≪中国文化史(上)~高校世界史より≫
(2023年9月1日投稿)
前回のブログまでで、西洋史を一応終え、今回以降から、いわゆる東洋史に関する世界史をみてゆきたい。
今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(唐代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
参考とした世界史の教科書は、例によって、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
なお、中国文化史の【補足】は、(上)(下)を終えてからにする。
中国以外にも、次のようなテーマでまとめていく予定である。
●インドの歴史と文化
●イスラーム
●東南アジアの歴史
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])から、中国文化史の項目を抽出すると、次のようになる。このうち、今回は、唐代までを取り上げてみる。
【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの/邑制国家の誕生
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
第4章 東アジア世界 1東アジアにめばえた文明
おおよそ秦嶺山脈から淮河にいたる線を境として、その北部の黄河流域一帯(華北)は、冷帯から温帯に属し、降雨は夏期に限られる乾燥度の強い地域であり、モンゴル高原から季節風によって運ばれてきた黄土が分厚く堆積している。黄土は畑作に適した肥沃な土壌であり、黄土地帯では、水さえ上手に使えば、石や木などの粗製農具によっても、アワ・キビなどの穀物の栽培ができた。
淮河以南の長江の流域一帯(華中)は、温帯に属し、照葉樹林と湖沼が広がる湿潤な地域であり、一部の地域には、古くから個性的な諸文化が生まれた。長江下流域(江南)では、前5000年ごろに新石器文化がめばえ、稲作が成立していたことが確認できる。前3300年ごろに出現した良渚文化では、巨大な祭壇や精巧な玉器がつくられた。
いっぽう華北の新石器時代は、前6000年ごろにさかのぼり、黄河流域の広い範囲に、穀物を栽培し豚や犬などの家畜を飼養する文化が生まれ、半地下式の竪穴住居の集落が形成された。黄河文明の出発点をなすこの農耕文化は、二つの文化期に分けられる。最初にあらわれるのが、前5000年から前3000年ごろの仰韶文化(ヤンシャオ、ぎょうしょう)であり、明るい彩色文様の土器をともなうところから彩陶文化ともいわれる。仰韶文化は、前2900~前2000年ごろに出現した竜山文化(ロンシャン、りゅうざん)に受けつがれた。この文化は、粗製ではあるが実用的な灰陶と、良質の研磨土器である黒陶によって特徴づけられる。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~79頁)
黄土地帯で、最初に集落を営むことができたのは、洪水の危険が少なく、小さな河川や湧き水を利用できる台地などに限られていた。このために、黄河中・下流域では小規模な集落(邑[ゆう])が数多く点在することになり、おのおの氏族制のもとで共同体的な生活が営まれた。竜山文化の末期に各地の農耕文化が衰退するなか、四方の文化を吸収し、アワやキビ・稲・大豆などの多様な穀物を栽培していた中原地域では、竜山文化が発展をとげ、周辺の邑を服属させ、城壁をめぐらす都市国家(大邑)もあらわれた。こうして新石器時代の農耕文化は、一つの文明としての姿を整えたのであり、多くの邑は軍事や交易面で連携をすすめて、より強力な年国家のもとに組織化された。黄河文明が生みだした最古の王朝として確認される殷(商)は、前1600年ごろ、商という大邑を中心に成立したこれらの都市国家の連合組織(邑制国家)であった。
殷王朝後期の遺跡である殷墟(河南省安陽市)からは、捕虜か奴隷を殉葬したらしい竪穴式の巨大な墓が発掘されており、出土した甲骨には、殷王が天帝の神意を占った内容が、漢字の原型となった甲骨文字で記録されており、当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。また青銅器時代はこのころにはじまり、殷代の精巧な青銅製の祭器類は、はるか長江流域や四川盆地からも出土している。
<甲骨文字の刻まれた牛骨>
専門の占い師が、獣の肩甲骨や亀の腹甲にできるひび割れで神意を読みとり、その結果を文字で刻んだ。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、79頁~80頁)
第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。また、兵家(兵法家)の孫子や呉子(呉起)、外交術を駆使した縦横家の蘇秦(?~前317)や張儀(?~前309)、陰陽五行説を唱えた陰陽家の鄒衍(前305~前240)、また論理学派である名家の公孫竜(前4世紀~前3世紀ごろ)、新しい農業技術を普及させた農家なども登場し、時代の要請にこたえた。この時代に編集された文学作品として、周の王室の儀式の歌と黄河流域の民謡を集めた『詩経』、楚の詩人屈原(前340~前278)の詩や長江流域の詩歌を集めた『楚辞』があり、それぞれ華北と華中・江南の風土が反映されている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
漢代には、五経などの儒教の経典が新たに編集され、後漢の鄭玄(127~200)らによる字句の解釈をめぐる学問(訓詁学)が発達した。漢王朝の正統化のために史書の編集が奨励され、前漢の司馬遷(前145ごろ~前86ごろ)の『史記』と後漢の班固(32~92)の『漢書』は、のちの歴史書の模範となった。後漢期には、科学技術の面でも進歩がみられ、張衡(78~139)は天球儀や地震計を考案し、蔡倫(?~121ごろ)は紙の製法を大幅に改良した。また、官営工場を中心に精巧な絹織物、漆器、銅鏡がつくられ、その技術や製品は西方にも伝播した。この時代、海・陸両路による東西交渉が活発であり、仏教がインドから西域経由で中国に伝来したのは、後漢期のこととされる。
<『史記』と『漢書』>
・『史記』は上古から武帝期までの通史。『漢書』は前漢一代の歴史書であり、叙述の形式は、帝王や皇帝の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)で構成される紀伝体である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。これに対して北朝では、北魏の歴史地理書『水経注』や農業技術書『斉民要術』のような、現実的で実用的な文化が開花した。
仏教は、南北朝時代の社会不安のなかで、中華文明の世界に根をおろした。華北では、五胡十六国時代に西域の亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ ?~348)や鳩摩羅什(くまらじゅう、クマラジーヴァ、344~413)らが布教に努め、身分を問わず平安を願う多くの人々に受けいれられた。江南では、インドにおもむいた東晋の求法僧法顕(337ごろ~422ごろ)の活躍もあって、老荘思想をとおして理解され、貴族の間に流行し、南朝の首都の建康には仏寺が林立した。北魏で国教とされたのは、寇謙之(363~448)によって大成された道教であったが、やがて仏教が国家の庇護を受けることになり、首都洛陽を中心に多くの寺が建立された。敦煌(甘粛省)の石窟寺院の造営は、五胡十六国時代にはじまり、北魏の雲崗(山西省大同市の西郊)・竜門(洛陽市の南郊)をへて、のちの時代に受けつがれた。
<法顕>
・法顕は、399年に長安を出発して陸路インドに入り、海路シンハラ(現在のスリランカ)をへて412年に帰国し、『仏国記』(法顕伝)を著した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
唐の中ごろから、農業生産が一段と発展した。華北では、冬小麦を裏作とする二毛作が普及した江南では、水稲栽培の技術も向上し、水田地帯はさらに南方に広がった。水陸の交通網は一段と整備され、都市間の物資流通が充実した。また、首都長安の市(西市・東市)のように、都城内の一定の区域に限定されてはいたが、各種の商店や手工業の工房も繁栄した。対外交易も発展し、西域経由の東西貿易が安定したほか、広州や泉州を中心に南海貿易もさかんになり、やがて広州には国家が貿易を管理する市舶司が設置され、アラビアやペルシアのムスリム商人の来航も多くなった。こうして首都長安は、東西の人々の行きかう国際都市となった。
経済の発展に支えられて文化も栄えた。唐代の文化の特色は、華北と江南の文化が融合した点にあったが、同時に東西交易の盛況を背景として国際色豊かであった。儒教は、国家の保護を受け、支配者層の必須の教養科目となった。科挙の試験科目となったこともあって、経典類の編集・研究がすすみ、孔穎達(574~648)らによる欽定の注釈書『五経正義』が編集された。文学では、六朝時代の形式美がすたれ、韓愈(韓退之、768~824)や柳宗元(773~819)らは古文の尊重を唱えた。また科挙で詩賦が重視されたこともあって、唐詩が隆盛し、李白(701~762)・杜甫(712~770)・王維(701ごろ~761)・白居易(白楽天、772~846)らの詩人が活躍した。
美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
宗教では、仏教が前代につづいて発展した。玄奘(600ごろ~664)や義浄(635~713)らのように仏典を求めてインドにおもむく僧も多く、仏典の漢訳と教理の研究もすすんだが、浄土宗や禅宗などの新しい宗派が誕生し、最澄(767~822)や空海(774~835)が日本に伝えた天台宗と真言宗は、平安仏教に大きな影響を与えた。いっぽう、道教も帝室の保護のもとに発達し、民間には仏教以上に広まった。また西方諸国との交流がさかんになると、祆教(ゾロアスター教)・マニ教・回教(イスラーム教)・景教(ネストリウス派キリスト教)なども伝わり、それらの寺院も建てられた。
<玄奘と義浄>
・玄奘の行路は往復とも西域経由のルートであり、帰国後に『大唐西域記』を著して、中央アジアやインドの事情を伝えた。義浄は往復とも海路を使い、『南海寄帰内法伝』を著して、インドや東南アジアの状況を報告した。
<コラム「木簡から紙へ」>
春秋戦国の時代になると、官僚制度が整って行政文書が飛びかうようになり、また諸子百家などの各種の書物が流布するようになった。この事情に応じて、戦国時代のころから、一般の書物から行政文書にいたるまで、うすくけずった木や竹の札が、広く、大量に使用されるようになった。
これらの木簡や竹簡では、墨で文字が書かれ、書きそんじたら小刀でけずって訂正された。役人たちが「刀筆の吏」とよばれたのはこのためである。いく枚かの札でまとまりがつくと、それらを縦にならべて2~3本の糸で横に綴る。その姿が「冊」であり、これを巻くと「巻」になる。こうして形をなした書冊を何度も繙くと、綴り糸が切れることもおこる。「韋編(いへん、綴り糸)三絶」とは、よく勉強したという意味である。
ぼろ布や亜麻の繊維などをすいてつくられる紙は、後漢の宦官、蔡倫の発明とされる。しかし、粗製ながらも前漢期の紙が発見されており、文献にも、蔡倫より以前の紙の記録がある。たしかに紙は、後漢時代から急速に普及していった。しかし、それ以降にあっても、木簡や竹簡が紙とならんで使用されつづけた。近年、つぎつぎと発掘・発見される大量の木簡は、戦国末期から三国時代にまでいたっている。
751年、タラス河畔の戦いで唐軍がやぶれたとき、製紙技術者が捕虜となり、製紙法は西方に伝わったともいわれている。バグダードには製紙工場がつくられ、その後、エジプトからアフリカ北部沿岸をへて、12世紀半ばにイベリア半島に伝わった。この間に改良を重ねながら、製紙法がヨーロッパ各地へと普及していったのは、13世紀以降のことである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
