以前、メルマガ『週刊ヒッキイ』の「おまけコーナー」でも少しふれていたのですが、このたび左利き仲間の間で話題に出ましたので、改めてここでもう少し詳しくふれておこうかと思います。
第143号(No.143) 2008/7/26「<左利きプチ・アンケート>第55回」
昨年2008年6月に出版された、江戸時代を背景にした落語から現代社会を考えるといった本『落語の国からのぞいてみれば』(堀井憲一郎/著 講談社現代新書1947)のなかに、落語のなかの左利き、江戸時代の左利きについて書かれた章がありました。
内容的には、面白い本です。
江戸時代と現代を見比べるといった趣向で、現代を別視点から捉えることで、明らかになる面があるだろう、ということでしょう。
こういう発想は、落語がブームになっているという背景も手伝ってのことだと思うのですが、なかなかタイムリーな企画でもあったと思います。
さて、この左利きに関する章は以下のような内容です。
第十四章 左利きのサムライはいない
左で食べる落語家はいない/舞台のカミとシモ/左と右はどちらが偉いのか/刀を扱うときの左右のルール/社会コストの問題
昨年話題になった国分太一主演の落語の映画『しゃべれども しゃべれども』での右手箸遣いを枕に落語に登場する左利きを紹介しながら、サムライにおける刀の扱いなど、江戸時代と現代を比較し、社会的な話題を提供してゆきます。
特にこれといって私に異論はありません。
当時はそういうものだったのだろう、と思う程度です。
昔の社会では少数派の左利きの人に、それだけの配慮を示す余裕はなかった、ということも事実だったのでしょう。
ただ、一言いえば、だからといって、ただ今現在も昔同様の在り方を肯定するものではない、ということです。
社会コストの問題があるといっても、実際には色々と少数派に配慮した社会投資がなされるようになってきました。
これは、少数派への配慮を含む社会投資の必要性が、人権の問題もあり、社会的に見ても有効な投資に成り得る可能性があると判断する考え方も出てきて、誰もが無視できないと考えるようになったからでしょう。
例えば、歩道には点字ブロックが標準装備されるようになりました。
これによって、視覚に障碍のある人も外に出やすくなり、社会で活躍できる機会が増えたのではないでしょうか。
十全ではないにしても、一歩前進でしょう。
左利きの問題に関しても、単にいわゆる左利きの人(強度の左利きの人)だけでなく、左利きの要素を持つ人や右利きでも状況により左手や左体側を使う人、やむなく左手や左体側を使わざるを得ない人にとっても、福音となるのです。
左利きの人だけを優遇するのではなく、時と場合により左体側に重点を置く人にもプラスになるとわかれば、従来考えられていたような狭い範囲のニーズではなく、もっと有効性のある投資に成り得ると考えられるのではないでしょうか。
実際には、ちょっとした工夫で左右どちらでも使用可能となるものは、いくらでもあります。
そういう左右の共用性にも目を向ければ、もっと少ない費用で、右利き仕様に偏重した社会をもう少し緩和できるのではないでしょうか。
単にコストがかかるから、できなくても仕方がない、とはいえないような気がします。
左利きは少数派なのだから、それにちょっと頑張れば慣れることでもあるのだから、我慢しなさいよ、と言って済ませる時代ではなくなったように思います。
・・・
そして、実は私が一番気にかかったのは、巻末の参考資料編の中での発言です。
「参考文献的おもしろかった本解説」での大路直哉/著『見えざる左手』の感想がそれ。
右利きの人の素直な感想といえば、そうなのでしょう。
たぶん多くの右利きの人は、このような感想をお持ちなのかもしれません。
しかし、素直な意見なら良い、というものでもないでしょう。
本として公刊するということは、社会的な意見の表明でもあるわけで、当然その発言には、社会的な責任というものもついて回るはずです。
「申し訳ないがおれは右利きなんで」と締めてしまったのでは、世の中の大半の少数派や弱者といわれる人たちは浮かばれません。
たとえば、このを「申し訳ないがおれは右利きなんで」の「右利き」を他の言葉に置き換えて考えてみればどうなるでしょうか。
有色人種の苦難の歴史は知っているが「白人なんで」、障碍者の大変さも認めるが「健常者なんで」、高齢者の気持ちはわかるが「まだ青年なんで」、女性の立場も理解できるが「男性なんで」、云々。
今どきこんなことを発言をすれば、マスコミからも世間一般からも、袋叩きにあったり総スカンを食らってもおかしくないでしょう。
無責任な発言と、良識が疑われかねません。
でも、左利きのことだから、マスコミからも世間の誰からも非難されずに済んでいるのではないでしょうか。
いくら落語の話を扱っているからといって、何でもかんでも軽く冗談半分におもしろおかしく締めればいい、というものではありません。
※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「」を転載したものです。
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内容的には、面白い本です。
