Harvest*

日々の中で感じたことや思ったことの記録

10月最後の夕日

2014-10-31 18:34:35 | 自然・花
今日で10月終わり。そして今日は上弦の月。

沈んでゆく夕日と、昇っていく月が近くに見えたので
交互に眺めたりしました。

海も穏やかな波でした。

ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、
ぎんぎんぎらぎら日が沈む~♪


本の中の好きな部分

2014-10-31 01:21:41 | 日記

萩尾望都さんのエッセイ集「一瞬と永遠と」を読んでいます。

その中に「私は生き物。同じ生き物。」というエッセイが載っていて。
萩尾さんがアフリカで動物たちの食物連鎖や自然な姿を毎日見つづけていたら、
体の中のバネがゆっくりとほどけていった、というお話なのですが、
そのエッセイがとても胸に響きました。
スーッと静かに染みていくようで、読んでいて心が洗われるようでした。
最後の一文に涙がホロリ。

胸に響いた部分を抜粋。

わたしもまた、ヌーやガゼルやサイやライオンと同じ、生き物だった。
四十億年の地球の進化の中で、空と大地が生きることを許してくれた、
この地上に生まれた生き物だった。

都会では、デパートではお金がなきゃいけない。
学校では、頭が良くなきゃいけない。
セレブな場所ではセンスがよくなきゃ、いけない。
自分で自分を締め付けて生きている。

でも、アフリカに来て、動物を見る。毎日見る。
ホテルに泊まっていても、サファリーカーに乗ってはいても、
草原と風が、皮膚から身体に染みていく。

私は空。私は風。私は大地。私は生き物。同じ生き物。許された、生き物。




今日は日が暮れる前からクッキリ月が見えて綺麗でした。


秋の陽気と読書

2014-10-25 21:33:49 | 日記


山の紅葉は見頃から終わりになって、
庭の木やら普段見かける並木などが紅葉してきました。
イチョウの木も黄緑色から黄色に変化している最中のよう。
イチョウは綺麗だけれど、銀杏の匂いは少し苦手です。

なんで銀杏って臭いんだろうと気になって調べてみたら
イチョウの木には雌株と雄株があって、
銀杏がなるのは雌株だけで、雄株は銀杏がならないから匂わないらしいです。
知らなかった~。
そんな匂いの関係上、街路樹に植えられているイチョウは
雄株で統一されているところもあるとか。

今日見たイチョウは匂ってたから雌株だったのかな。

タンブラーに温かいお茶を入れて、外で読書してきました。
借りてきた「めくらなやぎと眠る女」の短編集を読んでいたのですが、
こちらの本もいろいろな断片に奇妙な一致があって不思議です。

他の作家の作品でもそういうことはあるのですが、
村上春樹の作品はそういうシンクロが本当に多くて正直ゾッとするくらいです。
でもだからこそ本の中にあるなにかに引き付けられて、
今読んでいるのかもしれないです。

そんな感じで秋の陽気で読書を楽しめました。

死の受容のプロセス

2014-10-24 01:39:48 | 占星術
ちょっと長いですが、忘れないうちに書きたくて。

「受容」について調べていたら、エリザベス・キューブラー=ロス女史(精神科医 1926-2004年)の「死の受容プロセス」というのに行き着きました。

海外の医療ドラマでたまにその光景を見かけたことはありましたが、きちんと文章で読んでみたのは初めてでした。

Wikipediaより抜粋。

・否認
自分が死ぬということは嘘ではないのかと疑う段階である。

・怒り
なぜ自分が死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階である。

・取引
なんとか死なずにすむように取引をしようと試みる段階である。
何かにすがろうという心理状態である。

・抑うつ
なにもできなくなる段階である。

・受容
最終的に自分が死に行くことを受け入れる段階である。


最後の受容に至るまで、なんやかんやと心の動きがあって、最終的に受容に行き着く…。

水星逆行でいろいろと影響を受けたこともあり、今年に入ってからじわじわと再び占星術に興味が湧いてきたので、自分でも少しだけ調べてみたのですが、見れば見る程ホロスコーブは落ち込みます。

実は4年以上前あたりにも、一度占星術に興味を持ちだしたことがあって、ホロスコープを本に照らし合わせていろいろ見たことがありました。

で、その当時もいろいろな良いことを打ち消し合うかのような残念な感じの配置具合にかなりショックを受けたことがありました。

ボロクソなことしか書かれていないからです。いいとこなし。

で、そのとき思ったのが「は?星?占星術?こんなもの、クソくらえだ!」でした。

いやいや、認めないー!こんな生まれなど認めないー!と。

死の受容プロセスじゃないけれど、「否認」と「怒り」の段階です。

こんなの知らない方が幸せだったじゃないか…と当時はかなり凹みました。

とはいうものの、なんだかこんな生まれの書かれように腹が立ったわたしは、
それ以降占いではなく、心の癒しのあるセラピーや心理学の方面に心惹かれるようになりました。

ある意味その出来事が原動力となって今があるから良いのかもしれませんが…。

占い以外のものをあれこれと試す、これがある意味死の受容で言ったら「取引」の段階かもしれないなぁと。

でも当時はそこでストップしてしまいました。

受容までには至らず、ホロスコープで見たことに関しては思考を停止させて数年経ちました。

それが、だんだんと今年に入り体の感覚が星の動きに左右されているのに気がつき始めてから、星の動きが気になるようになりました。

そして、また再び自分で理解できる範囲で自分の生まれのホロスコープをじっくり見てみました。

で、再び調べてみてもやっぱりガッカリするようなことが多くて落ち込みます。

このまま生きていても、どうなんだろう?と思いたくなります。

今回は「否認」も「怒り」もやってきませんでした。

その段階は4年以上前に通り過ぎたようで、
その次の「取引」の段階も、セラピーに行ってみたり、習ってみたりしてあれこれ試して通り過ぎたのかそれも起こりませんでした。

