今日は読んだ漫画の感想です。
長いのでお時間あるときにでもおつきあいいただければ幸いです。
ネタバレもしますので、ネタバレOKなかた推奨です。
先週の土曜日に突如、諸星大二郎氏の漫画「無面目・太公望伝」が浮かんだのでここ数日何度か読み返していました。
無面目・太公望伝は中編二つを一冊に収録した漫画なのですが、今回、改めて読み返したら以前はまったく気づかなかったことに気がついたりして、心に響いたのでした。

第1刷の発行は平成元年。
今から26年前に発売された単行本ですが、初めて買って読んだのは10年位前でした。
この漫画を初めて読んだときは、どちらかというと無面目の方の内容に感じるものがありインパクトもそちらが上だったのですが、今回は太公望伝がとても心にくるものがありました。
無面目と太公望伝。
古代中国を舞台にしている点では同じですが二つの話はそれぞれ個別で続き物ではありません。
ですが、今回最初から読み返してみるとこの二つが陰陽のようにお互い真逆の話だったんだと気がついて面白かったです。
無面目は天地開闢の前から存在している神・混沌が人になってみるお話です。
人間というものをやってみたくなり、人間となって自ら体験していきます。
その体験していく様がとても面白いのですが神であった混沌が、人そのものになりきったところで物語は終わります。
神なる混沌が真に人になること…それは死を迎えることでした。
当時初めて読み終えた時、頭が痛くなりました。
手塚治虫の火の鳥のような、輪廻転生、カルマ、宇宙や悠久の時が関わる壮大な物語を読むと、わたしはどこかへ飛んでいってぐるぐると目が回るような感覚に陥り頭がガンガンしたりします。
気が遠くなるような感じです。
無面目も初めて読んだ時はそういう感じがしました。
一方、太公望伝は、今回読んでみて一緒に旅をしている気分になりました。
以前は太公望伝を読んでも、あまりなにも感じなかったのですが…時が経ち再び読んでみると、なにか大切なことを教えられるような…そんな気持ちになりました。
太公望といえば、殷王朝を破った周の軍師です。
太公望伝は呂尚が文王に仕えるまでの半生がフィクションを交えて描かれています。
その中にこんなエピソードがあります。
呂尚が若い頃、餓死寸前のところで川で魚釣りをしながら竜を釣る夢を見ます。
そこで神に出会います。
名の知らぬ神。
その神は、川の神でも山の神でも天の神でもないと言います。
でもその存在は「ときとしては天の神以上にもなる」とも言います。
その謎の神のひとことひとことが、今回とても心に響きました。
腹ぺこで今にも死にそうな呂尚に謎の神は言います。
気をぬいてはいかん
たとえ鉤のない針でもエサがなくとも、全身全霊をこめて集中すれば 魚はおろか竜でも釣ることができるのじゃ!
りゅ…竜でも!?
そうじゃ
竿の先 糸の先に全身の気を集めるのじゃ
技術も力もいりはせぬ ただ魚を釣るというただそれだけのことを…純粋に…… 強く…… 念をこらすのじゃ
わしは お前の純粋に生きたいという気持ち 魚を求める心に応じて現れた
一点の濁りもない純粋な心でわしを求めるなら わしは時には天をも動かす
だが少しでも心に濁りがあるならどれほどの高位高官の者であろうとも 商の王であろうともわしにまみえることすらできぬ
純粋に……心を純粋にするのじゃ
一切の邪心も恐れも疑いもすべてすてて この大自然の中に身を投ずるのじゃ
りゅ…竜でも!?
そうじゃ
竿の先 糸の先に全身の気を集めるのじゃ
技術も力もいりはせぬ ただ魚を釣るというただそれだけのことを…純粋に…… 強く…… 念をこらすのじゃ
わしは お前の純粋に生きたいという気持ち 魚を求める心に応じて現れた
一点の濁りもない純粋な心でわしを求めるなら わしは時には天をも動かす
だが少しでも心に濁りがあるならどれほどの高位高官の者であろうとも 商の王であろうともわしにまみえることすらできぬ
純粋に……心を純粋にするのじゃ
一切の邪心も恐れも疑いもすべてすてて この大自然の中に身を投ずるのじゃ
どうじゃ海の中が見えてきたろう? 糸の先に宇宙を感じるじゃろう!
さあ 釣ってみろ 竜を!
そうして呂尚は巨大な竜を釣り上げます。
謎の神は「お前がこの気持ちを忘れずもう一度わしと会うことが出来たらその時はもっと大きな竜を釣ることができるだろう」と言って姿を消します。
その後呂尚は謎の神の正体が知りたくて四十年放浪を続けます。
若い時に見た夢を知りたいと追い求めて四十年…。
その様は見ていて辛くなります。
四十年の放浪をついにやめる際に言う台詞に泣きたくなります。
わしは馬鹿だ! 人の心もわからずに 世界をわかったつもりでいたのか!!
