ブログ原稿≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その9≫
(2020年5月31日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
今回のブログでは、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』の解説補足をし、フランス語の解説文を読んでみたい。
そして、篠田達明氏の『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)をもとにして、『モナ・リザ』の目元の脂肪塊、レンブラントのバテシバ像について、解説してみたい。
あわせて、グルーズという画家について考えてみたい。とりわけ、グルーズは理想的にはどのような画家になろうとしたのだろうか。グルーズの画家としての志向性に関心を抱きつつ、述べてみたい。また、グルーズの作品『壊れた甕』について、若干の感想を付記しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
中野氏は「第⑭章その後の運命 ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』を取り上げていた(中野、2016年[2017年版]、187頁~197頁)。
木村氏も、「イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク」と題して、「第4章フェイス~肖像画という名の伝記~」の中で述べている(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)。
スチュアート朝2代目の王チャールズ1世(在位1625~1649年)のこの肖像画は、“馬から降りた騎馬像”とでもいうべき作品で、一風変わった肖像画であると木村氏は捉えている。
この作品のどこが一風変わっているのか。
この時代の王侯貴族の騎馬像といえば、立派な馬に乗っている姿が理想化されて描かれるのが普通だったのに、チャールズ1世に馬から降りてもらって描いているからである。
チャールズ1世は生真面目な人物であったが、当時からその風采の上がらなさは有名だったそうだ。
(ただし、チャールズ1世は偉大な収集家で、美術に関して高い審美眼の持ち主で、死去の際には1387枚の絵画と、387体の彫刻を所有していた)
そこでアンソニー・ヴァン・ダイクは、チャールズ1世のために、ヴァン・ダイク風の理想化を図る。この作品では馬から降りてもらい、肘鉄をくわすようなポーズをとってもらったようだ。背景には、緑豊かなイングランドが広がり、王の前で美しい馬も頭を垂れている。
この絵が優雅であると同時にリラックスした肖像画として、評判になる。控えめなエレガンスや、さりげない威厳を好むイギリス貴族の嗜好に合ったのである。これ見よがしに権威を振りかざした肖像画よりも、ずっとすばらしいとされた。
チャールズ1世のお気に入りであるヴァン・ダイクは、イギリス貴族の間でも人気肖像画家となる。
チャールズ1世の家臣たちも、こぞって肖像画を依頼するようになる。例えば、第7代ダービー伯爵の肖像画がある。
〇ヴァン・ダイク「第7代ダービー伯爵と夫人と娘」
(1636年頃 246.2×213.7㎝ ニューヨーク フリック・コレクション)
※ちなみに、この絵は伯爵位を継承する前に描かれている
チャールズ1世は王権神授説に固執し、さらにフランス王女でカトリックのマリアと結婚したために議会との関係が悪化し、1649年1月断頭台の露と消える。第7代ダービー伯爵は、そんなチャールズ1世と最後まで運命をともにした人物であるそうだ。
この肖像画で、ヴァン・ダイクの優れたところは、この夫妻が何を描いてもらいたいのかがよくわかっている点であると木村氏はいう。
例えば、ダービー伯爵の後ろに島影があるが、これはマン島である。ダービー伯爵家は、マン島の領主だから、その島を背景に描いたようだ。
奥方のシャルロットは、ブルボン家の血筋を引く名門貴族出身である。フランスから嫁いできた彼女の後ろには海が広がっている。そして、二人の間に生まれた娘は半分オレンジ色のドレスを着ている(なぜかといえば、彼女の母方の祖父にあたる人物は、オランダ建国の父オラニエ公である。オラニエ公は英語でいうとデューク・オブ・オレンジであり、ここからドレスの色をオレンジ色に決めたそうだ)。
だから、当時の人たちがこの肖像画を見れば、「マン島の領主であるダービー伯爵家、そしてオラニエ公の血が、この夫妻の娘には流れているのだ」とすぐに理解できたようだ。
このように、ヴァン・ダイクは、モデルが描いてほしいと求める自分の地位や心理状態の表現が巧みであった。その手法は、優美で洗練された18世紀イギリスの肖像画の基礎となっていく。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)
【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】
名画の言い分 (ちくま文庫)
フランソワーズ・ベイル氏は、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』について、次のような解説文を記している。
PEINTURE DU NORD
Antoon Van Dyck, Charles Ier, roi d’Angleterre, à la chasse,
vers 1635-1638, huile sur toile, 266×207㎝
Après avoir travaillé dans l’atelier de Rubens, Van Dyck voyage
en Italie et en Angleterre, où il finit par s’installer. S’inscrivant dans
la lignée de Titien, celui que l’on baptisa le « Mozart de la pein-
ture » définit par ce portrait du roi Charles Ier, dont il était le
peintre officiel, le portrait aristocratique en Angleterre, où son
influence sera considérable.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.59.)
≪訳文≫
北方絵画
アントーン・バン・ダイク「狩りをするイギリス王チャールズ1世」:1635~1638年頃、油絵・カンバス、266×207㎝
バン・ダイクは、ルーベンスのアトリエで働いたあとイタリアとイギリスを訪れ、最終的にイギリスに落ち着くことになる。ティツィアーノの系譜に連なる彼は『絵画界のモーツアルト』と呼ばれたが、宮廷画家として国王チャールズ1世を描いたこの肖像画によって、イギリスにおける貴族の肖像画の地位を決定づけ、大きな影響力をもつことになる。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、59頁)
【語句】
la chasse [女性名詞]狩り(hunting)
Après avoir travaillé <助動詞avoirの不定形+過去分詞(travailler)不定法過去
travailler 働く(work)
l’atelier [男性名詞]アトリエ、工房(studio, atelier)
où il finit par <finir終わる(finish, end)の直説法現在
finir par+不定法 最後には~する、ついに~する(end by doing)
<例文>
Il finit par l’acheter. とうとう彼はそれを買った(In the end, he bought it.)
Le renard a fini par s’apprivoiser. キツネはついに飼い慣らされた
Tout finira par s’arranger. 万事うまく結着するだろう
La vérité finissait par émerger. ついに真相が明らかになった
s’installer 代名動詞 (à, dansに)落ち着く、身を寄せる(settle in)
S’inscrivant <代名動詞 s’inscrire登録する、加入する(sign on, register)の分詞法現在
la lignée [女性名詞]血統、子孫(line)
Titien [男性名詞]ティツィアーノ(1493/1490頃~1576)イタリアの画家(Titian)
l’on baptisa <baptiser洗礼を授ける、命名する(baptize)、あだ名で呼ぶ(nickname)
の直説法単純過去
Mozart モーツァルト(1756~1791)オーストリアの作曲家
la peinture [女性名詞]絵画(picture)
définit par <définir 定義する、明確にする(definite)の直説法現在
ce portrait [男性名詞]肖像画(portrait)
il était <êtreである(be)の直説法半過去
aristocratique [形容詞]貴族の(aristocratic)
son influence [女性名詞]影響(力)(influence)
sera <êtreである(be)の直説法単純未来
considérable [形容詞]大きな、相当な(considerable)
【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】
Visiter le Louvre
中野氏は、『モナ・リザ』を解説した際に、「目元の脂肪塊についての研究まである」と指摘していた(中野、2016年[2017年版]、237頁)。
この点についてコメントを付しておきたい。
篠田達明氏は『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)において、このことを述べている。
篠田氏は、「肖像画を医学的見地から推理する」というテーマで、エッセイをかいてほしいという芸術新潮編集部の依頼によって執筆されたそうだ。
篠田氏が、看護学校で講義を担当したとき、「モナ・リザはピザやスパゲッティの食べすぎで高脂血症を患っていたんだ」などと脱線すると、それまで眠そうだった看護学生たちの目がぱっちりひらくのが楽しみだったと「あとがき」で書いておられる(205頁)。
篠田氏によれば、モナ・リザは高脂血症だったそうだ。このことは「第一章 あの「名作」に隠された“病い”」の中で述べている。この第一章では、「バテシバの乳癌」「ヴィーナスの外反母趾」「ラス・メニナスの軟骨無形成症」といった項目とともに、「モナ・リザは高脂血症」(12頁~18頁)を叙述している。
モナ・リザの左の目頭(めがしら)には黄色いしこり(米粒よりやや大きな腫瘤)がある。
(上に掲載した洋書の表紙『モナ・リザ』の写真でも、黄色いしこりが確認される)
以前から医療人の間では、このことは取沙汰されていたらしい。欧米の医学者たちはモナ・リザのモデルになった女性は高脂血症ではなかったかという説を唱えた。
コレステロールの多い食物を長年摂りつづけると、余分なコレステロールが肘やまぶたによくたまり、黄色いしこりが盛りあがるという。モナ・リザの目頭のしこりも、コレステロールの多い食物の摂りすぎによる高脂血症から生じた黄色腫と目されるようになった。
この絵のモデルには諸説あるが、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの三度目の妻リザとした場合、リザ夫人が24歳から27歳ごろに描かれたことになる(ただ、生活習慣病である高脂血症を患っていたとすると、少し年齢が若すぎるともいう)。
モナ・リザが描かれた16世紀初頭のイタリアは、ルネサンス華やかりし時代であった。多くの裸婦像も描かれたが、そこにみられる女性たちはむっちりと肥満していて、脂身の多い獣肉やバター、チーズ、鶏卵など、コレステロールの多い食べ物をせっせと口にしたので、そのような肉体がつくりだされたと篠田氏は想像している。
モナ・リザも着痩せしてみえるが、当時の多くの女性と同様、豊満な肉体を呈していたと推測している。一見、つつましやかにみえるモナ・リザも、じつは相当の食いしん坊で少女のころからコレステロールたっぷりの料理を飽食していたことはあり得る。目をこらすと、上唇の右側にアフタ(口内炎)を思わせる小さな発疹らしきものがみえるそうだ。口内炎はブドウ酒の飲みすぎか、消化不良をおこして、胃が悪くなったときによくできる。レオナルドは科学者の正確さをもってこれを見逃さず描いたかもしれないという。
篠田氏も、画面の中のモナ・リザは、生活習慣病である高脂血症を患っていた可能性が十分にあるとみている。また、若いうちからの発症などを考えると、家族性高コレステロール血症ともみられるらしい。
皮膚科の医師によれば、なぜか家族性高コレステロール血症の女性は美人が多く、肌が生き生きとしてきれいだそうである。ただし、皮膚科医の先生は、モナ・リザの眼瞼腫瘤の色や形、そしてそれが左側だけにあることを考えると、黄色腫と決めつけるのは問題であり、母斑(ぼはん)の変種かもしれないという(絵だけをみて確定診断をつけてはいけないとたしなめられたそうだ)。
篠田氏は「レオナルドはモナ・リザに対する愛着がことのほかつよく、晩年をすごしたフランスのクルー城館まで画像をもってゆき、最期まで手離さなかったと伝えられる」と付記することも忘れない。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、12頁~18頁)
レオナルドは晩年まで『モナ・リザ』に手を加えたので、目頭のしこりも、本当に24歳から27歳ごろのリザ夫人の顔にできていたのだろうかと私もふと疑問に思った。それと同時に、最期まで手元に置いて、普遍的な究極の美を追求したレオナルドは、なぜ目元の脂肪塊のような個人的特徴を示すものを描き残したのだろうか。私にとっても疑問であるとともに謎である。
【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)
レンブラントは、ゴッホとともにオランダの生んだ世界的な画家である。日本ではゴッホに人気があるが、ヨーロッパではレンブラントのほうが評価が高い。濃い陰影の中に内部から、じわりとにじみでる深い精神性をたたえているからである。
『旧約聖書』の中に「バテシバ」というあでやかな美女がでてくる。ヘト人ウリヤの妻だったが、イスラエルの王ダヴィデにみそめられ、召されて王妃となり、ソロモン王子を生んだ。
中野京子氏も解説していたように、ダヴィデは、たまたまバテシバが入浴している姿を屋上から目にして、彼女にぞっこん惚れこんだ。バテシバの夫を戦場に出陣させ、その間に彼女をものにしようと誘いの手紙を送りつけた。ぜひ王宮にくるようにという艶書を手にした貞淑な妻バテシバは思い悩んだ。
その彼女の姿を、レンブラントは当時28歳だった若い愛人ヘンドリッキェ・ストッフェルスをモデルに描いた。
ところで、篠田達明氏は「バテシバの乳房」と題して、次のように述べている(『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)。
バテシバの左乳房に注目すると、乳房の外側には明確な陥没がみとめられ、乳癌の症状をあらわしているという(乳房の外上四分円が好発部位。バテシバの左乳房の表面が陥没し、でこぼこしているのは癌と皮膚とのあいだに癒着がおこっている証拠だそうで、乳癌はかなりすすんだ状態らしい)。
ヘンドリッキェは、≪バテシバ≫のモデルとなってから9年後に37歳で他界した。おそらく、乳癌の転移がもとで亡くなったものと篠田氏は推察している。死にいたるまでの期間がやや長いが、乳癌の多くは進行がゆるやかで、ヘンドリッキェの病状も緩慢な経過をたどったとみる。
≪バテシバ≫が描かれたのは、1654年とされる(日本では徳川4代将軍家綱の治世に当たる)。欧州の医師によって、このバテシバが、どうやら乳癌らしいと取沙汰されだしたのは、1990年前後である(発症からじつに300数十年を経て、ようやく診断がついた珍しい症例だそうだ)。
光と影の巨匠レンブラントは、愛する女性がそのような病気だとはつゆ知らず、その病像を精緻に細部描写した。
篠田氏は、この絵を「医学史上も、未治療乳癌を視覚的にとられた希有の例であり、きわめて価値のある逸品」(30頁)と評している。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)
【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)
ジャン=バティスト・グルーズ(1725~1805)の風俗画は、生前、市民の間で絶大な人気を誇ったが、次代の新古典主義によってその様式を全否定されてしまう。最近、復権がなされつつあると中野氏は、グルーズについて評している。
グルーズとシャルダン(1699~1779)はよく対比される。中野氏も、「第⑧章 ルーヴルの少女たち」と題して、グルーズの『壊れた甕』とシャルダンの『食前の祈り』という風俗画を取り上げていた。中野氏は、グルーズの腕を評価していた。『壊れた甕』では、故意に主題を曖昧にしたとしている。グルーズほどの腕があれば、明快なメッセージはいかようにも可能だったはずだが、敢えてそうはしなかったとみている。
一方、シャルダンは、「色を使って感情を描く」と言った画家らしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさなどを思い起こさせると、高い評価を与えている。
(中野、2016年[2017年版]、115頁~123頁。とくに118頁、122頁)
グルーズは、卑俗な風俗画で、いわば教訓的な情緒を表現した。それに対して、シャルダンの静物や風俗は、同じロココ的な繊細で甘美な情緒性をたたえながら、物と物との関連、空間の静かな秩序を探求することによって、たとえばセザンヌの静物などに先駆するともいわれる。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、169頁)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
【シャルダンの自画像】
田中英道氏は、『美術にみえるヨーロッパ精神』(弓立社、1993年)において、「自己を理想化できない十八世紀以後の画家」と題して、シャルダンの『自画像』(ルーヴル美術館)を取り上げている。
18世紀の自画像の典型は、シャルダンの、この奇妙な部屋着姿の像にみとめることができるという。76歳の自らを写実的に描いている。ナイト・キャップとして頭にマフラーを巻き、丸い眼鏡の上に青い庇をつけている。これは当時のフランス庶民の姿そのものであるそうだ。そこには、芸術家としての尊大な姿はない。
この点、スペインの画家ゴヤの『自画像』(プラド美術館)も同じで、宮廷画家であったにもかかわらず、1815年、70歳のときに描かれた、その肖像画に少しも気取りがない。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、136頁~137頁)
【田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』はこちらから】美術にみるヨーロッパ精神
18世紀最大の美術批評家とされるディドロは、シャルダンとグルーズを評価した。
ディドロの絵画観を、18世紀のフランスの歴史画の発展にも関わりをもった画家グルーズとディドロとの関係の面から、鈴木氏は検討している。
1760年代のグルーズは、テーマの面でも様式の面でも、ロココの享楽主義やバロック的ダイナミズムとの訣別の方向に向かっていたようだ。
1750年代には、肖像画や通俗的なセンチメンタリズムの風俗画の描き手であったグルーズは、1760年代前半を中心に新しいタイプの風俗画を制作するようになる。
それは、道徳的教訓、すなわち父親の権威、母親の慈愛、青年の孝心、娘の純潔といった観念の称揚を盛りこんだドラマティックな風俗画であった。それは、当時台頭しつつあった市民社会の家庭を健全に維持するための、道徳であったようだ。
代表的な作品として、鈴木氏は次のものを挙げている。
〇≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
〇≪親孝行≫(1763年)
〇≪慕われる母親≫(1765年)
これらは家庭内の情景を描き出している点では、17世紀オランダの風俗画を継承する性格をもつ。また個々の人物の役割が年齢・性別・服装・仕種・表情などの手段で明示されている点では、英国のホガースの作品と一脈相通ずるものをもっているそうだ。
しかし、その一方で、これらの作品は、17世紀の正統的な歴史画の方式に近い性格もあるといわれる。例えば、強い道徳的主張を行ない、舞台のように限定された空間に人物たちが明快に配置されている点がそうである。
グルーズはのちに1770年代になって、このような新様式をいっそう徹底して、制作している。例えば、次の作品がある。
〇≪父親の呪い≫(1777年、ルーヴル美術館)
〇≪罰された息子≫(1778年、ルーヴル美術館)
この二作品のテーマは、先の作品群に比べ、道徳的観念の単純な称揚の域を脱していると鈴木氏はみている。
父親の意志にそむいて家を出た息子が戻ってきた時には、すでに父は死の床にあり、むこうみずな息子の行為は、彼自身の悔恨と一家の不幸を生む。
このテーマの根底にあるものが父権的な家庭道徳の称揚である点に変わりはないが、一つの明確な方向性をもつ観念を示していると鈴木氏は述べている。
ストーリーの一場面といて平板に描き出すのではなく、主役である息子の行為の瞬間とその時の人々の反応を
パセティックに描き出しているという。
(当時の批評は、この二作品を17世紀のオランダの風俗画によりも、むしろラファエロやプッサンに比して賞讃している)
1760年代および70年代のグルーズの風俗画は、その観念的な内容によって、観る者に「解読」の喜びと「思索」の機会を与える絵として人気を博した。形骸化した歴史画やロココ的テーマの無内容にあきた人々がそうであった。
それにもかかわらず、グルーズ自身は歴史画家になろうとする野心を抱いていた。
そして、1769年にいわゆる≪セウェルスとカラカラ≫事件をひきおこした。
これは、それまでアカデミーの準会員であったグルーズが正式の会員になるための入会作品として、≪父の暗殺を企てたかどで息子カラカラを糾弾するセウェルス帝≫(1769年、ルーヴル美術館)を提出し、会員として認められはしたものの、「歴史画家としてではなく風俗画家の資格で入会を認める」という条件が付された事件である。
この事件については、1769年のディドロのサロン評に見出されるようだ。風俗画家の資格という条件付きに、グルーズは落胆し立腹し、この作品をルーヴル宮内の審査会場に残したまま立ち去ったという。そして、作品は、同年のサロンの出品作として展示され、容赦のない批評を浴びた。
批判の中には、造形的に当たっているものもあったが、古代ローマのテーマを明白なプッサン様式で描いている(アカデミーの綱領に合致させている)のに、当時の人々の扱いは苛酷であった。純粋な作品評価のほかに、人々の反感があったと鈴木氏は解釈している。つまり、これまで風俗画家として認められてきたグルーズが自分の領域を脱して、歴史画家としての地位に野心を示したことに対する反感である。
実際、ディドロもサロン評で次のように記している。
「グルーズは自分の分野から出てしまった。自然の細心な模倣者であった彼は、歴史画を要求する一種の誇張にまで己れを高めることができなかった」と。
17世紀のアカデミーが設立した画題の序列は、画家の序列でもあった。その壁はそれを乗り越えようとする者にとっては、グルーズの例にみるように、厚くまた高かった。
グルーズはこのあとは、従来の歴史画的な構成の風俗画や肖像画の制作に戻ったが、最晩年の1800年までサロンに出品することはなかった。
ところで、ディドロは、このようなグルーズの軌跡に最も大きな影響を与えた人物であった。ディドロはルソーの友人でもあり、若い時から旧来の芸術や思想の貴族趣味や形式主義に異議を申し立てていた。ディドロは、演劇においては、中産階級の人々の直面する課題を教訓的にとりあげた市民劇を主張した(実例として、戯曲『私生児』(1757年)や『一家の父』(1758年)を執筆)。
またルソーと同じくディドロは、道徳的な教訓を含んだ心理小説を書いた、英国の人気作家リチャードソンを好んだ。グルーズの風俗画に対するディドロの共感は、彼のこのような道徳的傾向によるものであったらしい。
1761年に、サロン評を執筆した際に、グルーズの≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
について、ほとんど満点に近い評価を与えている。
ディドロによれば、この絵は、嫁ぐ娘の持参金を支払い、結婚の手続を終えた農村の父親が娘婿に花嫁を幸福にするよう頼んでいる場面である。
そして、この絵はパセティックであり、グルーズはオランダ17世紀の風俗画テニールスに比べて、自然をいっそう優美で美しく心地よいものに高めていると評している。
その後もディドロは、グルーズの作品を丁寧な記述で批評し、グルーズの風俗画の道徳性とその表現形式を高く評価している。
ディドロにとって絵画の内容の市民的堅実さは好ましいものであった。
だが、ディドロが絵画の領域として最も重要なものと考えていたのは、本来の歴史画であった。歴史画の中でも、形骸化したエロティシズムに陥りやすい神話ではなく、主にローマの歴史から採られた道徳的テーマの歴史画であった。
そして、ディドロは帝政期のローマの威容に夢中になり、ローマの賢人たちの事績を描くためには、17世紀の歴史画の様式が不可欠であると考えた。
例えば、17世紀フランス最大の歴史画家ニコラ・プッサン(1594~1665)の≪エウダミダスの遺言≫(1653年頃、コペンハーゲン、国立美術館)を理想的な傑作とみなしていた。
