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日日の幻燈




【内藤新宿切絵図(1862年)】

内藤新宿をちょこっとだけ歩いてみました。
新宿。
すでに宿場町としての面影は皆無ですが、せめて雰囲気だけでも。内藤新宿はざっくり言うと四谷四丁目の交差点から新宿伊勢丹あたり(新宿1丁目~3丁目)ということになるでしょうか。
で、まずは歩き出す前に、内藤新宿の概略を調べられた範囲でおさらい。

・1698(元禄11)年6月、幕府より甲州街道の宿場町として認可。
・1702(元禄15)年2月、大火により甚大な被害発生。
・1716(正徳6)年正月、火災発生、宿場内67軒焼失。
・1718(享保3)年10月、廃駅。
・1772(明和9)年4月、再度、宿場町として認可。
・1866(慶応2)年6月、宿場内で打ち壊し発生。


■■内藤新宿、開業!■■
甲州街道では江戸から最初の宿場町。五街道が制定されてから、90年も経ってからの宿駅開業でした。それまでは高井戸宿が江戸から最初の宿場町でした。
もともと茶屋程度の休憩施設があったようですが、そこを正式に宿場町に…と願い出たのは、高松喜兵衛ら5人の浅草商人。江戸から高井戸までは距離があって不便なので…との申立てが聞き届けられたとのこと。また宿場開設にあたって、5600両(1両=12万円で計算すると約6億7200万円)を上納する条件付き。
高松喜六らが、5600両を支払ってまで宿場開設を願い出た真の事情はどのあたりにあるのですかね?いろいろ取り沙汰されていますが…。

【内藤新宿(岡場遊郭考より)】

宿場開設後、2度の火災で被害にあいながらも、旅籠屋52軒を数えるなど、内藤新宿は繁栄していきます。ただ、宿場というよりも江戸や近郊の人たちの遊興の場としての色合いが濃かったようで。
旅籠屋には飯盛女。
いわゆる岡場所ですね。


■■廃駅■■
ところが!
宿場開設20年にして突然の廃駅処分。
理由は旅人などの交通量が少ないから、とのことでした。
しかしこれは表向きの理由とされ、その実は、幕府による岡場所取締りの一環として、見せしめ的に閉鎖に追い込まれたというのが通説となっています。
世は暴れん坊将軍・吉宗の時代。
上様、白馬を駆って享保の改革まっしぐらなのでした。

また廃駅に至る逸話として、
内藤大八という武士が旅籠屋の下男とトラブルになり、打ち負かされて帰ってきた。兄の内藤新五左衛門は大いに怒り、大八を切腹させて、その首を持って大目付の屋敷に乗り込み、ことの経緯を語り、自身の禄と引き換えに内藤新宿の取り潰しを願い出た。それがきっかけで内藤新宿は廃駅になった云々…。
さてどうでしょう?

廃駅となった内藤新宿は、伝馬継立業務の停止や駕籠屋の営業停止、旅籠屋の転業・廃業など宿駅機能を失い、町は寂れていきました。広大な屋敷を誇った旅籠屋は、座敷に封をすることを命じられています。それでも元旅籠屋のうちでは、こっそり旅行者を宿泊させたり、遊郭的な営業をしていたところもあったようです。
廃駅となった5年後(享保8年=1723年)には、高松喜六ら名主たちの連名で、早くも宿駅復活の嘆願が出されていますが、取り上げられませんでした。


■■明和の立返り■■
廃駅後、宿場復活の運動はずっと続けられてきましたが、それが実を結んだのが明和9(1772)年。「明和の立返り駅」と人々は呼んだそうです。
当然、タダで願いが聞き届けられたわけもなく、最初に払うと約束しながら未払いになっていた上納金の残金(1136両)の支払いや、新たな上納金・冥加金の支払いなどが条件。
宿場再開に際して、各地から新たに旅籠屋が移転し開業、飯盛女も150人を置くことが認められ、内藤新宿は晴れて宿場町として復活を遂げたのでした。
この復活劇、田沼意次の経済活性化政策の一環だったとも。廃駅も再開も、幕府の政策に密接に関わっている(翻弄されている)内藤新宿。

再スタート時の宿場の内訳は
・旅籠屋57軒(38軒、23軒とも)⇒天保15(1844)年には25軒。
・茶屋50軒(19軒とも)⇒文化3(1806)年には62軒。

【内藤新宿(江戸名所図会より)】

再開後の内藤新宿は、江戸四宿の名に恥じぬ繁栄ぶりを見せます。この地は甲州街道と青梅街道が合流する交通の要衝でもあり、江戸近郊からの物資の運搬で賑わいました。

「四谷新宿馬の糞」

と言われるほど、荷駄の通行が多かったようです。

そして、もうひとつ。宿場というよりも遊興の地としての繁栄です。

「吉原に劣らぬ女性がいる(吉原におとらぬ春花を置たり)」
「吉原や品川をしのぐ賑わいだった(当時南北の国より賑ふ所なり)」

旅籠だけではなく、茶屋や芸妓屋なども軒を連ね、その発展ぶりはめざましいものだったそうです。その一方で、家屋の造りも華美になるなどしたため、たびたび取締りを受けたとか。

【江戸名所百人美女 内藤新宿(歌川豊國)】

天保15年に旅籠屋が立返り当初より減っているのは(57軒→25軒)、風紀取締りを強化した水野忠邦による天保の改革の影響でしょうか?
それにしても1キロあまりの宿場に25軒だったら、単純計算で40メートルおきに旅籠があったということに。立返り時の57軒で計算すると、20メートル弱に1軒です。
ちなみに、宿内の総人口は安永6(1777)年、1771人との記録が残っています。


■■宿場の主要施設■■
宿場町に付きものの本陣や脇本陣、問屋場はどうだったのか?
元禄の宿駅開業の際は、名主(高松家など)4人が本陣を兼業し、脇本陣は信濃屋(内藤大八の一件があった旅籠屋)だったといいます。立返り後も同様で、本陣は名主の兼業、脇本陣は再開時に移ってきた橋本屋が旅籠屋と兼業しました。
問屋場は転々としたようです。宿駅再開当初は上町に、その後下町に移り、最終的には仲町の太宗寺の前あたりに移りました。高札場も同様で、追分付近にあったものが、幕末には仲町、問屋場前に設置されています。
また、一里塚が天龍寺境内にあり、と記録に残っています。

【内藤新宿復元模型(新宿歴史博物館)】

問屋場も高札場も一里塚も、現在、跡地を示す痕跡は残っていません。昔の絵図と現在の地図を重ね合せて、場所を特定するしかありませんが、それはそれで江戸時代と現在のギャップが見て取れて面白いんですよね。


そんなことを頭に入れつつ、新宿を歩いてみました。
といってもごくごく一部ですが、次回以降、順々にUPしていきます。


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