そうしてまたすべてを捨て、四十年を経て再び竜を釣った渭水のほとりへと戻ります。
以前のように釣り糸を川に垂らしながら自問自答の日々です。
四十年のわしの放浪は何のためだったのだろう…?
すべて無駄じゃったのか……
ではわしの一生はなんなのじゃ……?
ではわしの一生はなんなのじゃ……?
わしは何のために生きて… わしの人生の意味は何なのじゃ……?
そこから少しずつ呂尚は確信に迫っていきます。
それに呼応するかのように、呂尚の周りでは物事が大きく動き始める予兆を見せます。
呂尚が自分の心の中へと潜り、謎の神の正体の確信に迫っていくにつれ、すべての物事が、呂尚のためにまるでお膳立てていくかのように素晴らしいタイミングで積み重なっていきます。
その様は、太公望が文王と出会うという前提を知っている身としてはとてもワクワクします。
すべてがあの有名な出会いの瞬間に向かって収束していきます。
この物語を見ていると、なにかこう…物事を引き寄せるために必要な気持ちの持ち方を、呂尚の人生の悩みや苦しみという経験を通して一緒に学ばせてもらえるような気持ちになるのでした。
呂尚は「四十年のわしの放浪は一体何のためだったのだろう…?」と疑問に思います。
人の四十年はあまりにも長過ぎます。
でもその四十年という歳月は、まったく無駄ではなく必要な時間だったんですよね。
謎の神を追い求めていくなかで各地を転々とし地理を調べ、易の中にこそ神や世界の真実があるかもしれないと易を研究し学んできたことも、いずれ周を率いる軍師になるために、すべてが必要でなくてはならない経験に繋がっていました。
呂尚が放浪していた四十年という長期間ですが、その四十年の歳月には殷の勢力が弱まり、文王が国の力を蓄えていくためにも必要な期間でもあったんだな…と。
感動しますよね~。
なにも先には繋がらないように見えて、実はすべてに無駄がなく大切な経験だった…って。
そのことに励まされます。
その後ついに呂尚は謎の神と再び出会い、知りたかったことの全ての答えを知ります。
そして訪れる文王との出会い。
渭水のほとりで「釣れますかな、ご老人」と文王に尋ねられて、答えた呂尚の最高の言葉。
すべてはこのときのために。
もちろんこの後にも物語は続いていくでしょう。
呂尚は殷を倒し天下統一に貢献していくことになります。
でも、太公望伝は文王との出会いで終了です。
太公望伝を今回読んでみて、心の動きに呼応して現実世界が上手い具合に運んでいく様を漫画を通して教えてもらえたような気がして読後感がよかったです。
人間を続けるうちに、自分がなんであったのか、本当に思い出せず忘れてしまった神である無面目。
若き日に出会った神を求めて彷徨い、その正体を知った太公望。
この二つの話の対比がほんとに陰陽のようだなぁと思いました。
そしてこの本の収録順が、最初が無面目でその次に太公望伝というニクい順番であるというのも素敵です。
まるでわたしたち人間のことのようです。
今までの時代のわたしたちは無面目の話に出てくる混沌のようなものだったのだと思います。
でもこれからの時代は、太公望伝で描かれていたように、どんどん本当の自分に繋がっていく時代だと言われています。
だからこの収録順というのにすごくスッキリしたものを感じました。
太公望伝の中で「竜を釣る」ということが、「自分の中に潜む無限の可能性を釣り上げる」ことの比喩になっていることにも感動しました。
純粋に邪心も疑いもなく信じる心を持って集中する…
言葉で言うのは易し、行うは難し。
だからこそ太公望は四十年もそのために彷徨い続けていたのだと思います。
実はこの「集中すること」「明確に意図をすること」というのがわたしは苦手で、最近特にオラクルカードを通してもよく言われていたことでした。
でもオラクルカードでそのようなメッセージをもらっても、まったく素直になれなかったんですよね。
ですがこの本が急に読みたくなって読んでみたら、漫画の人物である呂尚を通して集中することの素晴らしさが語られていました。
漫画で読んだからこそ、その作り込まれたストーリーと一体となって、「集中する」というメッセージが心に入ってきたのでした。
求める答えに辿り着くのに、悩み、苦心し、少しずつ進んでゆく…という人間の姿がその物語の中にあったからこそ、オラクルカードでただメッセージとしてもらうよりも、自分の中で素直に受け入れられたのだと思います。
だからこの本だったのだなぁ…と読み終えて気づきました。
漫画や小説の素晴らしいところは、ひとつの物語を通して読者がその物語の中に一緒に入って体験できるような、感情移入できるところだと思います。
そこから勇気をもらったり、励まされたり、思いっきり泣いたり、考えさせられたり。
いや~、久しぶりに漫画を読んでスッキリしました。
