※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは。
貪欲に心乱されぬ「真理」を知る皆様!
悠聖の泣き声で14時ごろに起きてきました豊田です。
眠さに腹を立てて嫁様にブツブツ怒ってしまい、醜態を晒してしまいました。
もちろん嫁様は離乳食をあげて、ミルクも作って、洗濯もして、食器洗いや、その他、様々に義務である仕事をしてくれていたのです。
そこに単なる感覚欲である眠りの快を阻害されたからと怒ってしまう。
目覚めるのではなかったのか、だめまくんよ。
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嫁様が家から外へ行っている間に座禅を1時間しました。
途中で戻ってきてくれた。
ごめん!
座禅中は昨日もでしたが、妄想イメージが凄くなってきました。
凄くなってきたというか、気づく力が増えたので、妄想が切り離されて、どれほど連想世界に注意が引っ張られているかを知ってしまう。
ああ、昨日も1時間の座禅はしています。
書き忘れていたから、あとで確認できるように書いておくのです、苦笑。
そのあとで「バガヴァットギーター」の1・2章を読みました。
本当に素晴らしい!
この本は究極の1冊ですよ。
これほどシンプルで分かりやすく、しかも全てを著している本は僕は初めてです。
今まで、宗教や心理学、スピリチュアルに関する本は100冊近くは読んでいると思うし、一部は繰り返し何度も読んでいる。
その他にも、ブログやネットでの情報も合わせたり、直接、人から聞いたこともあるのですが、それも含めても、この本ほどに明確に著しているものはない。
智慧というのは、魂の臨在に気がつく力ですね。
気をつけることを怠ると、感覚の支配下におかれて、快・不快の激流に流されてしまって、欲望と怒りが生まれてくる。
迷いというのは正しい道を知らないことで、真理を見失うことである。
そして真理とは、物質世界は諸行無常の苦であり、自己の本性は不生不滅であると知ることである。
しかし、ここには文字表現上の矛盾が生まれている。
永遠の諸行無常が苦であるが故に、自己が失われて、不生不滅の「無」に気がつくことができるのだが、これを「自己」の本性と書いているわけですね。
この「無」と「自己」という言葉が混乱のもとである。
真我とは「自己の本性」という意味であり、無我とは「不生不滅の無」という意味であるのだが、これは知性で捉えたときに混乱する。
最終的に「私は在る」を物質外に投影していったもの(心)が無くなった状態が解脱なわけだが、感覚の元である透明意識「クリアライト」に、愛の大海に、または全体意識に、神に、宇宙意識に、この私は在るが残るのである。
最終的に「私は在る」が絶対に残るのであり、これが、真我、無我、どちらにとっても大障害となるわけですね。
真我は無我であるということが本来の意味であります。
が、禅定体験、つまり「いまここ」に投入された全体的理解、空と自分の目が1つになって、空が自分になっている体験が、よく「真我」と表現されているわけです。
もちろん、元々の意味は違ったのでしょうが、歴史の中で変遷して、この統一智に達した状態のことを悟り、もしくは真我実現とされています。
この状態は肉体は私ではなく心が私であるという状態です。
心身脱落の身の部分だけ開放されているのです。
そして、この開放された心が宇宙と一体化することで個我が消えたかのように錯覚させているのです。
これが魔境と言われるもので、僕が有頂天になってしまった「一時的な悟り」です。
この「一時的な悟り」の特徴は、生きることの放棄です。
生き切ることに、まあ、生きる義務に意味性を見出さなくなってしまう。
これでは人生は無意味ですと思うでしょう。
心が宇宙に開いた時に、酔いしれているのです。
言うなれば、神という最高の酒に酔っ払って記憶障害を起こしている。
これに対してグルジェフさんやラマナマハルシさんが示した本当の解脱は、心からの開放であるのです。
これが「無」とか「自己」という、広い範囲で捉えられる言葉で表されている。
私は誰か?
自己を想起せよ!
というメソッドの完成系はその反対側にあるのです。
私を問い続けると、それは消え。
自己を想起し続けると、それは浮かび上がるのです。
これを人類史上最高の師である仏陀は「無所有」の境地と表現したのである。
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは。
貪欲に心乱されぬ「真理」を知る皆様!