「第2章アジア・アメリカの古代文明」の「3中国の古典文明」
前6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として、粗放な農耕が始まっていた。前5千年紀には、気候の温暖化とともに農耕技術も発展し、数百人規模の村落がうまれてきた。黄河中流域では、彩文土器(彩陶)を特色とする仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化が有名であり、長江中・下流域でも、同じ頃に人工的な水田施設をともなう集落がつくられていたことが、明らかになっている。
前3千年紀には、これら地域間の交流はしだいに緊密化した。黄河下流域を中心に、南は長江中・下流域、北は遼東半島にいたるまで分布する黒色磨研土器(黒陶)はそれを示すものである(竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化)。交流にともなう集団相互の争いは、それぞれの地域で政治的統合をうながした。この時期の遺跡にみられる大量の武器や戦争犠牲者の埋葬跡、また集団作業で土をつき固めた城壁や支配層の巨大な墓は、政治権力の集中と階層差の拡大を反映している。
(前略)
現在確認できる最古の王朝は、夏につづいておこったとされる殷(商、前16世紀頃~前11世紀頃)である。20世紀初めの殷墟(河南省安陽市)の発掘によって、甲骨文字を刻んだ大量の亀甲・獣骨や、多数の人畜を殉葬された王墓および大きな宮殿跡が発見され、殷王朝が前2千年紀に実在したことがはっきりと証明された。
殷王朝は、多数の氏族集団が連合し、王都のもとに多くの邑(ゆう、城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが、王は盛大に神の祭りをおこない、また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し、強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。現在の漢字のもとである甲骨文字はその占いの記録に使われたものであり、複雑な文様をもつ青銅器の多くも祭祀用の酒器や食器であった。
(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、66頁~68頁)
(前略)
戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。さらに論理学を説いた名家、兵法を講じた兵家(孫子)、外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀)、天体の運行と人間生活の関係を説いた陰陽家、農業技術を論じた農家など多様な分野で思想・学問の基礎が築かれた。『詩経』『春秋』など儒家の経典をはじめとする諸子百家の文献に加えて、『楚辞』などの文学作品もまとめられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)
(前略)
漢代の初めには法家や道家の思想が力をもったが、武帝の時代には、董仲舒(前176頃~前104頃)の提案により儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。儒学の主要な経典として五経が定められ、とくに後漢の時代には、鄭玄(127~200)らの学者により、経典の字句解釈を重んずる訓詁学が発展して、経典の詳しい注釈書がつくられた。
当時の書物はおもに竹簡に書かれていたが、後漢の時代に製紙技術が改良されて紙がしだいに普及した。文字は、今日の漢字と大差のない隷書に統一され、辞書もつくられた。漢代以前の歴史をわれわれに伝えるもっとも重要な書物は、武帝の時期の人、司馬遷(前145頃~前86頃)がまとめた『史記』で、太古から武帝期にいたる歴史を紀伝体で叙述し、個性ある人物群をとおして動乱の時代をいきいきと描いている。『史記』とそれにつづく後漢の班固(32~92)の『漢書』以後、紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形となった。
<紀伝体>
皇帝の事績(本紀)と功臣などの伝記(列伝)を中心に構成される歴史書の書き方をいう。これに対し、年月順に記すものを編年体という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、73頁~74頁)
魏晋南北朝の動乱時代は、国家の統制も弱まり、多民族がまじりあう状況のなかで、多様な思想・文化が花開いた時期であった。仏教はすでに1世紀頃には西域から伝えられていたが、中国で広まったのは4世紀後半からである。仏図澄(?~348)や鳩摩羅什(344~413)は西域からやってきて華北での布教や仏典の翻訳に活躍し、法顕(337頃~422頃)は直接インドに行って仏教をおさめ、旅行記『仏国記』を著した。仏教の普及にともない、華北では多くの石窟寺院がつくられた。敦煌では粘土製の塑像と絵画により、北魏の時代から造営された雲崗・竜門では石像と石彫により、仏教の世界が表現された。華北では仏教は庶民にまで広まったが、江南では貴族の教養として受け入れられた。仏教の普及に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説を取り入れてできたもので、道士の寇謙之(363~448)は教団をつくって北魏の太武帝に信任され、仏教と対抗して勢力をのばした。
当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)
(前略)
首都長安は、皇帝の住む宮城から南にのびる大通りを軸に各種の施設が東西対称に配される広大な計画都市で、東アジア各地域の首都建設のモデルとなった。長安には、周辺諸国からの朝貢使節・留学生や商人たちが集まり、仏教寺院や道教寺院のほか、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。とくにササン朝の滅亡時には多くのイラン人が長安に移住し、ポロ競技などイラン系風俗が流行した。イラン系風俗の流行は、当時の絵画や唐三彩の陶器にも反映されている。外国人がその才能を見こまれて官僚に取り立てられることもあり、長安はアジア諸地域の人々を結びつける国際色豊かな都市であった。一方、海路中国にいたるアラブ・イラン系のムスリム商人も増え、揚州・広州など華中・華南の港町が発展した。
唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。
<玄奘>
玄奘は西域経由でインドに17年間にわたる旅行をおこない、仏教を深く学ぶとともにインド各地の仏跡を訪れた。インドからもち帰った大量の仏典をもとに、帰国後、大翻訳事業をおこない、中国の仏教学の水準を飛躍的に高めた。その旅行の記録である『大唐西域記』は、当時の西域・インドの状況を詳しく伝えている。
<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])と村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)との対応関係は、だいたい次のようになる。
【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの、邑制国家の誕生
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
Dawn of the Huang He Civilization/Emergence of Village-Based States
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)
〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
Brief description of a Hundred Schools of Thought
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)
〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
Culture in the Han Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)
〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
Culture in the Southern and Northern Dynasties
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)
〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
Society and Culture of the Sui and Tang Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)
〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
Culture of the Song Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)
〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)
〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
Thoughts and Culture in the Ming Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)
〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
Economy and Culture of the Qing Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)
それでは、唐代までの文化史の記述をみてみよう。
中国文化史について
North China or the drainage area of the Huang He (Yellow River, 黄河) is located in the northern part of the Huai River-Qin Mountains line. The area, which belong to the subarctic and temperate zones, is very dry, has rain only in summer. There lies a thick loess (黄土) which the monsoons brought from the Mongolian plateau. Loess tend to develop in very rich soils which is suitable for agriculture. In the loess area, it was possible to raise foxtail millet, proso millet or other crops if only by conserving water and preventing its waste, and with simple agricultural tools of stone or wood.
