「横澤彪氏「国分太一くん、箸は右手で…」発言に思うこと」お茶でっせ版、
新生活版
に続いて、もう一度、横澤彪氏の発言を取り上げます。
J-CAST テレビウォッチ
「横澤彪のチャンネルGメン69」
で、2007/6/27
「国分太一くん、箸は右手で持とうよ」の続編とも言うべき記事を発表しています。
2007/7/ 2 「国分太一くん、オレも左利きなんだ」
ところが記事内容を拝読いたしますと、前回の記事で左利きの人たちから「左利き差別」と批判されたそのポイント、および理由を正しく理解されていない様子が見えます。
それゆえに、更なる混乱を来たしつつあるように思われます。
そこで、横澤発言に見る、左利き/利き手差別の構造―なにゆえに「左利き差別発言だ」といわれるのかを、私なりに考察してみました。
・・・
『哲学ってなんだ 自分と社会を知る』竹田青嗣/著 岩波ジュニア新書415(2002刊)
「第4章 近代の哲学者たち/2 自由をつきつめる/
差別の本質観取」119-126p
の項を、参考資料として紹介してみましょう。
著者は、在日韓国人二世で、民族の問題に関して悩み、哲学に出合い、これを克服された方と思われます。
差別というものに関しても、自分の問題として捉えることのできる人物だ、と私は思っています。
---差別とは
差別の土台
―人間も競争原理の中で生きているので、必ず強いものと弱いものがいる。
差別
―近代に入り、人間はみな平等で同じ価値を持つ存在である、という考えが広まり、それにもかかわらず貴賎等の身分の差があることを指して呼んだ。
「差別」という考えは、人間はみな平等である、という近代人の人間理解を基礎としている。
---差別の本質
人間は誰でも大なり小なり、差別をしたりされたりしている。
【実際の行動でなくとも意識の上で、など思い当たるものは誰しもお持ちでしょう。私もそうです。】
差別というものは、好き嫌い同様、人間関係には普遍的につきまとうもの。
---「差別するという経験」の本質契機(=条件・要件)
差別語という呪文には、相手を「劣った存在」に変えてしまう力がある。
一方、呪文をかけたほうは、自分を「相対的に」優越した存在であると感じる。
この相対的な自己価値の上昇感覚が、つい差別をしてしまう秘密だ。
---外から見て、差別が醜いものと感じる理由
自分なりの努力でつかんだ自己のアイデンティティの確認ではなく、
他人を貶めて作り出した落差によって、心情的に相対的に自分を「上」にあるという感じるような方法だから。
他人の苦痛を利用して自己価値を持ち上げるような行為だから。
---呪文が力を持つ条件
共同体の関係。
(利き手に関して言えば、多数派の「右利き」、少数派の「左利き」。)
この内属が、自然なものとして信じられるということ。
そして、この
共同体の優劣の関係が、一般通念として共有され信じられていること。
ここで初めて、差別語が呪文として力を発揮できるようになる。
人間がつい「差別」をしてしまう根本理由は、「アイデンティティ補強」。<だから、どんな人間も対等な「人間」と見なすことが自分たちの社会の基本的でフェアなルールであるという自覚が薄いと、それができる立場に立つと誰でも「つい」差別してしまう。>123p
---差別しつつ生きることの本質
差別してしまう体質の人
―自己の自然なアイデンティティに不安がある。
自分なりの自己価値をそれなりに持っている人は、他人を差別する内的理由が少ない。
自己価値に不安があるほど、機会があれば、無意識のうちに他人の価値を貶め、自分の価値を相対的に引き上げようとする。
自分の価値を社会の一般通念だけで受け取っている。
無自覚に、社会の通念的な価値の中で生きている。
狭い価値観、世界像の中で生きている。
世間一般のルールを絶対視しており、うまく行っているときはそれでよいが、世間的な一般価値からずれてくると、決定的な打撃を蒙る。
【今回の、横澤氏の場合などは、その典型のような気がします。
世間的な価値観が変わってきているのに、それに気付かず、昔からの価値観を絶対的なものと考えて、意見を述べています。】
---差別されて生きることの本質
差別される側の人の危機
―自然な自己アイデンティティや自然な世界との親和性が脅かされている。
差別の呪文が、世間の一般価値に根拠を持つこと、その構造のなかで可能になっていることを自覚できないと、差別に負けて、自分自身へのうしろめたさ、不安、他人への攻撃性を抱きやすい。
そして、過剰に敵対意識や対抗意識を持つことになる。
差別は、個人の生き方の問題としてでなく、社会的な問題として、ルールや制度の問題として考えなければならない。
自分の問題としては、自己アイデンティティや自己価値についてどのような関係態度を取って生きているか、といった問題として捉え直したほうがいい。
<そうでないと、差別の問題は、しばしば、「差別語」など特定の差別現象批判や、差別はあってはならないし差別をする人は悪い人間であるといった、ごく一般的な差別教説としてだけ流通するようになるのである。>126p
・・・
★<「...オレも左利きなんだ」感想>
横澤氏の7月2日の記事について、私の感想を書いておきます。
―
「だから、左利きの人を非難したり、軽蔑したりするつもりはない。」
私も左利きだから、というのですけれど、前回
なにが問題とされたのかの本質が理解されていない発言です。
問題はそういうところにはありません。
差別的と受け取れる発言である点が問題なのです。
人間はみな平等かつ自由である、という前提でものを考えているのが、現代の私たちです。
その中には
「利き手の違い」も含まれています。
右利きであろうと左利きであろうと、右手を使おうと左手を使おうと。
基本的人権の尊重を謳う世界人権宣言「人権に関する世界宣言」が国連で採択されたのは1948年(昭和23)ですから、横澤氏が箸の手習いを始めた頃には間に合っていないかもしれません。
しかし、左利きの子供に対する無理な利き手の変更
(右手使いが正しい作法であるという観点から、誤った左手使いを右手に直す・正すという意味で「矯正」と呼んだ)
が及ぼす弊害について強調されるようになったのは、精神科医の箱崎総一氏が主宰した「左利き友の会」の運動が大きな役目を果たしたと考えますと、1970年代の半ば頃と思われます。
横澤氏がこの時期に自らの左利きに対する考え方を修正されておれば、時代の意識からのずれも修正できていたのではないでしょうか。
「躾をきっちり受けてきたオレ」「左手で箸を使っているのはいただけない」、およびラストの川柳に見られるように、
自分の努力を高く評価し、それに対して国分太一くん(および左手箸の人たち)の努力の欠如を指摘して、
<他人を貶めて作り出した落差によって、心情的に相対的に自分を「上」にあるという感じ>を読者に与え、
外から見て、醜い差別だと感じさせたのです。
―
「右手で箸を使ったほうがいいと思うのは、それが食事のマナー、作法だと考えるからだ。日本の文化では右手で箸を持つのが食事の作法とされてきたし、箸の置き方や料理の配膳の仕方は、右手で箸を持つことを前提にしている。」
ここ何十年かの間に、左利きに対する考え方が変わってきています。
そういう時代の変化とご自分の価値観・考え方のずれを表明しています。
いつまでも子供の頃に習った教えを絶対視しているのは、人間的に進歩のない証拠と受け取られます。
大人になれば、人の意見を無批判に信じるのではなく、検証してみるべきなのです。
五感を目いっぱい使って世間をよく観察し、自分の頭でしっかり考え、価値観や世界観を再構築する。
それが日々勉強するということでしょう。
―
「国分太一君に「箸は右手で持とう」とあえて注文をつけたのは、彼が「芸事」にたずさわるタレントだからだ。たとえバラエティであっても、テレビ番組で食事をするのはプライベートではなく、れっきとした仕事である。メシを食うのも芸のうち、なのである。」
きっと箸使いで考えておられるからお分かりになられないのでしょう。
こういうときは、
他のことに置き換えてみるのです。
放送の仕事を長年されていた方ですので、放送関係の事柄に置き換えればよくお分かりになりましょう。
例えば、
左手箸を方言に、右手箸を標準語・共通語に置き換えれば、一目瞭然でしょう。
アナウンサーは全国向けニュースで方言はご法度、役者も芝居の設定によっては方言はダメでしょう。
また、古典芸能などでも当然好き勝手とは行きません。
役者は役柄が設定されているときは、それに従うべきでしょう。
しかし、フリートークの番組なら方言でもOKのはずです。
自然体でいいのです。
お笑い芸人でもそうです。
全国向け放送でも関西弁バリバリの大物芸人さんがいます。
箸使いも同じです。
役柄ならば、それに従う。それ以外は自由です。
これが今の時代の標準的な考え方でしょう。
―
「テレビを見ている多数の視聴者に対する影響力も考えると、日本の食文化にのっとったマナーを大切にしてほしいと思うのだ。」
「視聴者に対する影響力」→「左手箸は悪影響を及ぼす」という解釈が可能になり、こういう言葉を使うと、いよいよご自身の時代とのずれを表明したことになります。
―
「つい言葉に勢いがついてしまったのかもしれない。」
前回の記事のラストの川柳。ブラック・ユーモアのセンスも空回りです。
つい~してしまった、という場合は、たいてい軽薄な行動です。