江戸時代と現代を見比べるといった趣向で、現代を別視点から捉えることで、明らかになる面があるだろう、ということでしょう。
こういう発想は、落語がブームになっているという背景も手伝ってのことだと思うのですが、なかなかタイムリーな企画でもあったと思います。
さて、この左利きに関する章は以下のような内容です。
第十四章 左利きのサムライはいない
左で食べる落語家はいない/舞台のカミとシモ/左と右はどちらが偉いのか/刀を扱うときの左右のルール/社会コストの問題
昨年話題になった国分太一主演の落語の映画『しゃべれども しゃべれども』での右手箸遣いを枕に落語に登場する左利きを紹介しながら、サムライにおける刀の扱いなど、江戸時代と現代を比較し、社会的な話題を提供してゆきます。
特にこれといって私に異論はありません。
当時はそういうものだったのだろう、と思う程度です。
昔の社会では少数派の左利きの人に、それだけの配慮を示す余裕はなかった、ということも事実だったのでしょう。
ただ、一言いえば、だからといって、ただ今現在も昔同様の在り方を肯定するものではない、ということです。
社会コストの問題があるといっても、実際には色々と少数派に配慮した社会投資がなされるようになってきました。
これは、少数派への配慮を含む社会投資の必要性が、人権の問題もあり、社会的に見ても有効な投資に成り得る可能性があると判断する考え方も出てきて、誰もが無視できないと考えるようになったからでしょう。
例えば、歩道には点字ブロックが標準装備されるようになりました。
これによって、視覚に障碍のある人も外に出やすくなり、社会で活躍できる機会が増えたのではないでしょうか。
十全ではないにしても、一歩前進でしょう。
左利きの問題に関しても、単にいわゆる左利きの人(強度の左利きの人)だけでなく、左利きの要素を持つ人や右利きでも状況により左手や左体側を使う人、やむなく左手や左体側を使わざるを得ない人にとっても、福音となるのです。
左利きの人だけを優遇するのではなく、時と場合により左体側に重点を置く人にもプラスになるとわかれば、従来考えられていたような狭い範囲のニーズではなく、もっと有効性のある投資に成り得ると考えられるのではないでしょうか。
実際には、ちょっとした工夫で左右どちらでも使用可能となるものは、いくらでもあります。
そういう左右の共用性にも目を向ければ、もっと少ない費用で、右利き仕様に偏重した社会をもう少し緩和できるのではないでしょうか。
単にコストがかかるから、できなくても仕方がない、とはいえないような気がします。
左利きは少数派なのだから、それにちょっと頑張れば慣れることでもあるのだから、我慢しなさいよ、と言って済ませる時代ではなくなったように思います。
・・・
そして、実は私が一番気にかかったのは、巻末の参考資料編の中での発言です。
「参考文献的おもしろかった本解説」での大路直哉/著『見えざる左手』の感想がそれ。
これは左利きの人からの提言で、右利きが見落としそうな部分の指摘はおもしろかったが、読んでて、でも申し訳ないがおれは右利きなんで、と思ってしまったのも事実。当然といえば当然の話ですが、いかにも左利きで困った経験を持たない右利きの人らしい意見?が読み取れ、<右利きだけでなく左利きにも優しい左右共存共生社会の実現を目指す>私にとっては、ちょっと残念な気がします。
右利きの人の素直な感想といえば、そうなのでしょう。
たぶん多くの右利きの人は、このような感想をお持ちなのかもしれません。
しかし、素直な意見なら良い、というものでもないでしょう。
本として公刊するということは、社会的な意見の表明でもあるわけで、当然その発言には、社会的な責任というものもついて回るはずです。
「申し訳ないがおれは右利きなんで」と締めてしまったのでは、世の中の大半の少数派や弱者といわれる人たちは浮かばれません。
たとえば、このを「申し訳ないがおれは右利きなんで」の「右利き」を他の言葉に置き換えて考えてみればどうなるでしょうか。
有色人種の苦難の歴史は知っているが「白人なんで」、障碍者の大変さも認めるが「健常者なんで」、高齢者の気持ちはわかるが「まだ青年なんで」、女性の立場も理解できるが「男性なんで」、云々。
今どきこんなことを発言をすれば、マスコミからも世間一般からも、袋叩きにあったり総スカンを食らってもおかしくないでしょう。
無責任な発言と、良識が疑われかねません。
でも、左利きのことだから、マスコミからも世間の誰からも非難されずに済んでいるのではないでしょうか。
いくら落語の話を扱っているからといって、何でもかんでも軽く冗談半分におもしろおかしく締めればいい、というものではありません。
※本稿は、ココログ版『レフティやすおのお茶でっせ』より「」を転載したものです。
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*『R25』2007.12.06(No.170)"ランキンレビュー"「右利きが左利きより多いのはなぜ?」で紹介されました!
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