豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

悟りの方法を解説しますw

2016-01-21 14:52:33 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

本日は11時半に起きてきました。

炬燵で寝ていたら、千鶴さんがギャーギャーと悠聖に怒っているのが煩くて、ついつい、要らん文句を言ってしまう。

ブチ切れた千鶴さんが「もう出ていくからねー」と……。

言い合いしながら歯磨きだけして布団で寝ていたが、妄想と胸騒ぎのエゴ快走が見事に走り出す、笑

とてもじゃないが寝ていられないので、起きてきて洗面する。

悠聖も千鶴さんもいないので不安になって外へ出ると洗濯物を干している千鶴さん。



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ごめん、ごめんといつものパターン。

悠聖は母親の家にいるようなので安心して座禅40分です。

左の頬と、両足の薬指の感覚がほとんどない、あと、意識すれば感じられるが腹から胸にかけての感覚が普段、まったく欠けている。

集中すると、そういう状況が確認できるが、蘇るまでには時間がかかりそうだ。

どこかが異常に成ると、それが全身に効果を及ぼしているように感じる。

普段の意識の置き方の癖のようなものがあり、それを外さない限り状況は変わらない。

で、座禅を終えると読書です。

だれもいなかったので、サクサク進んだ。

新しい宇宙像ですね。

えーっと、何やら角度の話が書いてありましたが、何が重要なのかさっぱり分からない。

要するに時間の次元の面しか感じられないのが、人間の問題点である。

そして、空を見ると面にしか感じられないが実際は奥行きが無限に広がっているが如く、時間と空間の関係性は、相対的に様々な状態で存在しているらしい。

①時計の短針の動き

②目視で動きと感じる動き

③鉄砲の玉のように、目視では確認できないが、それらの動きが分かる動き

④電子などのように、確認不可能だが、動きがある動き。

だったかなあ。

忘れたけど、取りあえず、相対的に、動いているもの同士の速度の差で時間が感じられるのかな?

理解できてなさそうだけどwwww

とにかく、物体の量やら、速度によって、空間と時間は変化する訳です。

なので、超巨大な太陽と、超微細な電子などは、全然違う時空間を3次元と理解している訳だ。

人間にとって存在しない空間と時間は6次元空間である。

って、うーん、どうも、分かってないので、理系得意な人は是非、この本を読んで僕に教えてください、笑


で、読書を終えてから千鶴さんや悠聖と会話を楽しんだり、絵本の付録のアンパンマンスマホを作ったり、遊び計画を立てたりしていた。

母親の家で卵ご飯とお味噌汁も食べる。

『牧歌の里』へ行ってみようと提案したら、スタッドレスタイヤじゃないと危ないと言う。

うーむと考えて、オートバックスで聞いて来ようと考えている。

で、ブログ更新していたら、母親が帰ってきて「ちょっと降ろすの手伝ってくれへん?」

聞いたらなんと「スタッドレスタイヤに換えてきてもらったわー」

ビンゴ!

なんとタイミングのいいことよ。

で、千鶴さんに母親の車で行けばいいと言ったら「だから、さっきから言ってるやん」と……。

え?

ぜんぜん、人の話を聞いてないのは、僕の得意技なのだったwwwww


それからブログの更新へ来ています。


さて、心と宗教のテーマですな。

人間の進化とかいうと、大袈裟ですが、ほんとに、進化ではなくて実際にある可能性の話なのですね。

普段無意識でいると忘れられることが、意識すると覚えていられるとかいう単純なことです。

で、人間の苦しみの最大は釈迦の指摘した『生老病死愛別離苦』でしょう。

これの原因が『僕はひとりで生きている』という考え方なのです。

実は、すべてが、繋がっていて、縁によってあるのです。

あなたとわたしと言う風に分かれていない。

あなたとわたしを含んだリアル世界が諸行無常に次々に現れては消えているのです。

そんな馬鹿な、俺の体は永遠に同じだと言えますか?