ディドロは、このような絵画観の持ち主であったから、グルーズが風俗画にあき足らなくなり、適当な歴史画のテーマを求めて相談した時、≪ブルートゥスの死≫を奨めた。
グルーズは、それまで風俗画として多くの制作した経験のある「家族間の葛藤」の主題に近い≪セウェルスとカラカラ≫のテーマを古代史から選んだ。
ディドロが≪セウェルスとカラカラ≫の完成作に対して批判的であったのは、テーマの選定に関してグルーズがディドロの助言を最終的には受け入れなかったという事情も一因となっていたかもしれないといわれる。
さらなる理由としては、「グルーズは自分の領域から出てしまった」というディドロの言葉に示されているように、ディドロは歴史画を尊重する伝統的な思想の持ち主であったので、歴史画家たらんとする風俗画グルーズの心意気は、分を越えたものと感じられたのであろう。
ディドロがもっとも好んでいたシャルダンについても、「シャルダンは歴史画家ではないが、偉大な人物である」と記し、ディドロは画家の序列にも厳格な考え方をしていた。
ディドロの絵画観に、内容と形式の点で完璧に合致していた作品の描き手は、ダヴィッドであったと鈴木氏はみている。
ただ、ディドロの没した1784年は、ダヴィッドがフランス新古典主義絵画のピークとみなされ、彼自身の代表作でもある数点の作品の内、まだ半数も描いていない時期に当たっていたとも断っている。
歴史の偶然は、この二人が充分に理解し合う機会を与えたとはいえないが、それでもディドロは限られた機会に、この若い画家について好意的な文章を書きのこしているそうだ。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、64頁~71頁)
【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』
18世紀の後半に活躍した画家グルーズは、ロココの絶頂にあって、ロココ絵画の享楽的なエロティシズムに対抗するかのように、当時の市井風俗を描いた。そこにしばしば教訓的意図を盛り込んだ。1761年のサロンに出品された『村の花嫁』(ルーヴル美術館)は、グルーズの教訓的風俗画のいい例である。
グルーズの絵は少々通俗的で大げさだが、爛熟したロココ絵画の人工的な美よりも、市民的なモラルを重視しようとするディドロら当時の啓蒙思想たちに支持された。グルーズも18世紀後半の芸術の中に重要な位置を占める画家である。
もっとも、グルーズが見かけほどロココのエロティシズムと無縁ではなかったことを示す作品が、『壊れた甕』である。ここに描かれた少女はいかにも愛くるしく、水甕を壊してしまったことを悔いているような様子であるが、よく見ると思わせぶりである。彼女が腕に持っている水甕が壊れて穴があいていることは、すでに彼女が無邪気な少女時代に別れを告げたことを暗示する。
ところで、グルーズは1759年、美しい女性アンヌ・ガブリエルと結婚し、自らの初期の作品に彼女を理想的なモデルとして描く。しかし、実際の彼女は薄っぺらで自堕落な女だったらしく、スキャンダルをたびたび起こし、幸福な結婚生活ではなかったようだ。のちにグルーズは離婚するにいたる。
フランス革命が起こってからは、グルーズは世間から忘れ去られ、貧困のうちに世を去った。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、104頁~106頁)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
私は、中野京子氏のグルーズ作『壊れた甕』の解説を読んで、私なりの感想をひとこと述べておきたい。
このグルーズの絵は、歌「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)と映画『シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)』(1964年)と重なり合う。
「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)は、世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲である。
アメリカン・フォークの父とも言われるピート・シーガー(Pete Seeger)による作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。
(シーガーは、3番までの歌詞で、4番と5番の歌詞はジョー・ヒッカーソン[Joe Hickerson]が書き加え、1961年に著作権が登録し直されたそうだ。この歌詞への加筆によって反戦歌としての色彩が鮮明になったといわれる)
1961年、キングストン・トリオがこの曲を録音して発表し、翌1962年にヒットした。1962年には、ピーター・ポール&マリーによってもカバーされ、こちらもヒットした。その背景には、アメリカがベトナム戦争に関わり始めたことがあったとされる。「花はどこへ行った」という曲は、反戦歌として広く親しまれるようになる。
さて、ご存じのように、「花はどこへ行った」の歌詞は、おおたたかし訳詞によれば、1番から5番まである。1番で「野に咲く花はどこへゆく」という問いに対して、「野に咲く花は少女の胸にそっとやさしくいだかれる」と答える。
同様に2番では「かわいい少女はどこへゆく」→「かわいい少女は若者の胸に恋の心あずけるのさ」。3番では、「その若者はどこへゆく」→「その若者は戦いにゆく 力づよく別れを告げる」。4番では、「戦い終りどこへゆく」→「戦い終り 土にねむる やすらかなるねむりにつく」。5番では、「戦士のねむるその土に野バラがそっと咲いていた」→「野バラはいつか少女の胸にそっとやさしくいだかれる」
つまり、「野に咲く花」→「少女の胸」→「若者の胸」→「戦場」→「お墓」→「野バラ咲く」→「少女の胸」と循環法的に元に戻る歌詞の構造になっている。そして、一種の反戦歌となっている。
(例えば、松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年、162頁~164頁)。
【松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』はこちらから】
学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編
一方、グルーズ作『壊れた甕』に描かれた“ルーヴルの少女”は、中野氏が解説したように、胸に飾った薔薇は花弁がむしられて、腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。本作の成立には、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人が直接グルーズに依頼したともいわれ、彼女は若き日、無邪気にも最初の恋の相手を真に愛したかもしれないという(中野、2016年[2017年版]、118頁~120頁)。
一方、映画『シェルブールの雨傘』のストーリーはこうである。
時代と舞台は、1957年、アルジェリア戦争だた中のフランス、港町シェルブールである。
20歳の自動車整備工ギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)と、17歳のジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は結婚を誓い合った恋人同士だった。
しかし、やがてギイに召集令状が届き、アルジェリア戦争において、2年間の兵役をつとめることになった。別れを惜しむ二人は、その夜、結ばれる。
ギイが入営したあと、1958年、ジュヌヴィエーヴは妊娠していることを知る。その後、二人はすれ違いの人生を歩み、それぞれ別の人と結婚することになってしまう。
1963年の12月の雪の夜、入営の日にシェルブール駅で別れて以来、二人は偶然にも再開するが、、、
カトリーヌ・ドヌーヴが演じたジュヌヴィエーヴという女性と、このグルーズの『壊れた甕』の少女が重なる。また、「花はどこへ行った」で戦争が愛する二人を引き裂いた点で、映画『シェルブールの雨傘』とストーリーが重なるのである。
【映画『シェルブールの雨傘』はこちらから】
シェルブールの雨傘 デジタルリマスター版(2枚組) [DVD]
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔――』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年
J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫、1987年
飯塚信雄『ロココの時代――官能の十八世紀』新潮選書、1986年
中山公男編『大日本百科事典 ジャポニカ21 別巻世界美術名宝事典』小学館、1972年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001.