Mid-China, the drainage area of the Changjiang River (長江), which is located to the south of the Huai River, has a cool or warm temperate climate. There are glossy-leaved forests and lakes. The area was wet and the humidity was high. Old and original culture
developed in some of the area. In the lower reaches of the Changjiang River (Jiangnam),
Neolithic cultures developed in about 5000 BC, and rice is found to have been cultivated.
However, since higher technologies were required for the further development of rice
farming, it was difficult to make paddy field with primitive tools, so that the cultures in the Changjiang River basin were not able to develop into a unified culture.
On the other hand, there were Neolithic cultures in North China in 6000 BC. In wide
area of the Huang He, the cultures, which raised crops and livestock such as pigs and dogs,
developed. Villages of pit-dwellings (semi basement type) were formed. This agricultural
civilization, which the beginning of the Huang He civilization (黄河文明) was divided into two periods. The Yangshao culture (仰韶文化) emerged first in the period from 5000 BC to
3000 BC. Since bright color potteries were made during this period, this culture is also called the colored earthenware culture. The Yangshao culture was inherited by the Longshan culture (竜山文化), which emerged from 2900 BC to 2000 BC. A feature of the
Longshan culture was its grey pottery, which was rough but very practical, and black pottery, which was of good quality and finely polished.
In the loess area, in early days, people could make villages only on plateaus which were
relatively safe from flood; this made it possible to use small rivers and springs. Therefore,
there were many small villages (邑) in the middle and the lower reaches of the Huang He.
The villages were run on a clan system as a community. In the end of the Longshan culture,
there also emerged city states (large cities) which ruled surrounding villages and constructed walls around the city. In this way, the Neolithic farming culture established a distinct form of civilization. Villages were connected to each other through military affairs
and trade. They were organized under the powerful city states. The Yin dynasty (殷, the Shang dynasty 商) is considered the oldest Chinese dynasty which was an alliance of states
(village states) formed under a larger village state, Shang, in about 1600 BC.
Huge tombs with burial pits were discovered in Yinxu (殷墟 Anyang, Henan), an archeological site of the late Yin dynasty. They contained skeletons of slaves or captives who seemed to be buried with their superiors. Animal bones and tortoise carapaces excavated from the tombs had oracles which were divined by the Yin Emperor in writing with oracle bone script (甲骨文字). This script was considered a prototype of Chinese characters (漢字). Through the oracle bone script, we can see the range of the Yin sovereignty and its unique political system. The Bronze Age (青銅器時代) started around this time; precise bronze ritual utensils of this period were found even in distant locations such as the Changjiang River basin or the Sichuan Basin.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)
〇諸子百家の群像
The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity). Sunzi(孫子)
or Wuzi (呉子 Wuqi) created Bingjia (兵家 Bingfajia). Su Qin(蘇秦) and
Zhang Yi(張儀) were experts in strategy (diplomacy). Zou Yan(鄒衍) proposed yin-yang theory(the School of Naturalist) saying that universe consisted by yin-yang and the Five Phases (wuxing); namely wood, fire, earth, metal and water. Gong Sunlong(公孫竜)
was a member of the School of Logicians or School of Names. Agriculturalism, or the School of Agrarianism, introduced new agricultural technologies. All schools of thoughts were created by the demand of the times. Some of literary works were as follows. The Shijing (詩経 Classic of Poetry) was a collection of songs and poems from the ceremonies of the Zhou dynasty and from folk songs of the Huang He region. Words of the Ch’u
(楚辞) was a collection of poems by Qu Yuan(屈原) from Ch’u and of poems and songs of the Changjiang River basin. The former reflected the scenery and climate of North China; the latter reflected those of Middle China and Jiangnam.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)
Hundred Schools of Thought 諸子百家
儒家 Confucius 孔子
The Lunyu (Analects) 論語
Mencius 孟子
Xunzi 荀子
法家 Shang Yang 商鞅
Han Fei 韓非
墨家 Mozi 墨子
道家 Laozi (Lao Tsu) 老子
Zhuangzi 荘子
兵家(兵法家) Sunzi 孫子
Wuzi (Wuqi) 呉子
縦横家 Su Qin 蘇秦
Zhang Yi 張儀
陰陽五行 Zou Yan 鄒衍
Gong Sunlong 公孫竜
人と作品 Shijing 詩経
Qu Yuan 屈原
Words of the Ch’u 楚辞
地名・地域 the Changjiang River 長江
Jiangnam 江南
Culture in the Han Period
In the Han period, the Five Classics (Wujing) and other Confucian Classics were newly
compiled. In the Later Han period Zheng Xuan (鄭玄) and others discussed interpretations of
Chinese letters and phrases and this movement developed to exegetics. Editing history
was encouraged to justify the Han dynasty. The Shiji (史記, “Historical Records”) by Sima Qian (司馬遷) of the Former Han period and Han-shu (漢書) by Ban Gu (班固) of the Later Han period became the
models of later history books. Scientific technologies progressed in the Later Han period.
Zhang Heng (張衡) invented armillary sphere and seismoscope. Cai Lun (蔡倫) greatly improved paper
making processes (紙の製法). Precise silk fabrics, lacquer ware and copper mirrors were produced
in government operated factories and elsewhere. Their technologies and products spread
even to the Western Regions. In this period, transportation between east and west became
active on both land and sea. It was said that Buddhism was officially introduced from India
through Western Regions to China in the Later Han period.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)
Culture in the Southern and Northern Dynasties
In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others. In prose, people preferred luxuriant writing called siliu pianliti (a Chinese style of composition with alternating lines of four and six characters to other styles). Zhaoming Crown Prince of the Liang dynasty compiled Wen Xuan, which
was an anthology of ancient Chinese poetry, and even influenced Japanese culture. Qingtan,
like the speech and behavior of the Seven Sages of the Bamboo Grove, became very
popular among nobles. They also hailed Taoism. In contrast, during the Northern dynasties,
Shuijingxhu, a book of commentaries on the waterways classic, and Qiminyaoshu, a book
on the Chinese agricultural teachings, of the North Wei, and other practical cultures,
flourished.
With the social unrest during the Southern and Northern dynasties period, Buddhism
took root in the Chinese cultures. In North China, during the Five Barbarians and Sixteen
Kingdoms period, Fotucheng (仏図澄, ブドチンガ) and Kumarajiva (鳩摩羅什, クマラジーヴァ) from Kucha (Quizi) in the Western Regions, endeavored to propagate Buddhism. It was accepted by
many people who had hoped for peace, regardless of their social rank. In Jiangnan, partly because of
missionary activities of Faxian (法顕), a dharma-seeking Buddhist monk of the Eastern Jin, who had
traveled to India, people in Jiangnan understood Buddhism through Taoism. Buddhism became popular
among nobles and many temples were constructed in Jainkan, the capital of the Southern
dynasties. In the Northern Wei, the Taoism (道教) propagated by Kon Qianzhi (寇謙之) became an official state religion. But eventually Buddhism became protected by the Northern Wei, and many
Buddhist temples were constructed in the capital of Luoyang and its surrounding area.
