※初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
※嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは!
この儚い瞬間を鋭敏に捉えて創造の奇蹟を楽しんでいる皆様!
めっちゃ寝ていました豊田です。
昨夜の0時ごろから断続的に14時半まで眠っていた。
今日からは19時45分出社の夜勤なので、大丈夫だけれど、
『バガヴァットギーター』によれば多眠はタマスの活動で、地獄への道らしい。
この世界で石とか鉄とか、まあ鉱物に生まれ変わるのが地獄かもしれないね。
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もしくは月に引っ張られていくと大王がいるらしいという伝説もある。
あるいは地球の内部にある地下空間や、ゴビ砂漠の上空のエーテル空間にも、何かあるらしいよ(笑い)
本当かどうかは知りませんが、怠惰(タマス)と貪り(ラジャス)は、避けないといけませんねえ。
しかし、まあ、人間の空想力というのは凄まじい。
さて、昨日は南君と電話で少し話して、ブログを書いてから勢和多気へ嫁様を迎えにいきました。
刺身や麻婆豆腐、豚肉とレタスのサラダ、トマト等々、いろいろとご馳走になる。
3時間ぐらいのんびりして、会話したり『阿含経』を読んだりして過ごしました。
家へ帰って片付けやらして、悠聖が寝付いてから『バガヴァットギーター』の読書。
途中から嫁様が携帯小説閲覧している横で朗読w
「そんなことない、そんなことない」と言っている千鶴大先生。
バチ当たるぞwwww
えーっと『バガヴァットギーター』はとんでもなく良いですよ。
行為の結果は神にささげなさいというのが、この教えの真髄ですね。
奉仕活動として人生の仕事を義務として行う。
なぜなら死ぬときは神が定めているのだから、どうしようもないのだ。
与えられた義務を公平無私の精神で、するわけですね。
アルジュナは大戦争で、家族親戚同士が殺しあうことに躊躇する。
この場面での、上のような話なわけです。
たとえ戦争で殺そうとも、それが、神への無私の奉仕活動であれば、罰されない。
と、クリシュナは言うのです。
もちろん私欲や怠惰が原因での行動、自己意思、他者意思からの利欲での行動、何も魂を感じることの無い単なる弱さから流される行動はこれではありません。
アルジュナは神の姿を見て、戦争に参加した人々が、その焔の口に次々と食べられていくのを見たのです!
数千万の口、手を持ち、すべての人間の胸(ハート)に宿る神は、ありとあらゆる人間活動を把握して、何もかも一切の面倒をみているのでありました。
「この神は物質の中にあるのでもなく、神の中に物質があるのでもない」と表現されています。
そして非顕現のブラフマンや、無数の神々、聖者たちが、その至高者の姿を一目見たいと憧れても、一度も見たことが無いと言われます。
なんともぶっ飛んだ話ですが、物語を読むと自然に引き込まれてしまいます。
このお話の中でも、瞑想や知識による理解、公平無私なる奉仕活動よりも、更に優れているのは「全身全霊で神である私を愛すること」となっており、キリストさんの教えていたことと共通していますね。
「仏になろうとするよりも仏であるほうが楽でいいわいのお」と江戸時代の禅僧が言ったそうですが、元々、神仏の住む社である肉体の、このハートの奥にある、真我が、怠惰と貪りという肉体から発生する快・不快に無頓着になる。
極端を否定して『宇宙一いい加減』になることが、無執着であり、頭の落ちることであり、神への信頼がそうさせるのであり、幸福への最短の道である。
快にも囚われず、不快にも囚われず、ただ目の前にある現実を生きている。
これは「肉欲と切望」と「神」との間に立っている人間の聖戦物語なのである!
ギーターを読んで、これは、マジに本当かもしれんと思ったww
※豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
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こんにちは!
この儚い瞬間を鋭敏に捉えて創造の奇蹟を楽しんでいる皆様!
めっちゃ寝ていました豊田です。
昨夜の0時ごろから断続的に14時半まで眠っていた。
今日からは19時45分出社の夜勤なので、大丈夫だけれど、
『バガヴァットギーター』によれば多眠はタマスの活動で、地獄への道らしい。
この世界で石とか鉄とか、まあ鉱物に生まれ変わるのが地獄かもしれないね。
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あるいは地球の内部にある地下空間や、ゴビ砂漠の上空のエーテル空間にも、何かあるらしいよ(笑い)
本当かどうかは知りませんが、怠惰(タマス)と貪り(ラジャス)は、避けないといけませんねえ。
しかし、まあ、人間の空想力というのは凄まじい。
さて、昨日は南君と電話で少し話して、ブログを書いてから勢和多気へ嫁様を迎えにいきました。
刺身や麻婆豆腐、豚肉とレタスのサラダ、トマト等々、いろいろとご馳走になる。
3時間ぐらいのんびりして、会話したり『阿含経』を読んだりして過ごしました。
家へ帰って片付けやらして、悠聖が寝付いてから『バガヴァットギーター』の読書。
途中から嫁様が携帯小説閲覧している横で朗読w
「そんなことない、そんなことない」と言っている千鶴大先生。
バチ当たるぞwwww
えーっと『バガヴァットギーター』はとんでもなく良いですよ。
行為の結果は神にささげなさいというのが、この教えの真髄ですね。
奉仕活動として人生の仕事を義務として行う。
なぜなら死ぬときは神が定めているのだから、どうしようもないのだ。
与えられた義務を公平無私の精神で、するわけですね。
アルジュナは大戦争で、家族親戚同士が殺しあうことに躊躇する。
この場面での、上のような話なわけです。
たとえ戦争で殺そうとも、それが、神への無私の奉仕活動であれば、罰されない。
と、クリシュナは言うのです。
もちろん私欲や怠惰が原因での行動、自己意思、他者意思からの利欲での行動、何も魂を感じることの無い単なる弱さから流される行動はこれではありません。
アルジュナは神の姿を見て、戦争に参加した人々が、その焔の口に次々と食べられていくのを見たのです!
数千万の口、手を持ち、すべての人間の胸(ハート)に宿る神は、ありとあらゆる人間活動を把握して、何もかも一切の面倒をみているのでありました。
「この神は物質の中にあるのでもなく、神の中に物質があるのでもない」と表現されています。
そして非顕現のブラフマンや、無数の神々、聖者たちが、その至高者の姿を一目見たいと憧れても、一度も見たことが無いと言われます。
なんともぶっ飛んだ話ですが、物語を読むと自然に引き込まれてしまいます。
このお話の中でも、瞑想や知識による理解、公平無私なる奉仕活動よりも、更に優れているのは「全身全霊で神である私を愛すること」となっており、キリストさんの教えていたことと共通していますね。
「仏になろうとするよりも仏であるほうが楽でいいわいのお」と江戸時代の禅僧が言ったそうですが、元々、神仏の住む社である肉体の、このハートの奥にある、真我が、怠惰と貪りという肉体から発生する快・不快に無頓着になる。
極端を否定して『宇宙一いい加減』になることが、無執着であり、頭の落ちることであり、神への信頼がそうさせるのであり、幸福への最短の道である。
快にも囚われず、不快にも囚われず、ただ目の前にある現実を生きている。
これは「肉欲と切望」と「神」との間に立っている人間の聖戦物語なのである!
ギーターを読んで、これは、マジに本当かもしれんと思ったww