悠聖の泣き声で14時ごろに起きてきました豊田です。
眠さに腹を立てて嫁様にブツブツ怒ってしまい、醜態を晒してしまいました。
もちろん嫁様は離乳食をあげて、ミルクも作って、洗濯もして、食器洗いや、その他、様々に義務である仕事をしてくれていたのです。
そこに単なる感覚欲である眠りの快を阻害されたからと怒ってしまう。
目覚めるのではなかったのか、だめまくんよ。
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嫁様が家から外へ行っている間に座禅を1時間しました。
途中で戻ってきてくれた。
ごめん!
座禅中は昨日もでしたが、妄想イメージが凄くなってきました。
凄くなってきたというか、気づく力が増えたので、妄想が切り離されて、どれほど連想世界に注意が引っ張られているかを知ってしまう。
ああ、昨日も1時間の座禅はしています。
書き忘れていたから、あとで確認できるように書いておくのです、苦笑。
そのあとで「バガヴァットギーター」の1・2章を読みました。
本当に素晴らしい!
この本は究極の1冊ですよ。
これほどシンプルで分かりやすく、しかも全てを著している本は僕は初めてです。
今まで、宗教や心理学、スピリチュアルに関する本は100冊近くは読んでいると思うし、一部は繰り返し何度も読んでいる。
その他にも、ブログやネットでの情報も合わせたり、直接、人から聞いたこともあるのですが、それも含めても、この本ほどに明確に著しているものはない。
智慧というのは、魂の臨在に気がつく力ですね。
気をつけることを怠ると、感覚の支配下におかれて、快・不快の激流に流されてしまって、欲望と怒りが生まれてくる。
迷いというのは正しい道を知らないことで、真理を見失うことである。
そして真理とは、物質世界は諸行無常の苦であり、自己の本性は不生不滅であると知ることである。
しかし、ここには文字表現上の矛盾が生まれている。
永遠の諸行無常が苦であるが故に、自己が失われて、不生不滅の「無」に気がつくことができるのだが、これを「自己」の本性と書いているわけですね。
この「無」と「自己」という言葉が混乱のもとである。
真我とは「自己の本性」という意味であり、無我とは「不生不滅の無」という意味であるのだが、これは知性で捉えたときに混乱する。
最終的に「私は在る」を物質外に投影していったもの(心)が無くなった状態が解脱なわけだが、感覚の元である透明意識「クリアライト」に、愛の大海に、または全体意識に、神に、宇宙意識に、この私は在るが残るのである。
最終的に「私は在る」が絶対に残るのであり、これが、真我、無我、どちらにとっても大障害となるわけですね。
真我は無我であるということが本来の意味であります。
が、禅定体験、つまり「いまここ」に投入された全体的理解、空と自分の目が1つになって、空が自分になっている体験が、よく「真我」と表現されているわけです。
もちろん、元々の意味は違ったのでしょうが、歴史の中で変遷して、この統一智に達した状態のことを悟り、もしくは真我実現とされています。
この状態は肉体は私ではなく心が私であるという状態です。
心身脱落の身の部分だけ開放されているのです。
そして、この開放された心が宇宙と一体化することで個我が消えたかのように錯覚させているのです。
これが魔境と言われるもので、僕が有頂天になってしまった「一時的な悟り」です。
この「一時的な悟り」の特徴は、生きることの放棄です。
生き切ることに、まあ、生きる義務に意味性を見出さなくなってしまう。
これでは人生は無意味ですと思うでしょう。
心が宇宙に開いた時に、酔いしれているのです。
言うなれば、神という最高の酒に酔っ払って記憶障害を起こしている。
これに対してグルジェフさんやラマナマハルシさんが示した本当の解脱は、心からの開放であるのです。
これが「無」とか「自己」という、広い範囲で捉えられる言葉で表されている。
私は誰か?
自己を想起せよ!
というメソッドの完成系はその反対側にあるのです。
私を問い続けると、それは消え。
自己を想起し続けると、それは浮かび上がるのです。
これを人類史上最高の師である仏陀は「無所有」の境地と表現したのである。