡形もなく、その敷地は住宅地になっていました。

残業で帰宅するのが遅くなればなるほど、2度目の米国留学への思いは強くなりました。「こんな会社に自分の人生を売るつもりはない。この酷い状況から脱出するには留学しかない。」と、留学に必要なお金を貯める為、同僚から飲み会の誘いは殆ど断り、(ある時期から誘われなくなった。)月に1,2度は英語の勉強の為に名古屋の映画館に行く以外、給料やボーナスのすべてを貯金していました。

当時も今も、米国の大学に正規留学するためには、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)という英語能力試験で合格点(当時は530-550点)を得点しなければなりません。試験勉強の時間を確保する為、会社から夜十時半に帰ってきて、母が作っておいてくれた晩御飯を食べてから入浴をすませ、11時には就寝。朝の3時半に起床し、英字新聞のJapan Timesを読んだり、TOEFLの練習問題を解いたりして、英語を忘れないようにしました。

この時期は極度の疲労と睡眠不足で、会社から帰って布団に入って枕に頭をのせた瞬間に眠っていました。ただ仕事中に居眠りしたり、発注ミスをして上司に叱られたりしたので、TOEFL受験後には、起床時間をもう少し遅く5時半ごろにしましたが、、、。新入社員時代が、これまでの人生で精神的にも肉体的にも一番きつかったと思います。

入社一年目の冬ごろだったでしょうか。それまでの努力の甲斐あって、TOEFL で合格点が採れ、正規留学が可能となりました。今のようなインターネットがない時代は、情報を得られるのは図書館か本屋でした。アメリカの大学について調べるために名古屋の丸善書店の洋書コーナーで、5センチ程の分厚い全米の大学案内書のような本を買って来て、大学の候補を探しました。

米国はその昔、奴隷制のあった南部よりも北部の方が人種差別が少なそうだったので、北部に決定。東部よりは西部の方が日本に近く便利、だけどカリフォルニア州は日本人が多そうで、できれば避けたいということで、最終的に留学先に選んだ大学はアメリカ北西部に位置する東オレゴン州立大学という、ポートランドから車で5,6時間はかかる交通のとっても不便な、でも、のんびりした田舎町の小さな大学でした。

この大学を選んだ理由は授業料の安さ。アメリカの公立の大学では、留学生は現地の米国人学生と比べて、2倍から3倍の授業料がかかります。しかしながら、当時からその大学は、留学生も現地の米国人学生も学費が同じで、しかも一年に2,3千ドルという破格の学費でした。しかも、寮費と食費、保険料などを合わせても、年に7千ドル程(当時のレートで百万円ほど)だったのです。

当時の給料は手取りが十万円ちょっと、始めのボーナスが、十万円、冬のボーナスが52万円で、社員になって一年で、200万近くを貯金でき、2年目の9月までには、今まで貯めてきた小遣いやお年玉や大学時代のアルバイト代、親戚からの餞別をあわせて、350万円程になりました。(2022年の物価に換算すると500万円程でしょうか。)留学中の夏休み中にアルバイトをすれば、4年間の正規留学の費用は賄えそうな貯金ができたので、入社2年目の8月に退職し、9月から2度目の留学生活が始まりました。

新卒で入社した会社を一年数か月で退社、会社の売り上げにはあまり貢献できず、内定をくれた社長には申し訳ない気持ちと、サービス残業など、当時の理不尽な日本の中小企業の労働環境から取り合えず脱出できた解放感が入り混じり、今度の渡米はどうなるのか、期待と不安の夏が終わるころ、僕は航空券とパスポートを手にしたのでした。

では今日はこのぐらいにして、明日は2度目の留学について書きます。

 

今日も窓辺の餌箱にはひまわりの種を貰いに、野生の鳥たちが来てくれました。写真では見難いのですが、

レインボーロリキート(Rainbow Lorikeet)くちばしと胸がオレンジ色、頭は青、体は緑のインコ

 

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一年半ぶりに以前の職場でアルバイト

2022年05月25日 10時27分42秒 | 仕事

今日は一年半ぶりに、以前働いていた職場でアルバイトをしてきました。僕の以前働いていた職場というのはオーストラリアのとある教育機関です。一年半前にその職場を早期退職したのですが、二十数年の間、有給休暇を一度もとらなかったので、ロングサービスリーブという有給休暇が溜まりに溜まっていまして、今も有給を貰っています。有給を通常の半分にしてもらって、代わりに有給の貰える期間を長く、二倍にしてもらったので、今年の8月までは有給がでます。

退職後、ほぼ一年半、主夫として息子の学校への送り迎えや買い物、料理、後片付けなどをこなし、家事が終わると畑で野菜を作ったり、趣味を楽しんでいたのですが、退職以来、人と話す機会が極端に減ってしまいました。毎日会って話すのは家族のみ、或いは散歩の途中に、ご近所の顔なじみの人に会えば話すくらいでした。最近では、ショッピングセンターの食料品売り場のレジで店の人と短い会話をするのが楽しみになっていた程でした。友人たちも殆どがまだ50代なのでフルタイムで働いているし、コロナ禍以降は会う機会が減ってしまっています。

それで何かボランティアでもしてみようかとボランティアの求人サイトで自分に合いそうな活動を探してみたり、市役所が主催する老人大学、つまり年配の方々の為に市の集会所で催される様々な講座(University of Third Age)など、調べてみたのですが、自分に合いそうなものは見つかりませんでした。

やはり家族以外の人と話すことは大切ですよね。どうすれば良いだろうか、、、と考えていたところ、以前の職場の人から「今、コロナ禍やインフルエンザで今、職場で人が足りていない。それで週に一日か二日、アルバイトで手伝いに来てみれば?」と言われて、これは渡りに船だと承諾したわけです。

一年半ぶりに以前の職場に戻った感想は、夏休みの休暇後に職場に戻ったような感じで、全く違和感がなく、違いと言えば、「引退生活はどう?お帰り!」と多くの人に言ってもらえたことです。週に一度か二度ならストレスを溜めることなく楽しく働けるし、職場の同僚と話せるし、しかもアルバイト料も貰えるので一石二鳥です。以前の様にフルタイムで働きたくはないので、不定期ですが、これからもしばらくは週に一度か二度アルバイトをさせてもらってセミリタイヤ生活をより充実させようと思っています。

見出しの画像は昨日撮ったウサギの巣穴。数日前に沼の泥を捏ねて、巣穴に入れてみたのですが、そのすぐ隣に別の穴ができていました。

 

 

 

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