Construction of Buddhist stone-cave temples in Dunhuang (敦煌), Gansu Province, started in the
Five Barbarians and Sixteen Kingdoms period. Yungang (雲崗) caves (Datong City, Shanxi Province)
in the Northern Wei period and Longmen (竜門) caves (southern suburb of Luoyang City) followed
and the construction of Buddhist cave temples continued in later periods.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)
Society and Culture of the Tang Dynasty
From around the middle of the Tang dynasty, agriculture began to develop even
more. Double cropping system, in which winter wheat could be harvested during the off
season, was popularized in North China. In Jiangnan , technologies on wet rice cultivation
developed and paddy fields expanded further south. Transportation on land and water
developed further. Distribution of goods between cities became smooth. Some areas in the
capital Chang’an such as Markets (市) (the West Market and East Market), had various prospering
shops and handicraft workshops. Foreign trade developed. Through the Western Regions,
trade between east and west became stable. Guangzhou and Quanghou were the center
of trade between China and countries in the southern area. Eventually, state government-
controlled public offices managing maritime trade (shibosi) were placed in Guangzhou.
Many Muslim merchants from Arabia or Persia visited it and the capital Chang’an became
an international city.
Based on the development of economy, many fields of culture also became prosperous.
One of the features of the culture during the Tang dynasty period was a fusion of the
cultures of North China and Jianguan, but it was also an international culture against a
backdrop of the prosperous trade between east and west. Confucianism was protected by
the state and Confucian Classics became essential subjects for the Establishment. Editing
and study of the Classics advanced partly because Confucian Classics became the subjects
of the Imperial Examination. Officially authorized version of the annotated Correct
Meaning of Five Classics was edited by Kong Yingda and others. In literature, beauty of
form in the Six dynasties went out. Han Yu and Liu Zongyuan were the founders of the
classical prose movement. Poetry became an important subject of the Imperial Examination
and the Tang poetry prospered. Li Bai (李白), Du Fu (杜甫), Wang Wei (王維) and Bai Juyi
(白居易、白楽天) were all well known poets in the Tang dynasty.
In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
In religion, Buddhism developed in the same way as the previous Sui dynasty period.
Many monks such as Xuanzang (玄奘) and Yijing (義浄) went to India seeking for the texts of Buddhism. Chinese translations of the Buddhist scriptures and the studies of the Buddhist doctrines
advanced. New schools of Buddhism such as the Jodo sect and the Zen sect originated.
The Tendai and Shingon sects were transferred to Japan b Saicho and Kukai respectively.
Buddhism in China influenced Japanese Heian Buddhism to a significant extent. Taoism
also developed under the protection of the Tang dynasty and spread to become more
popular among people than Buddhism. When interaction with western countries became
active, Zoroastrianism (祆教、ゾロアスター教), Manichaeism (マニ教), Islam (回教、イスラム教), and Nestrorianism (景教、ネストリウム派キリスト教) were transferred to China
and their temples were constructed.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)
(2023年9月1日投稿)
【はじめに】
前回のブログまでで、西洋史を一応終え、今回以降から、いわゆる東洋史に関する世界史をみてゆきたい。
今回のブログでは、高校世界史において、中国文化史(唐代まで)について、どのように記述されているかについて、考えてみたい。
参考とした世界史の教科書は、例によって、次のものである。
〇福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]
〇木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]
また、前者の高校世界史教科書に準じた英文についても、見ておきたい。
〇本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]
なお、中国文化史の【補足】は、(上)(下)を終えてからにする。
中国以外にも、次のようなテーマでまとめていく予定である。
●インドの歴史と文化
●イスラーム
●東南アジアの歴史
【本村凌二ほか『英語で読む高校世界史』(講談社)はこちらから】
本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
・中国文化史(唐代まで)の記述~『詳説世界史』(山川出版社)より
・英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
中国文化史(唐代まで)の記述~『世界史B』(東京書籍)より
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])から、中国文化史の項目を抽出すると、次のようになる。このうち、今回は、唐代までを取り上げてみる。
【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの/邑制国家の誕生
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
第4章 東アジア世界 1東アジアにめばえた文明
【黄河文明のあけぼの】
おおよそ秦嶺山脈から淮河にいたる線を境として、その北部の黄河流域一帯(華北)は、冷帯から温帯に属し、降雨は夏期に限られる乾燥度の強い地域であり、モンゴル高原から季節風によって運ばれてきた黄土が分厚く堆積している。黄土は畑作に適した肥沃な土壌であり、黄土地帯では、水さえ上手に使えば、石や木などの粗製農具によっても、アワ・キビなどの穀物の栽培ができた。
淮河以南の長江の流域一帯(華中)は、温帯に属し、照葉樹林と湖沼が広がる湿潤な地域であり、一部の地域には、古くから個性的な諸文化が生まれた。長江下流域(江南)では、前5000年ごろに新石器文化がめばえ、稲作が成立していたことが確認できる。前3300年ごろに出現した良渚文化では、巨大な祭壇や精巧な玉器がつくられた。
いっぽう華北の新石器時代は、前6000年ごろにさかのぼり、黄河流域の広い範囲に、穀物を栽培し豚や犬などの家畜を飼養する文化が生まれ、半地下式の竪穴住居の集落が形成された。黄河文明の出発点をなすこの農耕文化は、二つの文化期に分けられる。最初にあらわれるのが、前5000年から前3000年ごろの仰韶文化(ヤンシャオ、ぎょうしょう)であり、明るい彩色文様の土器をともなうところから彩陶文化ともいわれる。仰韶文化は、前2900~前2000年ごろに出現した竜山文化(ロンシャン、りゅうざん)に受けつがれた。この文化は、粗製ではあるが実用的な灰陶と、良質の研磨土器である黒陶によって特徴づけられる。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~79頁)
【邑制国家の誕生】
