変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




まだまだ続きますとも。

これでもか、とばかりにネタを振ってみる。

仏教は、なぜ西方に普及しなかったのか。東方では急速に影響力を
得たのに、中央アジア以西では相手にされていないと思う。
布教されなかった訳じゃないと聞いた。伝道師は欧州まで足を伸ばし
たんだそうだ。

根底に流れる文化の相違、ということなんだろう。

しかし、仏教には『現地化』(造語)という特色があると思う。地域や
文化人種に応じて、形態を変化(へんげ)させる能力があるのだ。
人によっては仏教を矛盾の塊と断ずるのも、この特色故のことだろう。
つまり、西方化された宗派ができあがってもよかった訳だ。

なぜそうならなかった?
根本的な文化の相違点って何だ?

おいらの中には、未だその答えはないけど、漠然とした思いはある。
【真理】と【意思】というものの捉え方が違うんじゃないか。
これが例えば、自然環境への働きかけの差として具現化したり、
哲学と宗教の境界線の違いとして現れているような気がする。

優劣の話では、全くない。

などと持論をかましてみても、やはりその人の反応はいまいちだった。

そこで、ちょっと分かった。
上っ面の知識や、自己満足的探求、そんなもんじゃないんだ。
高校生でも読めるようなレベルの本から得た程度の知識が、果たして
信仰心を醸成したか?
誰かを救えたか?
自分を幸せにしたか?

知識と考察、それは信仰とは異なった分野のことなんだね。

対象が神であれ、真理であれ、
どんな解釈をしたって、
経緯をいくら紐解いたって、

感謝し、許し、慈しむこと。

そんな心が芽生えるなら、それでいいじゃないか。

ということなのかな。
信じることによって、心を高められるのかもしれない。

怪しげな宗教が多いように思うが、それへの警戒心がおいらの
心を閉鎖的にしていたのかもしれない。

そうは言っても、おいらはやはり信仰心の希薄な人間であり、
変わりそうにないけど。

純粋なクリック。
    ↓
にほんブログ村 その他趣味ブログへ
にほんブログ村 その他日記ブログへ


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





----------------------------------------------------------
※当該記事の記載事項は、あくまでも筆者の個人的見解であり、
あらゆる宗教や宗派を非難したり推奨するものではありません。
----------------------------------------------------------
引き続き宗教談義。

日本の浄土真宗ってどうなのよ、ということらしい。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われる、という中世キリスト教の免罪符の
ような切り札的ご真言を持つ信仰。
やっぱり、これはズルいよね、というのがおいらの本音。しかしながら、
ウチの家系は浄土真宗なんです。。。
ということで、阿弥陀仏ってば、そんなに心の広い仏様なの? となった
訳だけども、ここで早くも話は脱線した。
『阿弥陀仏』という仏様がいる訳ではなくて、仏の一つの形態が阿弥陀仏
なんだと思っているおいら。ところがその人は、阿弥陀仏様という有難い
仏様がおられるとお考えの様子。その人の理解が正なら、西方宗教的に
仏教は「多神教」なんだろうね。
おいら的理解が正なら、違う。そもそも仏とは、『真理』を理解し、且つ、
伝えられる存在のことであって、その状態になることが「涅槃に入る」と
表現されることで、要は仏の境地に至るということだと思う。従って、仏
とは神ではなく、仏の境地という神の領域があるということで、こう考え
るなら、神は一つであるとも解釈できまいか。この論理が通るなら、仏教
は一神教に仲間入りする。
あるいは、仏教にとって絶対視されるのもは『真理』だけなのであって、
ブッタはそれを理解し伝えることができる存在としての仏である、という
解釈も成り立つ。この考えに立つと、『真理』を神と位置付けるなら、仏教
は一神教であり、ブッタを始めとする仏の境地に至った人は、預言者に近い
存在と考えられる。
または、『真理』とは人格も神格も感情もない冷徹な法則でしかないのだ
から、それは神ではない、という解釈も有り得る。こう考えれば、仏教は
無神教ということになる。

ここで再び、 へー、 という反応。

・・・・・。

続く。

クリックの真実。
    ↓
にほんブログ村 その他趣味ブログへ
にほんブログ村 その他日記ブログへ


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )