昨日は突然コロナ陽性になってしまい、読者の皆様にはご心配をお掛けしてすみませんでした。今日の病状は幸いにも相変わらず、時折痰を伴う咳がでるくらいで、熱もなく、この様にブログを書くことができます。普段、僕が買い物や食事、後片付けの担当なのですが、昨日に引き続き今日も妻は仕事を休んで、僕の代わりに息子を学校に送ったり食事の準備や後片付けを代わりにやってくれています。
このブログはまだ始めて一週間程で、読者の方は一日数人程度だったのですが、三日ほど前にブログ村とブログランキングに登録した途端、ページビュー数(PV)とユニークユーザー(UU)が大幅に増えて、毎日数十人の方々に読まれていて、嬉しさと驚きが混ざった複雑な気持ちです。これからも、ご期待に沿える様に、毎日更新を目指して頑張りますので、よろしくお願いいたします。
さて、3日程前から海外就職や海外移住に興味がある方の為に、普通の日本人(僕のような)にも十分可能であることをお伝えしたく、僕のオーストラリア移住までの道のりを書いています。
9か月の留学を終えて帰国したのは大学四年生の5月ごろで、1980年代後半の当時は丁度就職活動を始める時期でした。大きな会社に入って、その会社の小さな歯車になって働くより、どうせ働くなら、鶏口牛後の諺どおり、小さな会社に入って経営を学ぶのもいいかも、と内定を頂いた地元にある社員20人足らずのアパレル/繊維業の零細企業に就職を決めました。
この企業に就職した理由は3つで、まず、この業界にしては珍しく、ボーナスが多くて、中には11か月分貰った社員がいると企業説明の雑誌に載っていたこと(この社員は社長の息子の常務(当時32歳)であったことが後に判明)、
次に希に、外国(の零細企業)とも取引があって得意の英語が使えそうだったことと、
最後に勤務先が家から自転車で通える距離で、通勤の車が必要ないので、留学の費用が手っ取り早く貯められそうだったからです。同期は僕を含めた5名(男子4名、女子1名)でした。
就職して一番大変だったのは、退社時間の遅さで、仕事があってもなくても、毎晩夜の9時、10時になって、上司の許可が出るまで、退社することができませんでした。バブル真っただ中の当時の経営者は、「社員には出来るだけ長く働かせて、稼げるだけ稼ぐ。社員のライフバランスなんて要らない。奴隷と一緒。」という考えだったと思います。残業代がでないのに、夜遅くまで家に帰してもらえない(サービス残業)など理不尽な労働環境でした。今でいうブラックですが、当時はそれがどこでも当たり前だったので、そんな言葉はありませんでした。
一か月程の社内研修が終わってから、僕は業務統括部に配属されました。名前はカッコ良さそうですが、仕事の内容は社の雑用係といった部署で、花形の企画営業部(チェック柄など生地のデザイン)や生産部(外部の工場に委託生産)とは違い、中途採用の上司と僕だけの地味な部署でした。どちらかといえば社内余剰人員待合室といった方生産部の助っ人として原料である糸(ウール・羊毛)や製造した反物(毛織物)を委託工場や倉庫に配送、コンピューター入力、規格外で返品されてきた商品(高級婦人服)の修繕(ピンセットで糸に混ざった不純物を取り除く)などでした。仕事がなければ、コンピューターに向かって、忙しく働いているふりをして、時間が過ぎるのを待つという、何とも辛い部署でした。
当時はバブルの真っ最中、一着30万円もする婦人服(ワールド、樫山、三陽商会などの大手アパレルが顧客)のこの会社はこの頃が売り上げがピークだったと推測します。この後、日本経済のバブルがはじけると同時にこの会社は倒産してしまいましたが。以前、日本に帰国した時に、会社の同期の友達に会いに行こうと、会社の前まで行ってみてびっくり、その会社の建物は跡形もなく、その敷地は住宅地になっていました。