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年
木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年
中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年
佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]
松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年
(2020年5月31日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
今回のブログでは、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』の解説補足をし、フランス語の解説文を読んでみたい。
そして、篠田達明氏の『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)をもとにして、『モナ・リザ』の目元の脂肪塊、レンブラントのバテシバ像について、解説してみたい。
あわせて、グルーズという画家について考えてみたい。とりわけ、グルーズは理想的にはどのような画家になろうとしたのだろうか。グルーズの画家としての志向性に関心を抱きつつ、述べてみたい。また、グルーズの作品『壊れた甕』について、若干の感想を付記しておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク
・ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』のフランス語の解説文を読む
・『モナ・リザ』の目元の脂肪塊について
・レンブラントのバテシバ像について
・グルーズとシャルダン
・ディドロとグルーズ
・【補足】グルーズの結婚と晩年
・グルーズ作『壊れた甕』についての私の感想ひとこと~歌「花はどこへ行った」と映画『シェルブールの雨傘』
・参考文献
【読後の感想とコメント】
イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク(1599~1641年)
中野氏は「第⑭章その後の運命 ヴァン・ダイク『狩り場のチャールズ一世』を取り上げていた(中野、2016年[2017年版]、187頁~197頁)。
木村氏も、「イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク」と題して、「第4章フェイス~肖像画という名の伝記~」の中で述べている(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)。
スチュアート朝2代目の王チャールズ1世(在位1625~1649年)のこの肖像画は、“馬から降りた騎馬像”とでもいうべき作品で、一風変わった肖像画であると木村氏は捉えている。
この作品のどこが一風変わっているのか。
この時代の王侯貴族の騎馬像といえば、立派な馬に乗っている姿が理想化されて描かれるのが普通だったのに、チャールズ1世に馬から降りてもらって描いているからである。
チャールズ1世は生真面目な人物であったが、当時からその風采の上がらなさは有名だったそうだ。
(ただし、チャールズ1世は偉大な収集家で、美術に関して高い審美眼の持ち主で、死去の際には1387枚の絵画と、387体の彫刻を所有していた)
そこでアンソニー・ヴァン・ダイクは、チャールズ1世のために、ヴァン・ダイク風の理想化を図る。この作品では馬から降りてもらい、肘鉄をくわすようなポーズをとってもらったようだ。背景には、緑豊かなイングランドが広がり、王の前で美しい馬も頭を垂れている。
この絵が優雅であると同時にリラックスした肖像画として、評判になる。控えめなエレガンスや、さりげない威厳を好むイギリス貴族の嗜好に合ったのである。これ見よがしに権威を振りかざした肖像画よりも、ずっとすばらしいとされた。
チャールズ1世のお気に入りであるヴァン・ダイクは、イギリス貴族の間でも人気肖像画家となる。
チャールズ1世の家臣たちも、こぞって肖像画を依頼するようになる。例えば、第7代ダービー伯爵の肖像画がある。
〇ヴァン・ダイク「第7代ダービー伯爵と夫人と娘」
(1636年頃 246.2×213.7㎝ ニューヨーク フリック・コレクション)
※ちなみに、この絵は伯爵位を継承する前に描かれている
チャールズ1世は王権神授説に固執し、さらにフランス王女でカトリックのマリアと結婚したために議会との関係が悪化し、1649年1月断頭台の露と消える。第7代ダービー伯爵は、そんなチャールズ1世と最後まで運命をともにした人物であるそうだ。
この肖像画で、ヴァン・ダイクの優れたところは、この夫妻が何を描いてもらいたいのかがよくわかっている点であると木村氏はいう。
例えば、ダービー伯爵の後ろに島影があるが、これはマン島である。ダービー伯爵家は、マン島の領主だから、その島を背景に描いたようだ。
奥方のシャルロットは、ブルボン家の血筋を引く名門貴族出身である。フランスから嫁いできた彼女の後ろには海が広がっている。そして、二人の間に生まれた娘は半分オレンジ色のドレスを着ている(なぜかといえば、彼女の母方の祖父にあたる人物は、オランダ建国の父オラニエ公である。オラニエ公は英語でいうとデューク・オブ・オレンジであり、ここからドレスの色をオレンジ色に決めたそうだ)。
だから、当時の人たちがこの肖像画を見れば、「マン島の領主であるダービー伯爵家、そしてオラニエ公の血が、この夫妻の娘には流れているのだ」とすぐに理解できたようだ。
このように、ヴァン・ダイクは、モデルが描いてほしいと求める自分の地位や心理状態の表現が巧みであった。その手法は、優美で洗練された18世紀イギリスの肖像画の基礎となっていく。
(木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年、173頁~176頁)
【木村泰司『名画の言い分』(筑摩書房)はこちらから】
名画の言い分 (ちくま文庫)
ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』のフランス語の解説文を読む
フランソワーズ・ベイル氏は、ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』について、次のような解説文を記している。
PEINTURE DU NORD
Antoon Van Dyck, Charles Ier, roi d’Angleterre, à la chasse,
vers 1635-1638, huile sur toile, 266×207㎝
Après avoir travaillé dans l’atelier de Rubens, Van Dyck voyage
en Italie et en Angleterre, où il finit par s’installer. S’inscrivant dans
la lignée de Titien, celui que l’on baptisa le « Mozart de la pein-
ture » définit par ce portrait du roi Charles Ier, dont il était le
peintre officiel, le portrait aristocratique en Angleterre, où son
influence sera considérable.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001, p.59.)
≪訳文≫
北方絵画
アントーン・バン・ダイク「狩りをするイギリス王チャールズ1世」:1635~1638年頃、油絵・カンバス、266×207㎝
バン・ダイクは、ルーベンスのアトリエで働いたあとイタリアとイギリスを訪れ、最終的にイギリスに落ち着くことになる。ティツィアーノの系譜に連なる彼は『絵画界のモーツアルト』と呼ばれたが、宮廷画家として国王チャールズ1世を描いたこの肖像画によって、イギリスにおける貴族の肖像画の地位を決定づけ、大きな影響力をもつことになる。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年、59頁)
【語句】
la chasse [女性名詞]狩り(hunting)
Après avoir travaillé <助動詞avoirの不定形+過去分詞(travailler)不定法過去
travailler 働く(work)
l’atelier [男性名詞]アトリエ、工房(studio, atelier)
où il finit par <finir終わる(finish, end)の直説法現在
finir par+不定法 最後には~する、ついに~する(end by doing)
<例文>
Il finit par l’acheter. とうとう彼はそれを買った(In the end, he bought it.)