黄土地帯で、最初に集落を営むことができたのは、洪水の危険が少なく、小さな河川や湧き水を利用できる台地などに限られていた。このために、黄河中・下流域では小規模な集落(邑[ゆう])が数多く点在することになり、おのおの氏族制のもとで共同体的な生活が営まれた。竜山文化の末期に各地の農耕文化が衰退するなか、四方の文化を吸収し、アワやキビ・稲・大豆などの多様な穀物を栽培していた中原地域では、竜山文化が発展をとげ、周辺の邑を服属させ、城壁をめぐらす都市国家(大邑)もあらわれた。こうして新石器時代の農耕文化は、一つの文明としての姿を整えたのであり、多くの邑は軍事や交易面で連携をすすめて、より強力な年国家のもとに組織化された。黄河文明が生みだした最古の王朝として確認される殷(商)は、前1600年ごろ、商という大邑を中心に成立したこれらの都市国家の連合組織(邑制国家)であった。
殷王朝後期の遺跡である殷墟(河南省安陽市)からは、捕虜か奴隷を殉葬したらしい竪穴式の巨大な墓が発掘されており、出土した甲骨には、殷王が天帝の神意を占った内容が、漢字の原型となった甲骨文字で記録されており、当時の王権の大きさや独特な政治のあり方を知ることができる。また青銅器時代はこのころにはじまり、殷代の精巧な青銅製の祭器類は、はるか長江流域や四川盆地からも出土している。
<甲骨文字の刻まれた牛骨>
専門の占い師が、獣の肩甲骨や亀の腹甲にできるひび割れで神意を読みとり、その結果を文字で刻んだ。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、79頁~80頁)
第4章 東アジア世界1東アジアにめばえた文明
【諸子百家の群像】
春秋戦国時代の激動は、政治や社会のあり方をめぐる多彩な思想をよびおこし、諸子百家とよばれる思想家たちがあらわれた。
春秋時代末期の魯の思想家で、儒家の祖となった孔子(前551ごろ~前479)は、家族道徳(孝)の実行を重視し、為政者にも仁徳をもって統治することを求めた(徳治主義)。『論語』は、孔子とその弟子の言行を編集したものである。孔子の思想を受けた孟子(前372ごろ~前289ごろ)は、上古には行われたという善政(王道)を理想とし、生来の善なる心をのばすべきとする性善説の立場から、力による政治(覇道)を批判したが、荀子(前298ごろ~前235ごろ)は、人は生来悪となりやすいので礼をもって導かなければならないとする性悪説の立場から、君主による民の教化を容認した。商鞅(?~前338)や韓非(?~前233)などの法家は、法律による統治(法治主義)を説き、秦の強国化に貢献した。これに対して、墨子(前480ごろ~前390ごろ)を祖とする墨家は、博愛主義(兼愛)や絶対平和(非攻)を主張し、老子や荘子(前4世紀ごろ)などの道家は、あるがままの自然に宇宙の原理(道)を求めて、政治を人為的なものとして否定した(無為自然)。また、兵家(兵法家)の孫子や呉子(呉起)、外交術を駆使した縦横家の蘇秦(?~前317)や張儀(?~前309)、陰陽五行説を唱えた陰陽家の鄒衍(前305~前240)、また論理学派である名家の公孫竜(前4世紀~前3世紀ごろ)、新しい農業技術を普及させた農家なども登場し、時代の要請にこたえた。この時代に編集された文学作品として、周の王室の儀式の歌と黄河流域の民謡を集めた『詩経』、楚の詩人屈原(前340~前278)の詩や長江流域の詩歌を集めた『楚辞』があり、それぞれ華北と華中・江南の風土が反映されている。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
〇漢代の文化
漢代には、五経などの儒教の経典が新たに編集され、後漢の鄭玄(127~200)らによる字句の解釈をめぐる学問(訓詁学)が発達した。漢王朝の正統化のために史書の編集が奨励され、前漢の司馬遷(前145ごろ~前86ごろ)の『史記』と後漢の班固(32~92)の『漢書』は、のちの歴史書の模範となった。後漢期には、科学技術の面でも進歩がみられ、張衡(78~139)は天球儀や地震計を考案し、蔡倫(?~121ごろ)は紙の製法を大幅に改良した。また、官営工場を中心に精巧な絹織物、漆器、銅鏡がつくられ、その技術や製品は西方にも伝播した。この時代、海・陸両路による東西交渉が活発であり、仏教がインドから西域経由で中国に伝来したのは、後漢期のこととされる。
<『史記』と『漢書』>
・『史記』は上古から武帝期までの通史。『漢書』は前漢一代の歴史書であり、叙述の形式は、帝王や皇帝の年代記(本紀)と重要人物の伝記(列伝)で構成される紀伝体である。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
〇南北朝の文化
江南の呉と東晋、および南朝の四つの王朝が交替した六朝時代には、貴族が主導する六朝文化が花開いた。詩の陶潜(陶淵明、365ごろ~427)、書の王羲之(307ごろ~365ごろ)、絵画の顧愷之(344ごろ405ごろ)らがこれを代表し、散文では、四六駢儷体という華麗な文章が好まれた。梁の昭明太子(501~531)が編集した『文選』は、古来のすぐれた詩文を集めたもので、日本文化にも大きな影響を与えた。貴族の間では、「竹林の七賢」の言行にみられる清談がもてはやされ、老荘思想が歓迎された。これに対して北朝では、北魏の歴史地理書『水経注』や農業技術書『斉民要術』のような、現実的で実用的な文化が開花した。
仏教は、南北朝時代の社会不安のなかで、中華文明の世界に根をおろした。華北では、五胡十六国時代に西域の亀茲(クチャ)出身の仏図澄(ぶっとちょう、ブドチンガ ?~348)や鳩摩羅什(くまらじゅう、クマラジーヴァ、344~413)らが布教に努め、身分を問わず平安を願う多くの人々に受けいれられた。江南では、インドにおもむいた東晋の求法僧法顕(337ごろ~422ごろ)の活躍もあって、老荘思想をとおして理解され、貴族の間に流行し、南朝の首都の建康には仏寺が林立した。北魏で国教とされたのは、寇謙之(363~448)によって大成された道教であったが、やがて仏教が国家の庇護を受けることになり、首都洛陽を中心に多くの寺が建立された。敦煌(甘粛省)の石窟寺院の造営は、五胡十六国時代にはじまり、北魏の雲崗(山西省大同市の西郊)・竜門(洛陽市の南郊)をへて、のちの時代に受けつがれた。
<法顕>
・法顕は、399年に長安を出発して陸路インドに入り、海路シンハラ(現在のスリランカ)をへて412年に帰国し、『仏国記』(法顕伝)を著した。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
〇唐代の社会と文化
唐の中ごろから、農業生産が一段と発展した。華北では、冬小麦を裏作とする二毛作が普及した江南では、水稲栽培の技術も向上し、水田地帯はさらに南方に広がった。水陸の交通網は一段と整備され、都市間の物資流通が充実した。また、首都長安の市(西市・東市)のように、都城内の一定の区域に限定されてはいたが、各種の商店や手工業の工房も繁栄した。対外交易も発展し、西域経由の東西貿易が安定したほか、広州や泉州を中心に南海貿易もさかんになり、やがて広州には国家が貿易を管理する市舶司が設置され、アラビアやペルシアのムスリム商人の来航も多くなった。こうして首都長安は、東西の人々の行きかう国際都市となった。
経済の発展に支えられて文化も栄えた。唐代の文化の特色は、華北と江南の文化が融合した点にあったが、同時に東西交易の盛況を背景として国際色豊かであった。儒教は、国家の保護を受け、支配者層の必須の教養科目となった。科挙の試験科目となったこともあって、経典類の編集・研究がすすみ、孔穎達(574~648)らによる欽定の注釈書『五経正義』が編集された。文学では、六朝時代の形式美がすたれ、韓愈(韓退之、768~824)や柳宗元(773~819)らは古文の尊重を唱えた。また科挙で詩賦が重視されたこともあって、唐詩が隆盛し、李白(701~762)・杜甫(712~770)・王維(701ごろ~761)・白居易(白楽天、772~846)らの詩人が活躍した。
美術では、書の褚遂良(596~658)・顔真卿(709~786ごろ)、絵の閻立本(?~673)・呉道玄(8世紀)らが出た。絵画の題材には山水が好まれ、水墨の技法による山水画が発達した。工芸では、唐三彩で知られる陶器に特色があらわれた。
宗教では、仏教が前代につづいて発展した。玄奘(600ごろ~664)や義浄(635~713)らのように仏典を求めてインドにおもむく僧も多く、仏典の漢訳と教理の研究もすすんだが、浄土宗や禅宗などの新しい宗派が誕生し、最澄(767~822)や空海(774~835)が日本に伝えた天台宗と真言宗は、平安仏教に大きな影響を与えた。いっぽう、道教も帝室の保護のもとに発達し、民間には仏教以上に広まった。また西方諸国との交流がさかんになると、祆教(ゾロアスター教)・マニ教・回教(イスラーム教)・景教(ネストリウス派キリスト教)なども伝わり、それらの寺院も建てられた。
<玄奘と義浄>
・玄奘の行路は往復とも西域経由のルートであり、帰国後に『大唐西域記』を著して、中央アジアやインドの事情を伝えた。義浄は往復とも海路を使い、『南海寄帰内法伝』を著して、インドや東南アジアの状況を報告した。
<コラム「木簡から紙へ」>
春秋戦国の時代になると、官僚制度が整って行政文書が飛びかうようになり、また諸子百家などの各種の書物が流布するようになった。この事情に応じて、戦国時代のころから、一般の書物から行政文書にいたるまで、うすくけずった木や竹の札が、広く、大量に使用されるようになった。
これらの木簡や竹簡では、墨で文字が書かれ、書きそんじたら小刀でけずって訂正された。役人たちが「刀筆の吏」とよばれたのはこのためである。いく枚かの札でまとまりがつくと、それらを縦にならべて2~3本の糸で横に綴る。その姿が「冊」であり、これを巻くと「巻」になる。こうして形をなした書冊を何度も繙くと、綴り糸が切れることもおこる。「韋編(いへん、綴り糸)三絶」とは、よく勉強したという意味である。
ぼろ布や亜麻の繊維などをすいてつくられる紙は、後漢の宦官、蔡倫の発明とされる。しかし、粗製ながらも前漢期の紙が発見されており、文献にも、蔡倫より以前の紙の記録がある。たしかに紙は、後漢時代から急速に普及していった。しかし、それ以降にあっても、木簡や竹簡が紙とならんで使用されつづけた。近年、つぎつぎと発掘・発見される大量の木簡は、戦国末期から三国時代にまでいたっている。
751年、タラス河畔の戦いで唐軍がやぶれたとき、製紙技術者が捕虜となり、製紙法は西方に伝わったともいわれている。バグダードには製紙工場がつくられ、その後、エジプトからアフリカ北部沿岸をへて、12世紀半ばにイベリア半島に伝わった。この間に改良を重ねながら、製紙法がヨーロッパ各地へと普及していったのは、13世紀以降のことである。
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
中国文化史の記述(唐代まで)~『詳説世界史』(山川出版社)より
「第2章アジア・アメリカの古代文明」の「3中国の古典文明」
【中国文明の発生】
前6000年頃までに、黄河の流域ではアワなどの雑穀を中心として、また長江の流域では稲を中心として、粗放な農耕が始まっていた。前5千年紀には、気候の温暖化とともに農耕技術も発展し、数百人規模の村落がうまれてきた。黄河中流域では、彩文土器(彩陶)を特色とする仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化が有名であり、長江中・下流域でも、同じ頃に人工的な水田施設をともなう集落がつくられていたことが、明らかになっている。
前3千年紀には、これら地域間の交流はしだいに緊密化した。黄河下流域を中心に、南は長江中・下流域、北は遼東半島にいたるまで分布する黒色磨研土器(黒陶)はそれを示すものである(竜山(りゅうざん、ロンシャン)文化)。交流にともなう集団相互の争いは、それぞれの地域で政治的統合をうながした。この時期の遺跡にみられる大量の武器や戦争犠牲者の埋葬跡、また集団作業で土をつき固めた城壁や支配層の巨大な墓は、政治権力の集中と階層差の拡大を反映している。
【初期王朝の形成】
(前略)