残業で帰宅するのが遅くなればなるほど、2度目の米国留学への思いは強くなりました。「こんな会社に自分の人生を売るつもりはない。この酷い状況から脱出するには留学しかない。」と、留学に必要なお金を貯める為、同僚から飲み会の誘いは殆ど断り、(ある時期から誘われなくなった。)月に1,2度は英語の勉強の為に名古屋の映画館に行く以外、給料やボーナスのすべてを貯金していました。
当時も今も、米国の大学に正規留学するためには、TOEFL(Test of English as a Foreign Language)という英語能力試験で合格点(当時は530-550点)を得点しなければなりません。試験勉強の時間を確保する為、会社から夜十時半に帰ってきて、母が作っておいてくれた晩御飯を食べてから入浴をすませ、11時には就寝。朝の3時半に起床し、英字新聞のJapan Timesを読んだり、TOEFLの練習問題を解いたりして、英語を忘れないようにしました。
この時期は極度の疲労と睡眠不足で、会社から帰って布団に入って枕に頭をのせた瞬間に眠っていました。ただ仕事中に居眠りしたり、発注ミスをして上司に叱られたりしたので、TOEFL受験後には、起床時間をもう少し遅く5時半ごろにしましたが、、、。新入社員時代が、これまでの人生で精神的にも肉体的にも一番きつかったと思います。
入社一年目の冬ごろだったでしょうか。それまでの努力の甲斐あって、TOEFL で合格点が採れ、正規留学が可能となりました。今のようなインターネットがない時代は、情報を得られるのは図書館か本屋でした。アメリカの大学について調べるために名古屋の丸善書店の洋書コーナーで、5センチ程の分厚い全米の大学案内書のような本を買って来て、大学の候補を探しました。
米国はその昔、奴隷制のあった南部よりも北部の方が人種差別が少なそうだったので、北部に決定。東部よりは西部の方が日本に近く便利、だけどカリフォルニア州は日本人が多そうで、できれば避けたいということで、最終的に留学先に選んだ大学はアメリカ北西部に位置する東オレゴン州立大学という、ポートランドから車で5,6時間はかかる交通のとっても不便な、でも、のんびりした田舎町の小さな大学でした。
この大学を選んだ理由は授業料の安さ。アメリカの公立の大学では、留学生は現地の米国人学生と比べて、2倍から3倍の授業料がかかります。しかしながら、当時からその大学は、留学生も現地の米国人学生も学費が同じで、しかも一年に2,3千ドルという破格の学費でした。しかも、寮費と食費、保険料などを合わせても、年に7千ドル程(当時のレートで百万円ほど)だったのです。
当時の給料は手取りが十万円ちょっと、始めのボーナスが、十万円、冬のボーナスが52万円で、社員になって一年で、200万近くを貯金でき、2年目の9月までには、今まで貯めてきた小遣いやお年玉や大学時代のアルバイト代、親戚からの餞別をあわせて、350万円程になりました。(2022年の物価に換算すると500万円程でしょうか。)留学中の夏休み中にアルバイトをすれば、4年間の正規留学の費用は賄えそうな貯金ができたので、入社2年目の8月に退職し、9月から2度目の留学生活が始まりました。
新卒で入社した会社を一年数か月で退社、会社の売り上げにはあまり貢献できず、内定をくれた社長には申し訳ない気持ちと、サービス残業など、当時の理不尽な日本の中小企業の労働環境から取り合えず脱出できた解放感が入り混じり、今度の渡米はどうなるのか、期待と不安の夏が終わるころ、僕は航空券とパスポートを手にしたのでした。
では今日はこのぐらいにして、明日は2度目の留学について書きます。
今日も窓辺の餌箱にはひまわりの種を貰いに、野生の鳥たちが来てくれました。写真では見難いのですが、
レインボーロリキート(Rainbow Lorikeet)くちばしと胸がオレンジ色、頭は青、体は緑のインコ