Le renard a fini par s’apprivoiser. キツネはついに飼い慣らされた
Tout finira par s’arranger. 万事うまく結着するだろう
La vérité finissait par émerger. ついに真相が明らかになった
s’installer 代名動詞 (à, dansに)落ち着く、身を寄せる(settle in)
S’inscrivant <代名動詞 s’inscrire登録する、加入する(sign on, register)の分詞法現在
la lignée [女性名詞]血統、子孫(line)
Titien [男性名詞]ティツィアーノ(1493/1490頃~1576)イタリアの画家(Titian)
l’on baptisa <baptiser洗礼を授ける、命名する(baptize)、あだ名で呼ぶ(nickname)
の直説法単純過去
Mozart モーツァルト(1756~1791)オーストリアの作曲家
la peinture [女性名詞]絵画(picture)
définit par <définir 定義する、明確にする(definite)の直説法現在
ce portrait [男性名詞]肖像画(portrait)
il était <êtreである(be)の直説法半過去
aristocratique [形容詞]貴族の(aristocratic)
son influence [女性名詞]影響(力)(influence)
sera <êtreである(be)の直説法単純未来
considérable [形容詞]大きな、相当な(considerable)
【Valérie Mettais, Votre visite du Louvre, Art Lysはこちらから】
Visiter le Louvre
『モナ・リザ』の目元の脂肪塊について
中野氏は、『モナ・リザ』を解説した際に、「目元の脂肪塊についての研究まである」と指摘していた(中野、2016年[2017年版]、237頁)。
この点についてコメントを付しておきたい。
篠田達明氏は『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』(新潮新書、2003年)において、このことを述べている。
篠田氏は、「肖像画を医学的見地から推理する」というテーマで、エッセイをかいてほしいという芸術新潮編集部の依頼によって執筆されたそうだ。
篠田氏が、看護学校で講義を担当したとき、「モナ・リザはピザやスパゲッティの食べすぎで高脂血症を患っていたんだ」などと脱線すると、それまで眠そうだった看護学生たちの目がぱっちりひらくのが楽しみだったと「あとがき」で書いておられる(205頁)。
篠田氏によれば、モナ・リザは高脂血症だったそうだ。このことは「第一章 あの「名作」に隠された“病い”」の中で述べている。この第一章では、「バテシバの乳癌」「ヴィーナスの外反母趾」「ラス・メニナスの軟骨無形成症」といった項目とともに、「モナ・リザは高脂血症」(12頁~18頁)を叙述している。
モナ・リザの左の目頭(めがしら)には黄色いしこり(米粒よりやや大きな腫瘤)がある。
(上に掲載した洋書の表紙『モナ・リザ』の写真でも、黄色いしこりが確認される)
以前から医療人の間では、このことは取沙汰されていたらしい。欧米の医学者たちはモナ・リザのモデルになった女性は高脂血症ではなかったかという説を唱えた。
コレステロールの多い食物を長年摂りつづけると、余分なコレステロールが肘やまぶたによくたまり、黄色いしこりが盛りあがるという。モナ・リザの目頭のしこりも、コレステロールの多い食物の摂りすぎによる高脂血症から生じた黄色腫と目されるようになった。
この絵のモデルには諸説あるが、フィレンツェの貴族フランチェスコ・デル・ジョコンドの三度目の妻リザとした場合、リザ夫人が24歳から27歳ごろに描かれたことになる(ただ、生活習慣病である高脂血症を患っていたとすると、少し年齢が若すぎるともいう)。
モナ・リザが描かれた16世紀初頭のイタリアは、ルネサンス華やかりし時代であった。多くの裸婦像も描かれたが、そこにみられる女性たちはむっちりと肥満していて、脂身の多い獣肉やバター、チーズ、鶏卵など、コレステロールの多い食べ物をせっせと口にしたので、そのような肉体がつくりだされたと篠田氏は想像している。
モナ・リザも着痩せしてみえるが、当時の多くの女性と同様、豊満な肉体を呈していたと推測している。一見、つつましやかにみえるモナ・リザも、じつは相当の食いしん坊で少女のころからコレステロールたっぷりの料理を飽食していたことはあり得る。目をこらすと、上唇の右側にアフタ(口内炎)を思わせる小さな発疹らしきものがみえるそうだ。口内炎はブドウ酒の飲みすぎか、消化不良をおこして、胃が悪くなったときによくできる。レオナルドは科学者の正確さをもってこれを見逃さず描いたかもしれないという。
篠田氏も、画面の中のモナ・リザは、生活習慣病である高脂血症を患っていた可能性が十分にあるとみている。また、若いうちからの発症などを考えると、家族性高コレステロール血症ともみられるらしい。
皮膚科の医師によれば、なぜか家族性高コレステロール血症の女性は美人が多く、肌が生き生きとしてきれいだそうである。ただし、皮膚科医の先生は、モナ・リザの眼瞼腫瘤の色や形、そしてそれが左側だけにあることを考えると、黄色腫と決めつけるのは問題であり、母斑(ぼはん)の変種かもしれないという(絵だけをみて確定診断をつけてはいけないとたしなめられたそうだ)。
篠田氏は「レオナルドはモナ・リザに対する愛着がことのほかつよく、晩年をすごしたフランスのクルー城館まで画像をもってゆき、最期まで手離さなかったと伝えられる」と付記することも忘れない。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、12頁~18頁)
レオナルドは晩年まで『モナ・リザ』に手を加えたので、目頭のしこりも、本当に24歳から27歳ごろのリザ夫人の顔にできていたのだろうかと私もふと疑問に思った。それと同時に、最期まで手元に置いて、普遍的な究極の美を追求したレオナルドは、なぜ目元の脂肪塊のような個人的特徴を示すものを描き残したのだろうか。私にとっても疑問であるとともに謎である。
【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)
レンブラントのバテシバ像について
レンブラントは、ゴッホとともにオランダの生んだ世界的な画家である。日本ではゴッホに人気があるが、ヨーロッパではレンブラントのほうが評価が高い。濃い陰影の中に内部から、じわりとにじみでる深い精神性をたたえているからである。
『旧約聖書』の中に「バテシバ」というあでやかな美女がでてくる。ヘト人ウリヤの妻だったが、イスラエルの王ダヴィデにみそめられ、召されて王妃となり、ソロモン王子を生んだ。
中野京子氏も解説していたように、ダヴィデは、たまたまバテシバが入浴している姿を屋上から目にして、彼女にぞっこん惚れこんだ。バテシバの夫を戦場に出陣させ、その間に彼女をものにしようと誘いの手紙を送りつけた。ぜひ王宮にくるようにという艶書を手にした貞淑な妻バテシバは思い悩んだ。
その彼女の姿を、レンブラントは当時28歳だった若い愛人ヘンドリッキェ・ストッフェルスをモデルに描いた。
ところで、篠田達明氏は「バテシバの乳房」と題して、次のように述べている(『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)。
バテシバの左乳房に注目すると、乳房の外側には明確な陥没がみとめられ、乳癌の症状をあらわしているという(乳房の外上四分円が好発部位。バテシバの左乳房の表面が陥没し、でこぼこしているのは癌と皮膚とのあいだに癒着がおこっている証拠だそうで、乳癌はかなりすすんだ状態らしい)。
ヘンドリッキェは、≪バテシバ≫のモデルとなってから9年後に37歳で他界した。おそらく、乳癌の転移がもとで亡くなったものと篠田氏は推察している。死にいたるまでの期間がやや長いが、乳癌の多くは進行がゆるやかで、ヘンドリッキェの病状も緩慢な経過をたどったとみる。
≪バテシバ≫が描かれたのは、1654年とされる(日本では徳川4代将軍家綱の治世に当たる)。欧州の医師によって、このバテシバが、どうやら乳癌らしいと取沙汰されだしたのは、1990年前後である(発症からじつに300数十年を経て、ようやく診断がついた珍しい症例だそうだ)。
光と影の巨匠レンブラントは、愛する女性がそのような病気だとはつゆ知らず、その病像を精緻に細部描写した。
篠田氏は、この絵を「医学史上も、未治療乳癌を視覚的にとられた希有の例であり、きわめて価値のある逸品」(30頁)と評している。
(篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年、25頁~30頁)
【篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった』(新潮新書)はこちらから】
モナ・リザは高脂血症だった―肖像画29枚のカルテ (新潮新書)
グルーズとシャルダン
ジャン=バティスト・グルーズ(1725~1805)の風俗画は、生前、市民の間で絶大な人気を誇ったが、次代の新古典主義によってその様式を全否定されてしまう。最近、復権がなされつつあると中野氏は、グルーズについて評している。
グルーズとシャルダン(1699~1779)はよく対比される。中野氏も、「第⑧章 ルーヴルの少女たち」と題して、グルーズの『壊れた甕』とシャルダンの『食前の祈り』という風俗画を取り上げていた。中野氏は、グルーズの腕を評価していた。『壊れた甕』では、故意に主題を曖昧にしたとしている。グルーズほどの腕があれば、明快なメッセージはいかようにも可能だったはずだが、敢えてそうはしなかったとみている。
一方、シャルダンは、「色を使って感情を描く」と言った画家らしく、ただの道徳画を超え、見る者に家庭の温かさなどを思い起こさせると、高い評価を与えている。
(中野、2016年[2017年版]、115頁~123頁。とくに118頁、122頁)
グルーズは、卑俗な風俗画で、いわば教訓的な情緒を表現した。それに対して、シャルダンの静物や風俗は、同じロココ的な繊細で甘美な情緒性をたたえながら、物と物との関連、空間の静かな秩序を探求することによって、たとえばセザンヌの静物などに先駆するともいわれる。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、169頁)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
【シャルダンの自画像】
田中英道氏は、『美術にみえるヨーロッパ精神』(弓立社、1993年)において、「自己を理想化できない十八世紀以後の画家」と題して、シャルダンの『自画像』(ルーヴル美術館)を取り上げている。
18世紀の自画像の典型は、シャルダンの、この奇妙な部屋着姿の像にみとめることができるという。76歳の自らを写実的に描いている。ナイト・キャップとして頭にマフラーを巻き、丸い眼鏡の上に青い庇をつけている。これは当時のフランス庶民の姿そのものであるそうだ。そこには、芸術家としての尊大な姿はない。
この点、スペインの画家ゴヤの『自画像』(プラド美術館)も同じで、宮廷画家であったにもかかわらず、1815年、70歳のときに描かれた、その肖像画に少しも気取りがない。
(田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年、136頁~137頁)
【田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』はこちらから】美術にみるヨーロッパ精神
ディドロとグルーズ
18世紀最大の美術批評家とされるディドロは、シャルダンとグルーズを評価した。
ディドロの絵画観を、18世紀のフランスの歴史画の発展にも関わりをもった画家グルーズとディドロとの関係の面から、鈴木氏は検討している。
1760年代のグルーズは、テーマの面でも様式の面でも、ロココの享楽主義やバロック的ダイナミズムとの訣別の方向に向かっていたようだ。
1750年代には、肖像画や通俗的なセンチメンタリズムの風俗画の描き手であったグルーズは、1760年代前半を中心に新しいタイプの風俗画を制作するようになる。
それは、道徳的教訓、すなわち父親の権威、母親の慈愛、青年の孝心、娘の純潔といった観念の称揚を盛りこんだドラマティックな風俗画であった。それは、当時台頭しつつあった市民社会の家庭を健全に維持するための、道徳であったようだ。
代表的な作品として、鈴木氏は次のものを挙げている。
〇≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
〇≪親孝行≫(1763年)
〇≪慕われる母親≫(1765年)
これらは家庭内の情景を描き出している点では、17世紀オランダの風俗画を継承する性格をもつ。また個々の人物の役割が年齢・性別・服装・仕種・表情などの手段で明示されている点では、英国のホガースの作品と一脈相通ずるものをもっているそうだ。
しかし、その一方で、これらの作品は、17世紀の正統的な歴史画の方式に近い性格もあるといわれる。例えば、強い道徳的主張を行ない、舞台のように限定された空間に人物たちが明快に配置されている点がそうである。
グルーズはのちに1770年代になって、このような新様式をいっそう徹底して、制作している。例えば、次の作品がある。
〇≪父親の呪い≫(1777年、ルーヴル美術館)
〇≪罰された息子≫(1778年、ルーヴル美術館)
この二作品のテーマは、先の作品群に比べ、道徳的観念の単純な称揚の域を脱していると鈴木氏はみている。
父親の意志にそむいて家を出た息子が戻ってきた時には、すでに父は死の床にあり、むこうみずな息子の行為は、彼自身の悔恨と一家の不幸を生む。
このテーマの根底にあるものが父権的な家庭道徳の称揚である点に変わりはないが、一つの明確な方向性をもつ観念を示していると鈴木氏は述べている。
ストーリーの一場面といて平板に描き出すのではなく、主役である息子の行為の瞬間とその時の人々の反応を
パセティックに描き出しているという。
(当時の批評は、この二作品を17世紀のオランダの風俗画によりも、むしろラファエロやプッサンに比して賞讃している)
1760年代および70年代のグルーズの風俗画は、その観念的な内容によって、観る者に「解読」の喜びと「思索」の機会を与える絵として人気を博した。形骸化した歴史画やロココ的テーマの無内容にあきた人々がそうであった。
それにもかかわらず、グルーズ自身は歴史画家になろうとする野心を抱いていた。
そして、1769年にいわゆる≪セウェルスとカラカラ≫事件をひきおこした。
これは、それまでアカデミーの準会員であったグルーズが正式の会員になるための入会作品として、≪父の暗殺を企てたかどで息子カラカラを糾弾するセウェルス帝≫(1769年、ルーヴル美術館)を提出し、会員として認められはしたものの、「歴史画家としてではなく風俗画家の資格で入会を認める」という条件が付された事件である。
この事件については、1769年のディドロのサロン評に見出されるようだ。風俗画家の資格という条件付きに、グルーズは落胆し立腹し、この作品をルーヴル宮内の審査会場に残したまま立ち去ったという。そして、作品は、同年のサロンの出品作として展示され、容赦のない批評を浴びた。
批判の中には、造形的に当たっているものもあったが、古代ローマのテーマを明白なプッサン様式で描いている(アカデミーの綱領に合致させている)のに、当時の人々の扱いは苛酷であった。純粋な作品評価のほかに、人々の反感があったと鈴木氏は解釈している。つまり、これまで風俗画家として認められてきたグルーズが自分の領域を脱して、歴史画家としての地位に野心を示したことに対する反感である。
実際、ディドロもサロン評で次のように記している。
「グルーズは自分の分野から出てしまった。自然の細心な模倣者であった彼は、歴史画を要求する一種の誇張にまで己れを高めることができなかった」と。
17世紀のアカデミーが設立した画題の序列は、画家の序列でもあった。その壁はそれを乗り越えようとする者にとっては、グルーズの例にみるように、厚くまた高かった。
グルーズはこのあとは、従来の歴史画的な構成の風俗画や肖像画の制作に戻ったが、最晩年の1800年までサロンに出品することはなかった。
ところで、ディドロは、このようなグルーズの軌跡に最も大きな影響を与えた人物であった。ディドロはルソーの友人でもあり、若い時から旧来の芸術や思想の貴族趣味や形式主義に異議を申し立てていた。ディドロは、演劇においては、中産階級の人々の直面する課題を教訓的にとりあげた市民劇を主張した(実例として、戯曲『私生児』(1757年)や『一家の父』(1758年)を執筆)。
またルソーと同じくディドロは、道徳的な教訓を含んだ心理小説を書いた、英国の人気作家リチャードソンを好んだ。グルーズの風俗画に対するディドロの共感は、彼のこのような道徳的傾向によるものであったらしい。
1761年に、サロン評を執筆した際に、グルーズの≪村の花嫁≫(1761年、ルーヴル美術館)
について、ほとんど満点に近い評価を与えている。
ディドロによれば、この絵は、嫁ぐ娘の持参金を支払い、結婚の手続を終えた農村の父親が娘婿に花嫁を幸福にするよう頼んでいる場面である。
そして、この絵はパセティックであり、グルーズはオランダ17世紀の風俗画テニールスに比べて、自然をいっそう優美で美しく心地よいものに高めていると評している。
その後もディドロは、グルーズの作品を丁寧な記述で批評し、グルーズの風俗画の道徳性とその表現形式を高く評価している。
ディドロにとって絵画の内容の市民的堅実さは好ましいものであった。
だが、ディドロが絵画の領域として最も重要なものと考えていたのは、本来の歴史画であった。歴史画の中でも、形骸化したエロティシズムに陥りやすい神話ではなく、主にローマの歴史から採られた道徳的テーマの歴史画であった。
そして、ディドロは帝政期のローマの威容に夢中になり、ローマの賢人たちの事績を描くためには、17世紀の歴史画の様式が不可欠であると考えた。
例えば、17世紀フランス最大の歴史画家ニコラ・プッサン(1594~1665)の≪エウダミダスの遺言≫(1653年頃、コペンハーゲン、国立美術館)を理想的な傑作とみなしていた。
ディドロは、このような絵画観の持ち主であったから、グルーズが風俗画にあき足らなくなり、適当な歴史画のテーマを求めて相談した時、≪ブルートゥスの死≫を奨めた。
グルーズは、それまで風俗画として多くの制作した経験のある「家族間の葛藤」の主題に近い≪セウェルスとカラカラ≫のテーマを古代史から選んだ。