そのかわり、「抑うつ」の段階がやってきました。

急激な無力感。

こんなくだらない星の巡りだったら、別に生きてなくていいんじゃないか?と。

で、しばらく机に突っ伏して「ああ~…(無常)」と虚空を見つめてほげー…っとしていたのですが、そうやっていたってただ時間が過ぎ去るのみ。

現状はなにも変わるものでもなく。

そこでついに「これも…もう受け入れるしかないんだな…」とようやく諦めがつき、静かに受け入れました。

受け入れる気持ちがハートに広がってゆくと、なぜか急にそれを活かしていく道があるはずだと前向きな気持ちがやってきました。

受容したら、不思議と落ち着いた気持ちになって新しい気持ちが芽生えました。

その時に、そうか、受け入れることでしか前に進めないこともあるんだな…と自分の心の動きに気がつきました。

それで「受容」について急に調べたくなって「死の受容プロセス」に辿り着くに至ります。

「死の受容プロセス」の文を読んだら、長年に渡ってわだかまっていたホロスコープや生まれに関する情報を受け入れる過程が、受容のプロセスそのものであったので、本当だ、面白いものだな~と呑気にそう思いました。

死に限らず、いろいろな心の動きでこの受容のプロセスは起こっているんだなぁ。

そのことがわかっただけでも、結構もうけものだったなぁ。

もうこれはしょうがない!

悔しいからそういう不運を含んだものも活かして生ききって寿命をまっとうしてやる~!
覚えてろ~!(誰に??)

そんな感じで受容したら不思議とガッツが湧いてきたのでした。

それに諦めて冷静になってみると、参考にする本や情報が一冊や二冊程度ではダメなんだな、とも気づいたのでした。

どうしてもその本や情報を書いた人のクセや特徴が文面に出てしまうので、同じ項目一つにしても、ひたすらネガティブなことを書く人もいれば、ネガティブなこともあってもそれだけではなくそれらをどう活かすかに触れてくれる人もいて千差万別でした。

そこからもっと沢山の人の考えに触れようと自然に思うようになれたこともよかった点です。

様々な見方がある中で、自分は体感としてどう感じどうするか、どう活かすかをもっと尊重していこうとも思えるようになったので、その点でも長い時間をかけて受容のプロセスを通過してよかったなぁと最後にはそう思えました~。


ジョロウグモの足のこと

2014-10-21 18:44:39 | 自然・花
相変わらず、夏以来うちの周りでジョロウグモたちが巣をはっています。
窓の近くに巣をはる一匹の大きなメスのジョロウグモを毎朝眺めては、
今日も生きてるなぁ…と生存確認しているのですが、
ある日、そのジョロウグモを見ると、足が一本なくなっていました。

前の日までは8本足がそろっていたのに、
一番大きな足の一つが欠けている。

うちの周りに巣を作る蜘蛛たちの足がみんなどこかしら欠けているので、
前にもそのことが気になったことがありました。
でもその時はそういう足が欠けている一族なのかもしれないな~と
自分の中で結論づけて納得したのでした。

が、やっぱり気になる。
どうして足がなくなるんだろう?

気になってきちんと調べてみると、蜘蛛の足が欠けているのは
自切(じせつ)という行動のためだとわかりました。

トカゲのしっぽ切りと同じ機能で、外敵から襲われたときなど
身を守る為に、足を切って生存率を上げるのだそうです。
メスのジョロウグモを巡ったオス同士の争いでも自切があるとか。

知らなかった~。先天的なものではなかったんだなぁ。
後天的に自切せざるを得ない状況に陥って足を切り離していたのか。

そう考えると、うちの周りで見かける蜘蛛たちに足の欠けが多いということは、
蜘蛛にとってはあまり住み心地のよい環境ではないのかもしれないなぁ。
他の自然の中で見かけるジョロウグモは丸々としていて
全部の足が欠けなく揃っていること多いので。

まあ、あまり恵まれた場所ではないかもしれませんが、
お互い頑張ろう~と勝手に蜘蛛にシンパシー。

「その言葉、そっくりそのままアナタに返すワ、アナタの方こそ頑張りなさいよ」
という雌のジョロウグモの声が聞こえてきそうです。

生き物が無心に生きている姿は励まされます。
そんな感じで、いつもの場所にいるジョロウグモが順調に獲物を捕まえ、
大きくなっていくのを毎日眺め続けていましたが、
今日、雨が降ったのを境にメスのジョロウグモはこつ然と姿を消してしまいました。

どこか雨の当たらない場所へ避難しているのか、
もう卵を生み終わって生涯を終えたのかはわかりませんが、
突然いなくなると、結構寂しいものです。

でもまた来年、この一族のものたちが孵化して
家の周りで巣を張るだろうと思っています。



今日は一日雨降りです。