現在確認できる最古の王朝は、夏につづいておこったとされる殷(商、前16世紀頃~前11世紀頃)である。20世紀初めの殷墟(河南省安陽市)の発掘によって、甲骨文字を刻んだ大量の亀甲・獣骨や、多数の人畜を殉葬された王墓および大きな宮殿跡が発見され、殷王朝が前2千年紀に実在したことがはっきりと証明された。
殷王朝は、多数の氏族集団が連合し、王都のもとに多くの邑(ゆう、城郭都市)が従属する形で成り立った国家であった。殷王が直接統治する範囲は限られていたが、王は盛大に神の祭りをおこない、また神意を占って農事・戦争などおもな国事をすべて決定し、強大な宗教的権威によって多数の邑を支配した。現在の漢字のもとである甲骨文字はその占いの記録に使われたものであり、複雑な文様をもつ青銅器の多くも祭祀用の酒器や食器であった。
(下略)
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、66頁~68頁)
【春秋・戦国時代の社会変動と新思想】
(前略)
戦争の続く時代のなかで、人々は新しい社会秩序のあり方を模索した。また、独創的な主張によって君主に認められる機会も多かった。その結果、春秋・戦国時代には多様な新思想がうまれ、諸子百家と総称される多くの思想家や学派が登場した。
諸子百家のなかで後世にもっとも大きな影響を与えたのは、春秋時代末期の人、孔子(前551頃~前479)を祖とする儒家の思想である。孔子は、親に対する「孝」といったもっとも身近な家族道徳を社会秩序の基本におき、家族内の親子兄弟のあいだのけじめと愛情を広く天下におよぼしていけば、理想的な社会秩序が実現できるとした。孔子の言行はのちに『論語』としてまとめられ、その思想は、万人のもつ血縁的愛情を重視する性善説の孟子(前372頃~前289頃)や、礼による規律維持を強調する性悪説の荀子(前298頃~前235頃)など、戦国時代の儒家たちによって受け継がれた。
その他、血縁をこえた無差別の愛(兼愛)を説く墨子(前480頃~前390頃)の学派(墨家)、あるがままの状態にさからわず(無為自然)すべての根源である「道」への合一を求める老子(生没年不明)・荘子(前4世紀)の道家、強大な権力をもつ君主が法と策略により国家の統治をおこなうべきだとする商鞅(?~前338)・韓非(?~前233)・李斯(?~前208)らの法家などがあり、いずれもその後の中国社会思想の重要な源となっている。さらに論理学を説いた名家、兵法を講じた兵家(孫子)、外交策を講じた縦横家(蘇秦・張儀)、天体の運行と人間生活の関係を説いた陰陽家、農業技術を論じた農家など多様な分野で思想・学問の基礎が築かれた。『詩経』『春秋』など儒家の経典をはじめとする諸子百家の文献に加えて、『楚辞』などの文学作品もまとめられた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、70頁)
【漢代の社会と文化】
(前略)
漢代の初めには法家や道家の思想が力をもったが、武帝の時代には、董仲舒(前176頃~前104頃)の提案により儒学が官学とされ、礼と徳の思想による社会秩序の安定化がめざされた。儒学の主要な経典として五経が定められ、とくに後漢の時代には、鄭玄(127~200)らの学者により、経典の字句解釈を重んずる訓詁学が発展して、経典の詳しい注釈書がつくられた。
当時の書物はおもに竹簡に書かれていたが、後漢の時代に製紙技術が改良されて紙がしだいに普及した。文字は、今日の漢字と大差のない隷書に統一され、辞書もつくられた。漢代以前の歴史をわれわれに伝えるもっとも重要な書物は、武帝の時期の人、司馬遷(前145頃~前86頃)がまとめた『史記』で、太古から武帝期にいたる歴史を紀伝体で叙述し、個性ある人物群をとおして動乱の時代をいきいきと描いている。『史記』とそれにつづく後漢の班固(32~92)の『漢書』以後、紀伝体が中国の歴史書のもっとも基本的な形となった。
<紀伝体>
皇帝の事績(本紀)と功臣などの伝記(列伝)を中心に構成される歴史書の書き方をいう。これに対し、年月順に記すものを編年体という。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、73頁~74頁)
【魏晋南北朝の文化】
魏晋南北朝の動乱時代は、国家の統制も弱まり、多民族がまじりあう状況のなかで、多様な思想・文化が花開いた時期であった。仏教はすでに1世紀頃には西域から伝えられていたが、中国で広まったのは4世紀後半からである。仏図澄(?~348)や鳩摩羅什(344~413)は西域からやってきて華北での布教や仏典の翻訳に活躍し、法顕(337頃~422頃)は直接インドに行って仏教をおさめ、旅行記『仏国記』を著した。仏教の普及にともない、華北では多くの石窟寺院がつくられた。敦煌では粘土製の塑像と絵画により、北魏の時代から造営された雲崗・竜門では石像と石彫により、仏教の世界が表現された。華北では仏教は庶民にまで広まったが、江南では貴族の教養として受け入れられた。仏教の普及に刺激されて、この頃道教が成立した。道教は古くからの民間信仰と神仙思想に道家の説を取り入れてできたもので、道士の寇謙之(363~448)は教団をつくって北魏の太武帝に信任され、仏教と対抗して勢力をのばした。
当時の文化の一つの特色は、精神の自由さを重んずるということである。貴族のあいだでは、道徳や規範にしばられない趣味の世界が好まれた。魏・晋の時代には世俗を超越した清談が高尚なものとされ、文化人のあいだで流行した。文学では田園生活へのあこがれをうたう陶潜(陶淵明、365頃~427)や謝霊運(385~433)の詩が名高い。対句をもちいたはなやかな四六駢儷体が、この時期の特色ある文体であり、その名作は梁の昭明太子(501~531)の編纂した『文選』におさめられている。絵画では「女史箴図」の作者とされる顧愷之(344頃~405頃)、書では王羲之(307頃~365頃)が有名で、ともにその道の祖として尊ばれた。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、84頁~85頁)
【唐代の制度と文化】
(前略)
首都長安は、皇帝の住む宮城から南にのびる大通りを軸に各種の施設が東西対称に配される広大な計画都市で、東アジア各地域の首都建設のモデルとなった。長安には、周辺諸国からの朝貢使節・留学生や商人たちが集まり、仏教寺院や道教寺院のほか、キリスト教の一派の景教(ネストリウス派)や祆教(ゾロアスター教)・マニ教の寺院もつくられた。とくにササン朝の滅亡時には多くのイラン人が長安に移住し、ポロ競技などイラン系風俗が流行した。イラン系風俗の流行は、当時の絵画や唐三彩の陶器にも反映されている。外国人がその才能を見こまれて官僚に取り立てられることもあり、長安はアジア諸地域の人々を結びつける国際色豊かな都市であった。一方、海路中国にいたるアラブ・イラン系のムスリム商人も増え、揚州・広州など華中・華南の港町が発展した。
唐代には仏教が帝室・貴族の保護をうけて栄えた。玄奘や義浄はインドから経典をもち帰り、その後の仏教に大きな影響を与えた。もともと外来の宗教であった仏教はしだいに中国に根づき、浄土宗や禅宗など中国独特の特色ある宗派が形成されてきた。
科挙制度の整備にともない、漢代以来の訓詁学が改めて重視され、孔穎達(くようだつ、こうえいたつ, 574~648)らの『五経正義』がつくられた。また、科挙で詩作が重んじられたこともあり、李白(701~762)・杜甫(712~770)・白居易(772~846)らが独創的な詩風で名声を博した。唐代の中期からは、文化の各方面で、形式化してきた貴族趣味を脱し、個性的で力強い漢以前の手法に戻ろうとする気運がうまれてきた。韓愈(768~824)・柳宗元(773~819)の古文復興の主張、呉道玄(8世紀頃)の山水画、顔真卿(709~785頃)の書法などはそのさきがけといえる。
<玄奘>
玄奘は西域経由でインドに17年間にわたる旅行をおこない、仏教を深く学ぶとともにインド各地の仏跡を訪れた。インドからもち帰った大量の仏典をもとに、帰国後、大翻訳事業をおこない、中国の仏教学の水準を飛躍的に高めた。その旅行の記録である『大唐西域記』は、当時の西域・インドの状況を詳しく伝えている。
<顔真卿の書>
彼は従来の典雅な書風を一変させて、書道史上に一時期を画した。
(木村靖二ほか『詳説世界史 改訂版』山川出版社、2016年[2020年版]、89頁~90頁)
英文の記述~本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)より
福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』(東京書籍、2016年[2020年版])と村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』(講談社)との対応関係は、だいたい次のようになる。
【中国文化史】
〇黄河文明のあけぼの、邑制国家の誕生
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、78頁~80頁)
Dawn of the Huang He Civilization/Emergence of Village-Based States
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)
〇諸子百家の群像
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、81頁)
Brief description of a Hundred Schools of Thought
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)
〇漢代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、84頁)
Culture in the Han Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)
〇南北朝の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、86頁~87頁)
Culture in the Southern and Northern Dynasties
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)
〇唐代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、89頁~91頁)
Society and Culture of the Sui and Tang Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)
〇宋代の文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、177頁~178頁)
Culture of the Song Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、139頁~140頁)
〇元代の社会と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、184頁~185頁)
Society and Culture of the Yuan Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、144頁~145頁)
〇明代の思想と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、229頁)
Thoughts and Culture in the Ming Period
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、171頁)
〇清代の経済と文化
(福井憲彦、本村凌二ほか『世界史B』東京書籍、2016年[2020年版]、234頁~235頁)