ディドロが≪セウェルスとカラカラ≫の完成作に対して批判的であったのは、テーマの選定に関してグルーズがディドロの助言を最終的には受け入れなかったという事情も一因となっていたかもしれないといわれる。
さらなる理由としては、「グルーズは自分の領域から出てしまった」というディドロの言葉に示されているように、ディドロは歴史画を尊重する伝統的な思想の持ち主であったので、歴史画家たらんとする風俗画グルーズの心意気は、分を越えたものと感じられたのであろう。
ディドロがもっとも好んでいたシャルダンについても、「シャルダンは歴史画家ではないが、偉大な人物である」と記し、ディドロは画家の序列にも厳格な考え方をしていた。
ディドロの絵画観に、内容と形式の点で完璧に合致していた作品の描き手は、ダヴィッドであったと鈴木氏はみている。
ただ、ディドロの没した1784年は、ダヴィッドがフランス新古典主義絵画のピークとみなされ、彼自身の代表作でもある数点の作品の内、まだ半数も描いていない時期に当たっていたとも断っている。
歴史の偶然は、この二人が充分に理解し合う機会を与えたとはいえないが、それでもディドロは限られた機会に、この若い画家について好意的な文章を書きのこしているそうだ。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、64頁~71頁)
【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』
【補足】グルーズの結婚と晩年
18世紀の後半に活躍した画家グルーズは、ロココの絶頂にあって、ロココ絵画の享楽的なエロティシズムに対抗するかのように、当時の市井風俗を描いた。そこにしばしば教訓的意図を盛り込んだ。1761年のサロンに出品された『村の花嫁』(ルーヴル美術館)は、グルーズの教訓的風俗画のいい例である。
グルーズの絵は少々通俗的で大げさだが、爛熟したロココ絵画の人工的な美よりも、市民的なモラルを重視しようとするディドロら当時の啓蒙思想たちに支持された。グルーズも18世紀後半の芸術の中に重要な位置を占める画家である。
もっとも、グルーズが見かけほどロココのエロティシズムと無縁ではなかったことを示す作品が、『壊れた甕』である。ここに描かれた少女はいかにも愛くるしく、水甕を壊してしまったことを悔いているような様子であるが、よく見ると思わせぶりである。彼女が腕に持っている水甕が壊れて穴があいていることは、すでに彼女が無邪気な少女時代に別れを告げたことを暗示する。
ところで、グルーズは1759年、美しい女性アンヌ・ガブリエルと結婚し、自らの初期の作品に彼女を理想的なモデルとして描く。しかし、実際の彼女は薄っぺらで自堕落な女だったらしく、スキャンダルをたびたび起こし、幸福な結婚生活ではなかったようだ。のちにグルーズは離婚するにいたる。
フランス革命が起こってからは、グルーズは世間から忘れ去られ、貧困のうちに世を去った。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、104頁~106頁)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
グルーズ作『壊れた甕』についての私の感想ひとこと~歌「花はどこへ行った」と映画『シェルブールの雨傘』
私は、中野京子氏のグルーズ作『壊れた甕』の解説を読んで、私なりの感想をひとこと述べておきたい。
このグルーズの絵は、歌「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)と映画『シェルブールの雨傘(Les Parapluies de Cherbourg)』(1964年)と重なり合う。
「花はどこへ行った」(原題Where Have All The Flowers Gone、1961年)は、世界で一番有名な反戦歌とも言われるフォークの楽曲である。
アメリカン・フォークの父とも言われるピート・シーガー(Pete Seeger)による作詞作曲であり、シーガーの代表作でもある。
(シーガーは、3番までの歌詞で、4番と5番の歌詞はジョー・ヒッカーソン[Joe Hickerson]が書き加え、1961年に著作権が登録し直されたそうだ。この歌詞への加筆によって反戦歌としての色彩が鮮明になったといわれる)
1961年、キングストン・トリオがこの曲を録音して発表し、翌1962年にヒットした。1962年には、ピーター・ポール&マリーによってもカバーされ、こちらもヒットした。その背景には、アメリカがベトナム戦争に関わり始めたことがあったとされる。「花はどこへ行った」という曲は、反戦歌として広く親しまれるようになる。
さて、ご存じのように、「花はどこへ行った」の歌詞は、おおたたかし訳詞によれば、1番から5番まである。1番で「野に咲く花はどこへゆく」という問いに対して、「野に咲く花は少女の胸にそっとやさしくいだかれる」と答える。
同様に2番では「かわいい少女はどこへゆく」→「かわいい少女は若者の胸に恋の心あずけるのさ」。3番では、「その若者はどこへゆく」→「その若者は戦いにゆく 力づよく別れを告げる」。4番では、「戦い終りどこへゆく」→「戦い終り 土にねむる やすらかなるねむりにつく」。5番では、「戦士のねむるその土に野バラがそっと咲いていた」→「野バラはいつか少女の胸にそっとやさしくいだかれる」
つまり、「野に咲く花」→「少女の胸」→「若者の胸」→「戦場」→「お墓」→「野バラ咲く」→「少女の胸」と循環法的に元に戻る歌詞の構造になっている。そして、一種の反戦歌となっている。
(例えば、松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年、162頁~164頁)。
【松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』はこちらから】
学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編
一方、グルーズ作『壊れた甕』に描かれた“ルーヴルの少女”は、中野氏が解説したように、胸に飾った薔薇は花弁がむしられて、腹部あたりで、散った薔薇をドレスの裾で抱えている。本作の成立には、ルイ15世の寵姫デュ・バリー夫人が直接グルーズに依頼したともいわれ、彼女は若き日、無邪気にも最初の恋の相手を真に愛したかもしれないという(中野、2016年[2017年版]、118頁~120頁)。
一方、映画『シェルブールの雨傘』のストーリーはこうである。
時代と舞台は、1957年、アルジェリア戦争だた中のフランス、港町シェルブールである。
20歳の自動車整備工ギイ(ニーノ・カステルヌオーヴォ)と、17歳のジュヌヴィエーヴ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は結婚を誓い合った恋人同士だった。
しかし、やがてギイに召集令状が届き、アルジェリア戦争において、2年間の兵役をつとめることになった。別れを惜しむ二人は、その夜、結ばれる。
ギイが入営したあと、1958年、ジュヌヴィエーヴは妊娠していることを知る。その後、二人はすれ違いの人生を歩み、それぞれ別の人と結婚することになってしまう。
1963年の12月の雪の夜、入営の日にシェルブール駅で別れて以来、二人は偶然にも再開するが、、、
カトリーヌ・ドヌーヴが演じたジュヌヴィエーヴという女性と、このグルーズの『壊れた甕』の少女が重なる。また、「花はどこへ行った」で戦争が愛する二人を引き裂いた点で、映画『シェルブールの雨傘』とストーリーが重なるのである。
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≪参考文献≫
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔――』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年
J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫、1987年
飯塚信雄『ロココの時代――官能の十八世紀』新潮選書、1986年
中山公男編『大日本百科事典 ジャポニカ21 別巻世界美術名宝事典』小学館、1972年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』Art Lys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, Art Lys, 2001.
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年
木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年
中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年
佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]
松山祐士編『学園愛唱歌選集 ピアノ伴奏編』ドレミ楽譜出版社、1994年
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