豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

感じる

2016-01-26 08:12:05 | 日記
おはようございます。

今朝は6時10分ごろに起床しました。

洗面を済ませて座禅40分です。

終わりがけに千鶴さんが起きてきて、姿勢の歪みやら、体を動かしていることを指摘する。

座禅を終えると読書。

新しい宇宙像は、永劫回帰の章。

時間がなくて、数ページだけです。

コーヒーとタバコも楽しみますが、外が寒いのなんの。

読み終えて、着替えを済ませて、出てきました。

悠聖は、まだ眠っていた。


さて、心と宗教のテーマ。

時間無さすぎなので、また一言です。

感じきって流している。

考えすぎない。

そうして寛いでいることが、一番だ!

ではではー。

気楽にね

2016-01-25 08:04:10 | 日記
おはようございます。

本日は6時ごろまで眠っていたのでスマホからです。

昨日、寝すぎた影響が、ここまで響くとは!

まあ、夜に、バックトゥザフィューチャー2を見たのも原因かもww

軽く洗面して即、座禅40分です。

モチベーションが落ちていて、最後の方で足が崩れたので直した。

初めて、自分で崩れたなあ。

座禅を終えて、読者は、新しい宇宙像です。

時間がないので数ページだけ、読みました。

永劫回帰の章。

まあ、時間の問題が、ここでもテーマです。

主観がなければ、時間は、存在しない。

朝食は、ご飯、味噌汁、焼き魚、めかぶ。

千鶴さんは、早く起きていた。

悠聖は、まだ寝ている。

で、食べてから、急いで着替えて、出てきました。

さて、心と宗教は、時間ないので、簡潔に。

考え過ぎずに、気楽にやる。

それが寛ぎだww

では、本日も最善の1日を!

バイバイ。

神秘に開くのである

2016-01-24 12:03:54 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

本日は9時ごろに起床しました。

ホントは4時ごろに起きるつもりだったのが、見事に熟睡してしまった、笑

昨夜はYくんが遊びに来てくれたので、みんなでゴビアンで食事して楽しめた。

昼間は会社でお世話になった人の送別会だったし、賑やかでいい日だったのだが、疲れていたようだ。

洗面はせずに、いきなり座禅です。

悠聖が最初だけ絡んで、抱き着いたり、ツンツンしていたが、飽きて何処かへ行った。



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淡々と座っていたのだが、どうもアラームが鳴らない、笑

いらんこと考えているから今日は時間が経つのが長く感じるのだろうなあと思っていた。

が、隣室から流れてくるラピュタの物語の進展がだいぶ進んでいる。

千鶴さんが「まだ座ってるの」みたいに来たので、目を開けたら1時間以上たっていた、笑

タイマーのセットをせずに座っていたようだ。

いつもの如く、空想の世界に入りまくっていて、自分の行動を忘れていたのだろう。


で、座禅を終えると読書です。

悠聖はラピュタを未だに見ていて、千鶴さんは途中で浅尾美和の出ている番組を見ていた。

鈴鹿のケーキ屋さんが紹介されていて「知ってる?」と聞かれたが、知らない。

煙草を吸ったり、コーヒーを飲んだりもする。

悠聖は、僕の後をつけてきて、灰皿持ってきたり、玄関を掃いたり、コーヒーカップを渡したりしてくれるww

もちろんタイミングなんて関係なくやっているのだが「偉いなあ」と褒める。

千鶴さんがバタートーストを2枚焼いてくれたので悠聖といただきます。


本の内容は、永劫回帰についてですね。

要するに、僕が1977年に生まれて、もし、うまく長生きして2058年まで生きたとする。

すると死んだ瞬間か、後に成ってかは諸説あるが、また同じ1977年に、同じ両親のもとに生まれてくるのだ。

何もかもが全く同じで、内的傾向だけが、変わっていく。

俄かには信じがたい話ですが、ウスペンスキーは大まじめで、この可能性について、また輪廻について語る。

もしも、僕が、この同じ人生を生きていたのなら、デジャブも簡単に説明が付くが、そうなると、何もかも一切の行為と感情が、こうなるとおりになっていることになり、非常に気に食わない!

昔から、運命論は大嫌いなのだ。

運命に沿ってすべてがあるというのなら、人間の進化も幻想に他ならない。


で、読書を終えると、着替えを済ませて、ブログの更新へ来たのでした。


さてさて心と宗教のテーマですね。

この宗教と言うのは圧倒的な感情的体験を伴っています。

何というのか、屋久島を登っていた人が、幻想的な雰囲気に飲まれて「ここからわたしは生まれてきた」と感じたという話を、その昔に聞いたことがありますが、そのように、自己がファンタジーの世界に開かれていき、自然、もしくは象徴が、言葉に出来ない感情を、開かせるのである。

それはまるで宇宙に投げ出されて、体が、その宇宙に拡張していくような感覚である。

自己の壁が、取り払われて、生き生きとした顕な感情が復活してくるのである。

それは、普段の喜怒哀楽の感情とは明らかに違う種類―神秘的な―状態である。

その、開かれる可能性は、見解の、観念の、強烈さの度合いによって、異なる。

子供や女性のように、感情が開かれやすいタイプの人たちは、より容易に感情が変性して、日常的に神秘とファンタジーを感得できる。

しかし、この場合『理性』は非常に弱いことがある。

直観的に、この感情体験の向こうにある『真我』もしくは『おおいなる何か』と接触する可能性は、大人の男性の方が圧倒的に可能性があると思われます。

ここには2段階があるのですね。

自己が世界に開かれる体験と、その次の、世界が、大いなる何かに吸収される体験です。

この後者の体験が、あって、初めて苦の幻が、分かるわけです。


ですから日常の中に全てがあるからと言って、普通の生活をしている人が、普通の意識の中で悟っていると言う意味ではありません。

最初から救われているが、そのことには気が付いていないのです。

それが全世界に開かれることで、また自己が手放されることで齎されるので宗教が必要なわけですね。


この体験は、非常に素晴らしい心理的な状態を作り出すので、人間の根本を揺さぶることは疑いありません。

同時に、自分の体験したものは、どのような書籍に書いてあることとも同じであると理解できます。

また、様々な宗教の書籍に目を通す際に、それが、ずれているか、真理をついているか、即座に分かるようになります。

疑いは残りません。

だれかに確認してもらう必要はないのです。


ただ、自分自身が問題なのであり、それを解決するのは、自己を解放することなのです。

何から解放するか?

『見解』であるのですが、それは別の言い方をすれば、物事の見方です。

普段のわたしたちは、自己を含めずに対象だけを見ているのです。

だから、この角度を自己も含めてみることで、ダブル視点の中心が生まれますね。

その中心は『見ている私』です。

その見ている私は、頭の斜め上か、首の後ろか、どちらかで感じられます。

その見ている意識が自我の正体なのです。

それを消すには、目の前の世界と自己を同時に見ながら、それに受動的であることが必要です。

それは禅定と言われている状態で、見る事、聞く事、等々が、それだけである状態なのです。


そうしておいて、そこに、不意に現れてくる、空想と否定的感情を切り離していく。

それらは自己の本体ではないのだ。

自己の様々な機能から解放されてくるに従って、この世界の神秘を体験する確率があがるが、最終的には『絶望』が契機に成る。

自己が忘れられる契機は、他にも可能性があるかもしれないが、僕の場合『絶望』であった。


とにかく、これらの宗教体験は、社会の全員が学ぶべきである。

戦争が2度と起こらない世界である核心が齎されるのは、宗教の教えの中にしかない。

つまり教育の中にしかないのである。


では!

千鶴さんが急かすので、椿大社へ参拝に行ってまいりまーす。

ばいばい。

想いを手放すことで、すべては現れる!

2016-01-23 11:10:05 | 日記
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おはようございます。

本日は9時ごろに起きてきたと思います。

千鶴さんにグチグチと文句を言う、いつもの悪い癖が出る。

お蔭で、またもや、彼女を怒らせてしまう。

いつも感謝しているのだが、眠いと、本能的に起こるww

うーむ、ダメ人間。

で、洗面をしながら、彼女を宥めて、謝ってから座禅40分です。



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妄念世界。

ぜんぜん集中できませんが、これは、いいことかもしれない。

というか問題が浮き彫りになるのは、解決の可能性があるのだ。

問題が見えないのが、普段の一番の危険性なのである。

座禅を終えると読書ですね。

新しい宇宙像は永劫回帰の章に入っている。

これは、非常に興味深い。

僕がよく主張するデジャブに関して、解説している。

今でも頻繁に、ここに僕はいたことがあると感じることがある。

1か月に1回くらいはある。

このことは、すべての運命が決まっていたかのようで面白くない。

何しろ、遠い昔に見た夢が、現実のリアルに出てくるのだ。


読書を終えると着替えを済ませて、ブログの更新へ来ました。

悠聖はラピュタを見たり、千鶴さんの顔に乗ったりしていた、笑


さて心と宗教のテーマです。

今日は時間が無いのでシンプルにいきます。

いまここは、永遠の時間のことです。

つまり、この瞬間と言う意味ではありません。

動きのことなのです。

それは別の言葉で言えば諸行無常であり『跡形もない』ということです。

その事実の世界を、フィーリングを通して感じる事で、思念の世界を抜ける。

そのようなことをしていると、世界が開かれるのだ。

世界が開かれると、自己と対象と分裂させていた認識が溶け去る。

そうなってくると、生き生きとした不思議な感覚が芽生えてくる。

まるで夢の世界、ファンタジーの世界に迷い込んだようだ。

そのような感覚の中であることが、日常なのである。

常に新たで新鮮で躍動した毎日、毎瞬を曇らせているのが「わたしのもの」という思いである。

想いを手放すことで、すべては現れる!


ほいでは、会社の送別会へ行ってきまーす。

ばいばい。

普通の社会にこそ宗教は必要とされている

2016-01-22 16:31:29 | 日記
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こんばんは。

本日は13時40分ごろに起きてきました。

千鶴さんが「まだ寝てるの」と呆れているので「起こしてよ」みたいに言ったら「18分に起こしたやん」と言う。

全く覚えていないw

千鶴さんは母親と一緒に耳鼻科へ行くようで、これ食べなよと散らし寿司やフライドチキンを見せる。

適当に返事して洗面をします。

のんびりしてから座禅40分ですね。



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今日はいつもより空想世界の広がりが酷くて、あっという間に時間が経った。

普段から、この調子であるのは明らかだが、全く抵抗できない。

連想世界の自動性に抵抗するためには、自分の意志がなければならない。

で、座禅を終えると読書ですね。

だれもいないので、ゆったりと読み進めていたが、途中で、千鶴さん達が帰ってくる。

耳鼻科へは、今朝、悠聖が鼻血をいっぱい出していたので行ったのだが「いじるで出るんやわ」と言われたらしいwwww

「それは分かるわあ」と笑っている千鶴さん。

一応、鼻にシュッシュッと何かを付けてもらったらしいが、それだけなのだから、心配しすぎた。

やたら血が出るので焦りまくって、怒鳴り散らしてしまったわたくしです……orz


で、ここから、いつもの悠聖遊びと千鶴さんのトークが炸裂してくる。

読みながら、途中で、ごはんも食べる。

散らし寿司とフライドチキンと鮭だったかな。

なんとか読み終えたのが16時20分ごろで、そこから慌てて更新に来ています。

新しい宇宙像の章やっと読み終わった。

とにかく、電子と量子と分子と原子の違いさえ分かっていない、この僕には厳しすぎるwwww

要するに、世界の大きさによって、それらは観察可能性を変えるということだろうな。

地球の世界と惑星の世界では全く、規模が違いすぎるので、あるものの観察結果も、空間も時間も、その様相を変える。

感情の世界が、この物理世界とは違うようなものだろう。


さてさて、心と宗教のテーマであります。

ここのところ、毎日、同じようなことになってきてしまいました、笑

普通に生活している人にこそ、この、宗教は適応されていくべきだと思います

様々な苦しみを排除することで、平和が生まれる。

たったそれだけのことなのだが、非常に難しいらしく、今まで、世界でほとんど達成されたことはない。

ある少数の個人が、かれの周囲に一時的に、そのような状態を構築し、それが伝統となって流れる。

しかし、言葉だけが残って、その実践面は、時代の変化についていけずに失われる。


今度も地域のお寺で薬師堂法要というイベントがあるのだが、それは、まあ、古代の呪術みたいな意味合いでしかないのだ(爆笑)

その昔、亀の甲羅を割った模様で、運勢を占ったらしいが、それと精神的に共通したものがある。

色々な運命が、好転するように、祈りをささげるわけだが、実質の、その効果に関しては、単なる信仰心があるだけである。

これでは催眠術のような詐欺と、変わらないではないか。

実質の効果として『お寺』『精舎』の果たしている役割は、何であろうか。

人間の精神に対して、いかなる社会的役割を果たしているのだろう。

僕たちが毎日暮らしている中で仏教の教えが救いになることは間違いないが、その、実質が生活に浸透するために『お寺』や『僧侶』の方々が果たしている役割は、極めて限定的であることは疑いない。

基本的に、普通に生きている人にとってのそれは『葬儀』と『法要』のためにある施設となっている。


うまくいっていないことは明らかだ。

もちろん先進的な一部の方々が、様々な書籍やメディアを通して仏典の解説をしている。

しかし、それは遠い向こうのことのようで、実質の今に、効果をもたらすには漠然としている。

心を清浄にすることで光明を見るとか、阿弥陀様の世界に手放ししよう等々。

毎日、疲れ果てて生活を送っている僕たちの精神が根本から改善されるには『自己』を問題としないといけない。

自分自身を解放する、そのための機関として機能しなくてはいけない。


解脱、もしくは悟りが、ただの理想となってはならないのだ。

それは、すべての人に開かれている可能性であって、そのための社会的基盤を、機能させなければならない。


では、本日はこのあたりで~。