Economy and Culture of the Qing Dynasty
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、176頁~177頁)
それでは、唐代までの文化史の記述をみてみよう。
中国文化史について
〇Chapter 4:The East Asian World 1 Civilization Growth in East Asia
■Dawn of the Huang He Civilization
North China or the drainage area of the Huang He (Yellow River, 黄河) is located in the northern part of the Huai River-Qin Mountains line. The area, which belong to the subarctic and temperate zones, is very dry, has rain only in summer. There lies a thick loess (黄土) which the monsoons brought from the Mongolian plateau. Loess tend to develop in very rich soils which is suitable for agriculture. In the loess area, it was possible to raise foxtail millet, proso millet or other crops if only by conserving water and preventing its waste, and with simple agricultural tools of stone or wood.
Mid-China, the drainage area of the Changjiang River (長江), which is located to the south of the Huai River, has a cool or warm temperate climate. There are glossy-leaved forests and lakes. The area was wet and the humidity was high. Old and original culture
developed in some of the area. In the lower reaches of the Changjiang River (Jiangnam),
Neolithic cultures developed in about 5000 BC, and rice is found to have been cultivated.
However, since higher technologies were required for the further development of rice
farming, it was difficult to make paddy field with primitive tools, so that the cultures in the Changjiang River basin were not able to develop into a unified culture.
On the other hand, there were Neolithic cultures in North China in 6000 BC. In wide
area of the Huang He, the cultures, which raised crops and livestock such as pigs and dogs,
developed. Villages of pit-dwellings (semi basement type) were formed. This agricultural
civilization, which the beginning of the Huang He civilization (黄河文明) was divided into two periods. The Yangshao culture (仰韶文化) emerged first in the period from 5000 BC to
3000 BC. Since bright color potteries were made during this period, this culture is also called the colored earthenware culture. The Yangshao culture was inherited by the Longshan culture (竜山文化), which emerged from 2900 BC to 2000 BC. A feature of the
Longshan culture was its grey pottery, which was rough but very practical, and black pottery, which was of good quality and finely polished.
■Emergence of Village-Based States
In the loess area, in early days, people could make villages only on plateaus which were
relatively safe from flood; this made it possible to use small rivers and springs. Therefore,
there were many small villages (邑) in the middle and the lower reaches of the Huang He.
The villages were run on a clan system as a community. In the end of the Longshan culture,
there also emerged city states (large cities) which ruled surrounding villages and constructed walls around the city. In this way, the Neolithic farming culture established a distinct form of civilization. Villages were connected to each other through military affairs
and trade. They were organized under the powerful city states. The Yin dynasty (殷, the Shang dynasty 商) is considered the oldest Chinese dynasty which was an alliance of states
(village states) formed under a larger village state, Shang, in about 1600 BC.
Huge tombs with burial pits were discovered in Yinxu (殷墟 Anyang, Henan), an archeological site of the late Yin dynasty. They contained skeletons of slaves or captives who seemed to be buried with their superiors. Animal bones and tortoise carapaces excavated from the tombs had oracles which were divined by the Yin Emperor in writing with oracle bone script (甲骨文字). This script was considered a prototype of Chinese characters (漢字). Through the oracle bone script, we can see the range of the Yin sovereignty and its unique political system. The Bronze Age (青銅器時代) started around this time; precise bronze ritual utensils of this period were found even in distant locations such as the Changjiang River basin or the Sichuan Basin.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、63頁~64頁)
〇諸子百家の群像
■Brief description of a Hundred Schools of Thought
The convulsion of the Spring and Autumn Period and Warring States period brought out
various thoughts on politics and society. Thinkers in this period called Hundred Schools of
Thought(諸子百家) emerged.
Confucius(孔子) was a thinker from the state of Lu in the end of the Spring and Autumn
Period who originated Confucianism(儒家). He made much of execution of family ethics (filial piety, xiao) and asked rulers to govern people with rende (perfect virtues and humanness). The Lunyu (論語 Analects) was the collection of saying and ideas attributed to Confucius and his followers. Mencius(孟子) was influenced by Confucianism. He thought the rule of right which was practiced in ancient China, was ideal. He asserted the innate goodness of the individual, and criticized the rule of power. Xunzi(荀子) believed that the nature of man is evil; his goodness is only acquired by training based on li (propriety). He allowed rulers to train people. The School of Law, such as Shang Yang(商鞅) and
Han Fei(韓非), said that rulers should rule people with laws (Legalism).
