豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

縁起は無い

2014-08-17 12:33:22 | 日記
※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』

※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。

※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんにちは。

純粋な心と優しい気持ちでコミュニケーションできる皆様!


めっちゃ雨降ってますね。


さて今日も座禅1時間は無事に終わりましたよ。

どうも調子が悪くて、頻繁に妄想垂れ流しモードになっていました、笑

これは継続することが大事なので、また明日もやろう。

僕の理論では、2ヶ月毎日やったら何かしらの効果は出てくるものなのですよ!



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さて昨日は再びYくんと語り、また夜は南君と遊ぶというハードスケジュールでしたが、中々、楽しめました。

ゴソゴソストレッチとプラプラストレッチ体操をYくんに教わったよ。

あと教えてもらった下腹を鍛える筋トレを5回くらいしたのですが、今朝になったら筋肉痛になっている(爆笑)

普段、どれだけ使ってないのかが分かりますね。


Yくんとのお話は『伝えること』の重要さに行き着きました。

このブログを書いていたり、友達と話したりするときに、自分の概念が反映された言葉を一方的に伝えようとしてしまうので、伝わりません。

『無我』とか『真我』のように普段意識していない部分を伝えようとすれば、更に、日常生活とは違う困難さが出てきます。

自分自身が完全に理解していないことを人に伝えることはできません。


真我は、胸の奥にあるハートが元々在る全体意識と一体化した時に溢れ出る理解力。

唯一神との合一性を感じて、ここに、ある、全てが自分になってしまう状態ですね。

自分になってしまうというか自分だったということに気がつくことで、この全体意識が自分だと知ることです。

そうなると自分と相手などというものはいませんw

分離するものはなく、愛の大海の中に反映された、自作自演映画をただ楽しんでいる。

悟って大笑いしたとか言う人のは、この悟りのことを言っています。


また無我というのは、この愛の大海に反映された全体意識が、実際には個別意識であることを知り、この個別意識を無であると切り離すことです。

単純に言えば「自分がいなくなる」ことが無我です。

ここで一旦、至福である真我の世界から、実際にある個別的分離である、世界に帰ってこないといけません。

世界に帰ってきて、目の前にある現実を、生ききるのです!

ここが難しい。


この真我の話は、色々な情報が出ているので、どこかにヒットするのですが、無我のほうの話になると、真我の話と無我の話をキッチリ分けていかないといけないと思いました。

まあ概念的理解だけで、書こうとする問題もある。


さいきんのスピリチュアルの流れは、全体性との合一のところばかりに目がいきますが、この先に無があるわけです。

有と無が渾然一体となって、この世界を作り上げているわけですが、縁起によって有があるわけです。

無というのは、これに対して「縁起など無い」という意味です。

無明など無いということです。

禅宗などでは、これを「仏に会ったら仏を殺せ!」と過激に表現します。

この仏とは、自らの魂のことですよ。

つまり仏教は、宗教の至高者を否定しているわけです。

過激に表現すれば、神を超えて、更に、その全体意識すら、超えて行けと言っているわけです。

こうなることで六道輪廻の苦の世界から解脱するわけですね。

再び「どの世界にも」生まれなくなる。


なので、これは一切行苦の認識が無い人には不要の長物なのかもしれません。

絶望した人だけが、神に明け渡した人が、更に、この実在の自己自体を実在の中に消失させるという世にも恐ろしい話なのです、笑


というのは単なる僕の妄想なので、信頼性はゼロということは分かってもらえていると信じてます(ごめんw)