今日のメルボルンは昨日に引き続き寒い天気でした。日本に住まわれている皆さんはいかがお過ごしでしたか。
僕は今日も前の職場から頼まれてアルバイトをしてきました。多くのスタッフと話すことが出来、刺激を一杯もらえたので、とても良かったです。これでお小遣いまで貰えるのですから、一石二鳥。これからも不定期だと思いますが、週に1,2回、このアルバイトができればと思います。
さて、前回のブログで僕の高校一年生の時の成績はクラスで最下位(ビリ)だった話をしましたが、高校2年生の時、小さな転機が訪れました。それは英語の長文読解の授業でした。今の日本の英語教育では先生方がどの様に英語を教えるのか存じませんが、今から40年程前の英語の授業は、長文読解がメインでした。まず宿題で教科書の英文(約1ページ)をノートに書き写し、新しい単語や熟語を辞書で調べながら、一文づつ英文を日本語に訳していくものでした。
当時50歳前後の小柄な女性の先生(名前は忘れてしまいましたが、)の授業では、まず英文を読む練習をクラスで一緒にした後、席順に当てられた生徒が一人一文づつ英文を読んでから、家で訳してきた日本語訳を発表して、進めていきました。一学期の始めの頃は頓珍漢な日本語訳でクラスメートに笑われていましたが、徐々に日本語訳が出来るようになり、英語の成績だけはクラスの真ん中ぐらいまで上がってきたのです。先生から「あなた最近、頑張ってるわね。」などと褒められたこともあって、以来、英語だけは徐々に好きな科目になりました。
高校時代、部活動は背が低くても、あまりハンデのない卓球部でした。そこで友達が出来て楽しかったのですが、毎日2キロほどランニングした後、卓球場で1時間程練習して、そして30分間自転車を漕いで家に帰る頃にはへとへとに疲れていました。夕食後には睡魔が襲い、べッドに横になって寝てしまうか、勉強するふりをして、漫画を読んでいるか、学校で配布された「大学合格体験記」などを読んで、自分が合格した気になっていました。
当時、工学部はカッコ良さそうだなと思いましたが数学、物理など理系の成績が特に悪かったので、理系は諦め、文系のクラスに入りました。
親に負担をかけないように、志望大学は一応、国公立にしましたが、共通一次試験(今の共通テスト)の結果は平均点以下。続いて受けた中堅の私大も不合格で、結局滑り止めにうけた地方の無名の大学(いわゆるFラン)の経済学部に入学することになりました。この大学を選んだ理由は、当時無名の私大にしてはめずらしい、9か月間の米国留学制度があったからです。サークルはE.S.S.(English Speaking Society)にして、留学を視野にいれました。
E.S.S.に入ってまず驚いたのは、英会話ができる先輩はおろか、英語を勉強している意識の高い系の先輩は誰一人とおらず、何でこのサークルに入っているのか分からない人たちばかりでした。部室での話題もファッションや車、バイク、競馬、パチンコ、コンパなどで、新聞を読む先輩さえ希だったと思います。
幸い1980年代後半の当時はバブルの絶頂期で、就職は超売り手市場。地方の無名の私立大学卒でも、中堅企業や中、小規模の金融機関から内定がもらえた学生も多くいました。(勿論テレビに出てくるような名の知れた会社に就職することは無理でしたが。)
その頃の僕は「無名の大学に入ってしまったけど、人生、詰んだわけではない。大学では英語をマスターして人生逆転してやる。」と考え、遊んでいる学生には目もくれず、まず、どうすれば英語が話せるようになるのかを調べました。当時から英会話学校は多く存在していましたが、親から仕送りをもらって下宿生活をしていた貧乏学生の僕にはとても英会話学校には行けません。今の様にインターネットは無い時代でしたので、生の英語に触れる機会は限られていました。
始めたことは、まず、毎朝、大学の図書館で誰も手に取らない英字新聞のJapan Timesと辞書を引きながら格闘し、下宿に帰ってからは定期購読していたTime MagazineやNews Weekというアメリカの時事週刊誌で単語力と読解力を付けました。リスニングは、下宿の友達が粗大ごみの中から拾ってきた短波ラジオを千円で買い取って、アメリカの政府系短波放送、Voice of Americaを毎晩寝る前に聞きました。V.O.A.の英語はニュースの他に、英語学習者にも聞き取りやすい英語の番組があって次第に英語が聞き取れるようになりました。
春休みや夏休みには実家に帰り、家の近くの繊維工場でつらい流れ作業のアルバイトをしました。8時間も立ちっぱなしの流れ作業は一分の時間が過ぎるのがどれほど遅かったことか。そのアルバイトで貯めたお金で、辞書を片手に朝から映画館に籠り、ハリウッドの映画(当時は二本立て)を2度、3度見て、自然な英語に耳をならしていきました。映画の内容にもよりますが、会話の10%か20%ぐらいが、少しづつ、聞き取れるようになり、映画のあらすじも少しづつですが、字幕なしで理解できるようになりました。
一年に数回、名古屋地区の20数大学のESSが合同で行われる活動は総会やスピーチコンテスト、ダンスパーティー、ディべート大会、英語劇大会や英語合宿などで、これらの活動に参加する学生は旧帝大の名古屋大学を筆頭に地方国公立や有名私大、中堅私大の学生で、僕の大学のような偏差値の低い大学からの参加者は少なくて肩身が狭かったです。今ではどうか分かりませんが、当時E.S.Sの英語合宿の部屋割りは各グループ8人-10人程が一部屋に割り振られ男女学生が貸布団で雑魚寝でした。今考えると、男女学生が雑魚寝ってすごくないですか。
その合宿では一生忘れられない出来事がありました。皆が寝静まったころ、中堅私立大の先輩たちが「OO大学(僕の大学)のバカな連中、こいつら合宿に来て恥ずかしくねえのかなあ。恥をさらしるに来とるのが分からんのかなー。」などと格下の大学の僕らを小声で嘲笑っているのが聞こえました。これは僕にとって今までの人生で最大の侮辱で、「これが現実なんだ。でも将来、絶対に、こいつらを見返してやるぞ。」と寝たふりをしながらも、その晩は一睡もせず、臥薪嘗胆することを心に誓ったのでした。
では、明日に続きます。いいねボタン、よろしくお願いします!