上記の本に書かれていたように、そういう行動を起こす要因を内に持っている証拠です。
結局は、
本人が左利きであろうとなかろうと、左利きに対する差別的な言動を起こす要素を心の中に持っている人がいる、ということです。
何度もいうように、それは、結局、自分の考えが不足しているからです。
何事もよく観察して、自分の頭でしっかりとものごとを考える、という姿勢を持っていないことに起因しているのです。
・・・
★<ブログの特性>
横澤氏の発言が摩擦を生じた原因は、ブログというメディアの特性を十分認識されていなかったからではないでしょうか。
従来のメディアは送り手側からの一方通行でした。
また、過去に書いたものは「済んでしまった」ことで取り返すことができず、修正も削除もできませんでした。
読者が書き手の意見に不満を持っても、同じ土俵で議論することはできませんでした。
発表の場を持たない大半の人々は、あきらめて見過ごすしかありませんでした。
しかし、ブログは違います。
双方向性を持ち、同じ土俵で意見を公開できます。
もはや黙っていなくてもいいのです。
ここでは書き手側も従来のような書きっ放しは許されません。
そういう特性を認識できていたのかどうかも一つのポイントでしょう。
そして、このネットを生活の中に取り込んでいる人たちの多くは、人権宣言以後に生まれた人たちであり、かつ箱崎左利き友の会の活動以降に育ってきた人たちでしょう。
私や彼らにとって、
横澤氏のような価値観や考え方は、古い時代の間違った考えだ、と判断されます。
今でも横澤氏のような価値観や考えを持つ人は少なくありません。
しかし、現在のネット上に限って言えば、圧倒的に少数派に属するでしょう。
たとえ世間一般から偏向した考えを表明していても、これが私のような素人の無名ブロガーによる人知られぬブログ上であれば、さほど問題にはならなかったでしょう。
ところが、実際は舞台も書き手もそうではなかった、ということです。
・・・
★<マナーや作法についての考え方>
「...オレも左利きなんだ」のコメントを読んでいますと、
マナーや作法についての考え方の違いが云々されています。
その点について、上記の『哲学ってなんだ』を読んで考えた私の意見を書いておきます。
近代以降、人間はみな平等で、かつ自由な権利を持つ存在である、という考えが基本となりました。
一方、ものごとには、誰もが理解を共有できる普遍性のある共通了解の領域(自然科学や数学など)と、それぞれに立場が異なる共有できない、多様性に満ちた価値観や世界観などの共通了解の成立しない領域(宗教や美意識など)の二つがあります。
そこで
現代では、お互いが平等でかつ自由な存在であることを考慮し、共有できる普遍的な考えをもとに、それぞれの多様性を承認し合い、お互いの関係を調整することで共存しようと考える時代になっているのです。
これを箸使いに当てはめますと―
・右手使いも左手使いも、平等かつ自由な人間同士である。
・普遍的な考えとして共有できる点は、「箸を上手に使える持ち方」が大事だ。
・多様性としては、「右手で持つのが正しい/美しい」、「左手で持ってもよい/上手に使える持ち方こそ大事」があります。
ここで、
普遍的な考えに基づき、「箸を上手に使える持ち方」でさえあれば、互いに多様性を認め合い、どちらの手で持ってもよい、と考えるのです。
これが現代的な考え方ではないか、と思います。
・・・
横澤氏はこれ以上名を汚さぬように、「読者に対する影響力も考え」、改めて熟慮の上、収拾の道を探るほうが賢明でしょう。
* 左手箸&箸使い関連記事:
2004.11.14
ネットで拾った左利きの話題:マナーの悪いCM
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<横澤氏「太一くん…」左手箸発言>追加記事---(2007.7.16)
メルマガ『左利きで生きるには 週刊ヒッキイhikkii』
・
第90号(No.90) 2007/7/14「<特別篇>横澤氏「太一くん...」発言から考える」
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・2007.06.30 横澤彪氏「国分太一くん、箸は右手で…」発言に思うこと
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※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より
「横澤氏「太一くん…」発言に見る左手、利き手差別の構造」を転載したものです。
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