Legalism(法家) supported the states of Qin to be a strong state. Mo Jia(墨家) was originated by Mozi(墨子), and promoted philanthropy (impartial love ) and peace at any
price (condemning aggression). Taoists(道家) such as Laozi (Lao Tsu老子) and
Zhuangzi(荘子) sought the principle of the universe (way, tao) in the nature as it was and denied political movement as unnatural (inaction and spontaneity). Sunzi(孫子)
or Wuzi (呉子 Wuqi) created Bingjia (兵家 Bingfajia). Su Qin(蘇秦) and
Zhang Yi(張儀) were experts in strategy (diplomacy). Zou Yan(鄒衍) proposed yin-yang theory(the School of Naturalist) saying that universe consisted by yin-yang and the Five Phases (wuxing); namely wood, fire, earth, metal and water. Gong Sunlong(公孫竜)
was a member of the School of Logicians or School of Names. Agriculturalism, or the School of Agrarianism, introduced new agricultural technologies. All schools of thoughts were created by the demand of the times. Some of literary works were as follows. The Shijing (詩経 Classic of Poetry) was a collection of songs and poems from the ceremonies of the Zhou dynasty and from folk songs of the Huang He region. Words of the Ch’u
(楚辞) was a collection of poems by Qu Yuan(屈原) from Ch’u and of poems and songs of the Changjiang River basin. The former reflected the scenery and climate of North China; the latter reflected those of Middle China and Jiangnam.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、65頁~66頁)
Hundred Schools of Thought 諸子百家
儒家 Confucius 孔子
The Lunyu (Analects) 論語
Mencius 孟子
Xunzi 荀子
法家 Shang Yang 商鞅
Han Fei 韓非
墨家 Mozi 墨子
道家 Laozi (Lao Tsu) 老子
Zhuangzi 荘子
兵家(兵法家) Sunzi 孫子
Wuzi (Wuqi) 呉子
縦横家 Su Qin 蘇秦
Zhang Yi 張儀
陰陽五行 Zou Yan 鄒衍
Gong Sunlong 公孫竜
人と作品 Shijing 詩経
Qu Yuan 屈原
Words of the Ch’u 楚辞
地名・地域 the Changjiang River 長江
Jiangnam 江南
〇漢代の文化
Culture in the Han Period
In the Han period, the Five Classics (Wujing) and other Confucian Classics were newly
compiled. In the Later Han period Zheng Xuan (鄭玄) and others discussed interpretations of
Chinese letters and phrases and this movement developed to exegetics. Editing history
was encouraged to justify the Han dynasty. The Shiji (史記, “Historical Records”) by Sima Qian (司馬遷) of the Former Han period and Han-shu (漢書) by Ban Gu (班固) of the Later Han period became the
models of later history books. Scientific technologies progressed in the Later Han period.
Zhang Heng (張衡) invented armillary sphere and seismoscope. Cai Lun (蔡倫) greatly improved paper
making processes (紙の製法). Precise silk fabrics, lacquer ware and copper mirrors were produced
in government operated factories and elsewhere. Their technologies and products spread
even to the Western Regions. In this period, transportation between east and west became
active on both land and sea. It was said that Buddhism was officially introduced from India
through Western Regions to China in the Later Han period.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、69頁)
〇南北朝の文化
Culture in the Southern and Northern Dynasties
In the period of Six Dynasties, when the Wu and the Eastern Jin in Jiangnan, and four
dynasties of the Southern dynasties came to power in turn, the culture of the Six Dynasties,
led by nobles, blossomed. Tao Qian (Tao Yuanming, 陶淵明) of poetry, Wang Xizhi (王羲之) of calligraphy, Gu Kaizhi (顧愷之) of painting were among others. In prose, people preferred luxuriant writing called siliu pianliti (a Chinese style of composition with alternating lines of four and six characters to other styles). Zhaoming Crown Prince of the Liang dynasty compiled Wen Xuan, which
was an anthology of ancient Chinese poetry, and even influenced Japanese culture. Qingtan,
like the speech and behavior of the Seven Sages of the Bamboo Grove, became very
popular among nobles. They also hailed Taoism. In contrast, during the Northern dynasties,
Shuijingxhu, a book of commentaries on the waterways classic, and Qiminyaoshu, a book
on the Chinese agricultural teachings, of the North Wei, and other practical cultures,
flourished.
With the social unrest during the Southern and Northern dynasties period, Buddhism
took root in the Chinese cultures. In North China, during the Five Barbarians and Sixteen
Kingdoms period, Fotucheng (仏図澄, ブドチンガ) and Kumarajiva (鳩摩羅什, クマラジーヴァ) from Kucha (Quizi) in the Western Regions, endeavored to propagate Buddhism. It was accepted by
many people who had hoped for peace, regardless of their social rank. In Jiangnan, partly because of
missionary activities of Faxian (法顕), a dharma-seeking Buddhist monk of the Eastern Jin, who had
traveled to India, people in Jiangnan understood Buddhism through Taoism. Buddhism became popular
among nobles and many temples were constructed in Jainkan, the capital of the Southern
dynasties. In the Northern Wei, the Taoism (道教) propagated by Kon Qianzhi (寇謙之) became an official state religion. But eventually Buddhism became protected by the Northern Wei, and many
Buddhist temples were constructed in the capital of Luoyang and its surrounding area.
Construction of Buddhist stone-cave temples in Dunhuang (敦煌), Gansu Province, started in the
Five Barbarians and Sixteen Kingdoms period. Yungang (雲崗) caves (Datong City, Shanxi Province)
in the Northern Wei period and Longmen (竜門) caves (southern suburb of Luoyang City) followed
and the construction of Buddhist cave temples continued in later periods.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、71頁)
〇唐代の社会と文化
Society and Culture of the Tang Dynasty
From around the middle of the Tang dynasty, agriculture began to develop even
more. Double cropping system, in which winter wheat could be harvested during the off
season, was popularized in North China. In Jiangnan , technologies on wet rice cultivation
developed and paddy fields expanded further south. Transportation on land and water
developed further. Distribution of goods between cities became smooth. Some areas in the
capital Chang’an such as Markets (市) (the West Market and East Market), had various prospering
shops and handicraft workshops. Foreign trade developed. Through the Western Regions,
trade between east and west became stable. Guangzhou and Quanghou were the center
of trade between China and countries in the southern area. Eventually, state government-
controlled public offices managing maritime trade (shibosi) were placed in Guangzhou.
Many Muslim merchants from Arabia or Persia visited it and the capital Chang’an became
an international city.
Based on the development of economy, many fields of culture also became prosperous.
One of the features of the culture during the Tang dynasty period was a fusion of the
cultures of North China and Jianguan, but it was also an international culture against a
backdrop of the prosperous trade between east and west. Confucianism was protected by
the state and Confucian Classics became essential subjects for the Establishment. Editing
and study of the Classics advanced partly because Confucian Classics became the subjects
of the Imperial Examination. Officially authorized version of the annotated Correct
Meaning of Five Classics was edited by Kong Yingda and others. In literature, beauty of
form in the Six dynasties went out. Han Yu and Liu Zongyuan were the founders of the
classical prose movement. Poetry became an important subject of the Imperial Examination
and the Tang poetry prospered. Li Bai (李白), Du Fu (杜甫), Wang Wei (王維) and Bai Juyi
(白居易、白楽天) were all well known poets in the Tang dynasty.
In art, Chu Suiliang and Yan Zhenqing were leading calligraphers and Yan Liben and Wu
Daoxuan were famous artists. Landscapes were favorite subjects for artists and landscape
paintings with China ink wash painting techniques developed. In craft, ceramics such as a
famous three-colored painting (sancai) were distinguished in the Tang dynasty.
In religion, Buddhism developed in the same way as the previous Sui dynasty period.
Many monks such as Xuanzang (玄奘) and Yijing (義浄) went to India seeking for the texts of Buddhism. Chinese translations of the Buddhist scriptures and the studies of the Buddhist doctrines
advanced. New schools of Buddhism such as the Jodo sect and the Zen sect originated.
The Tendai and Shingon sects were transferred to Japan b Saicho and Kukai respectively.
Buddhism in China influenced Japanese Heian Buddhism to a significant extent. Taoism
also developed under the protection of the Tang dynasty and spread to become more
popular among people than Buddhism. When interaction with western countries became
active, Zoroastrianism (祆教、ゾロアスター教), Manichaeism (マニ教), Islam (回教、イスラム教), and Nestrorianism (景教、ネストリウム派キリスト教) were transferred to China
and their temples were constructed.
(本村凌二ほか『英語で読む高校世界史 Japanese high school textbook of the WORLD HISTORY』講談社、2017年[2018年版]、73頁~74頁)
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