※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんばんは。
世界に光をもたらす聖者であられる皆様!
毎日、毎日、暑いですねえ。
今は、麻婆豆腐食べすぎて腹いっぱいの豊田です。
先ほどはYくんが遊びに来ていて仕事前の1時間をお話しました。
僕と千鶴さんにアイス2本もってきてくれた。
ありがとう!
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本日は、小池龍之介さんの本に付属していたCDで座禅1時間やったのですが、効果があったので、その話をしました。
久しぶりに録音したから「モゴモゴ」にしてくれるかもしれません(笑い)
何年も前に「アニメ英語でモゴモゴ」というラジオをYくんが作成していて、僕も、少しだけ話していたwwww
あとは悠聖くんを抱っこしてもらい、物語を3歳までに読み聞かせると天才になるらしいという話を聞きましたね。
浦嶋太郎とか桃太郎とか古事記とか、読み聞かせると、一生懸命頭を働かせるので良い影響があるらしいです。
だから読み聞かせ教室とかあるのかもしれないねえ。
起きてすぐは座禅して「バガヴァットギーター」の第3章を読んでいましたが、もう、これは自然な心をどう取り戻すか、そして、それをどう生きるかという話です。
雑念と憎しみ、想念と罪悪感をどのように排除して、聖なる白光を、無の透明性を心に定着させていくのかの方法論ですね。
難しいことが色々書いてありますが、要は、無為自然ということでしょう。
とどまる場所が「神」であっても「無」であっても「アートマン」であっても「仏」であっても「真我」であっても、それは単なる名称の違いです。
しかし、この名称に対して「知ったかぶりの大法螺吹き」である学者たちが「あーでもない、こーでもない」とブツブツ講釈を垂れるから可笑しくなる。
いまここに心をこめる。
あとはすべて神がめんどうを見てくれるのである。
それが良いか悪いかの判断をするのは、神なのである。
そして本心では何が善で何が悪かは誰もが知っているのであり、これが神の代理人である「良心」なのである。
この良心の覚醒は、いま感じられるすべてのものを感じることとされています。
これは心を感じることです。
憎しみに包まれた心に「愛」を差し込むことで、この不自然な苦しみは排除されていきます。
排除されるのは不自然な苦しみであって、本能的な痛みではないですが、これが離れていくことで、かなり無為自然になります。
方向性は皆、わかっているんです!
絶対に「真理」を理解できない人はひとりもいないのです。
シンプルなことなのです。
感覚と対象の接触により生ずる「快・不快」を無執着の聖剣で両断してしまうのです。
無執着の聖剣とは智慧のことです。
智慧とは「気をつける」ことです。
そして「気をつけることで気にしないこと」が無為自然であるのです、苦笑。
この聖戦による勝者は人生において絶対に神の加護を受けるのであります。
って、何か凄まじく宗教チックになってきたな、このブログwwww
ああ、そういえばさっきキリスト教関係の人がパンフレット配りに来ていた。
ここでひとつの絶対真理を書いておきましょう。
真理の『教え』は無料です!!!!
まあ今日も一日、行き切りましょう!
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あとは悠聖くんを抱っこしてもらい、物語を3歳までに読み聞かせると天才になるらしいという話を聞きましたね。
浦嶋太郎とか桃太郎とか古事記とか、読み聞かせると、一生懸命頭を働かせるので良い影響があるらしいです。
だから読み聞かせ教室とかあるのかもしれないねえ。
起きてすぐは座禅して「バガヴァットギーター」の第3章を読んでいましたが、もう、これは自然な心をどう取り戻すか、そして、それをどう生きるかという話です。
雑念と憎しみ、想念と罪悪感をどのように排除して、聖なる白光を、無の透明性を心に定着させていくのかの方法論ですね。
難しいことが色々書いてありますが、要は、無為自然ということでしょう。
とどまる場所が「神」であっても「無」であっても「アートマン」であっても「仏」であっても「真我」であっても、それは単なる名称の違いです。
しかし、この名称に対して「知ったかぶりの大法螺吹き」である学者たちが「あーでもない、こーでもない」とブツブツ講釈を垂れるから可笑しくなる。
いまここに心をこめる。
あとはすべて神がめんどうを見てくれるのである。
それが良いか悪いかの判断をするのは、神なのである。
そして本心では何が善で何が悪かは誰もが知っているのであり、これが神の代理人である「良心」なのである。
この良心の覚醒は、いま感じられるすべてのものを感じることとされています。
これは心を感じることです。
憎しみに包まれた心に「愛」を差し込むことで、この不自然な苦しみは排除されていきます。
排除されるのは不自然な苦しみであって、本能的な痛みではないですが、これが離れていくことで、かなり無為自然になります。
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シンプルなことなのです。
感覚と対象の接触により生ずる「快・不快」を無執着の聖剣で両断してしまうのです。
無執着の聖剣とは智慧のことです。
智慧とは「気をつける」ことです。
そして「気をつけることで気にしないこと」が無為自然であるのです、苦笑。
この聖戦による勝者は人生において絶対に神の加護を受けるのであります。
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ああ、そういえばさっきキリスト教関係の人がパンフレット配りに来ていた。
ここでひとつの絶対真理を書いておきましょう。
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