もしくは、俺の心は永遠に存在しますか?

それとも、俺のアイデアは対象なしに存在しているのだと言えますかね。

そんなことは有り得ません、必ず、これあるによってこれありから外れることは無し。

空間と時間に関しても、相対的に存在しているだけで、絶対的尺度のようなものがないのです。

それが空でありますね。

こっちで、これがあり、あっちであれがあるが、それらは明滅している。

有った瞬間に流れて無の中で在る。

その無の側が己であって有の側も己である。

どちらもが、即、同じ場所で、こう、永遠の動きを繰り返しているのだ。


では、常に失われていく、この世界で、生老病死に苦しんでいる根本煩悩は何なのか。

それは『自己中心の認識』である。

わたしという存在が耳目の裏側にいて、対象を見ていると言う、その意識の持ち方が、真理ではないのだ。

真理は、その対象だけがあるので、あって、耳目の働きの向こう側というのはない。

それは存在しないのだ。

もちろんイメージ、空想、感情、動作、性、本能などなどの人体の働きはある。

あるが、それは自己の管理下にはない!

それらは対象が明滅していくようにして、明滅している。

だから、そこに『こうであってほしい、わたしのもの』という執着を起こすと苦が生まれるのである。


これに対するには、自己を見てみる必要がある。

自己を意識の中に含んでいないので、自己と対象が分裂するのだ。

自己想起というのは、この自己を見ているのと、対象を見ているのを同時にすることである。

単純に言えば、時計の針を見ながら、自分の体を感じる等々のワークで、それを進展させていく。

だが、もちろん、人間は感覚だけで生きていない。

思考、感情、動作、本能、性の各中枢部と高次の思考、感情中枢がある。

これらはスピードで言うと、思考、動作、本能、感情、性、高次感情、高次思考という順序である。

だが、本能中枢と、感情中枢は変更し得る。

この本能と感情が変性することが、人間の進化なのであるがグルジェフさんは、それを単純に書いている。

『無欲が貪欲に勝利する』

この無欲が貪欲に勝利するということは、仏教でも、他の宗教でも同じである。

欲望はつまり、こうであってほしい、わたしのものである。

これらの、ことの、実践面での理解の進展は、いかに自己の存在の起点を見出すかと、そこへのリラクゼーションにかかっている。

緩める事、緩める事。


そして、考えすぎないことであり、感じることなのだ。

で、このような、様々な、ことを考えることなくして、人間の進化を為すには何が必要だろうか。

これは、つまり、もっとシンプルに表現すれば、自分自身でいることに寛いでいることである。

大いなる何かは、自分が手放された時に働くのだが、それは、非常に集中してリラックスした時に現れる。

だから座禅なのだが、座禅は伝統で、あって、そうでなくても現れる可能性はある。

集中してリラックスしていることなのだ。

リラックスモードが、どんどん入ってくることで、人は、あらゆる感性を研ぎ澄ますこともできる。


これを妨害するのが『眠り』と『ネガティブエモーション』だ。

連想と怒りである。

これらの活動は自動的に、起こってくるのだが、それもすべて、自己の働きではない。

ただ、離れていくことなのだ。

自分自身を寛がせる場所の感覚をつかんで、そこで、受け入れることだ。

その場所とは事実の世界であり、『世界に開く』ことが『悟りを開く』ことなのである。


んでは、このへんでー。

人間の進化の流れを解説します

2016-01-20 16:09:17 | 日記
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『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんばんは。

本日は13時10分ごろに起きてきました。

千鶴さんが楽しそうに電話をしている。

悠聖は何をしていたのか覚えていないが、テレビかゲームだろうか。

外を見ると一面、雪だ。

ちょっと興奮して「雪やん」みたいに言っていたが千鶴さんは電話に夢中だ。

Yくんからメッセージが入っていたので返信する。



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西隣に建設中の建物が何か気になった様子だった。

洗面をのんびりしているが、悠聖は、すぐに僕のあとをつけてくるw

歯磨きをしている時にオムツ交換が始まる。

気を引くためにテレビを点けてほしいと頼まれたので、リモコンをいじるが反応しない。

どうも調子が悪いと思っていたら、千鶴さんはさっさと点けていた。

洗面を終えると座禅です。

40分座っているが、まあ、落ち着きのない中、あっと言う間にいつも終わります。

普段のわたしたちは、本来の集中力の1パーセントも使っていないだろうと思われる。

ひとつひとつのことに集中出来たら、全く、生活は変更されるだろうが、難しい。

自動的に沸いてくる思念、否定的感情が、それを阻害するからだ。

これは訓練なしには、難しい。

悟りと、これは別物かもしれないが、これは、これで役に立つだろう。

で、座禅を終えると『新しい宇宙像』の読書です。

外で煙草とコーヒーも楽しみますが、寒い、寒い。

悠聖が出てきて、戯れるので、雪ダルマっぽいのを作ってあげた。

あとで千鶴さんは、もっとちゃんとしたのを作っていた。

で、何かのことで、いつもの僕の悪い癖で、千鶴さんに言わなくてもいいことをブツブツ批判的に言ってしまう。

この悪口の癖で、何度も、失敗しているのに直らない。

案の定、千鶴さんは暴れだして、あらゆるものを手に取って投げる。

もちろん、ある程度、手加減している。

しかし悠聖に当たってしまい、激怒するわたくし。

まあ、あれだ、結局、必要のないことをすると、悲惨なお返しが待っているのである。

しばらくして、千鶴さんに謝る。

あ、そうだ、柿ピーとピノも食べたかな。

悠聖にピノをあげていて、虫歯になるとか、なんとかで言い合いになったのだった。


本の内容は、相変わらずの『新しい宇宙像』です。

ここではパラレルワールドに関して書いてありますね。

すべての可能性が実現された世界を創造すると、それが時間の6次元空間になる。

5次元は、時間が、可能性を保持している垂直の『今』のことで、これは『いまここ』とか『永遠の今』と言える。

4次元は普段の平行に進展してく時間感覚の世界だ。

それは、ひとつの可能性の、進展の模様である。

それらの中に、3次元がある。

問題は、我々の認識では4次元までしか捉えられていないことだ。

そして、可能性が開かれる瞬間に無頓着であることから、同じような生活を延々と繰り返す。

その瞬間は自覚することでしか齎されないからだ。


で、読書を終えると、着替えを済ませる。

雪で寒いのでズボン下を穿いていこうとしたが、無いので千鶴さんに探してもらった。

そのあとでブログ更新へ来たのでした。

書いていたら、千鶴さんが悠聖を連れてやってきて、悠聖を見ると背中にアンパンマンの人形が入っているww

「見て見て」と喜んでいる千鶴さん……。

無邪気ですなあ!


さて心と宗教のテーマです。

では、具体的に、人間が進化するには、何が必要か。

それはまずもって、自己が自由であると言う幻想から目覚めることである。

自由であるのは、世界の側へ出た時だけで、普段の自己は、今までの心理的パターンに繋がれている。

それを外していくためには、自分が、今、どうあるかを見ることが必要である。

『自己観察』という有名な自覚の方法ですね。

そうすると自覚している意識が芽生えてきますね。

まあ自分を見ている認識です。

この認識が、自己を、ここに留めている根本の力であるわけです。

で、ここで、自己がパターン化していることをドンドンと知っていきます。

こうしたいと思っても、その通りにはなりません。

で、そのうちに、この認識している自分と言うのが邪魔になります。

なぜなら、この認識しているに、自分がくっついている限り、窮屈でしかたないからです。

もっとよく見ると、これは認識そのものではなく、その認識後に、己が判断することで苦が生まれていると分かります。

そうなった時に、この認識の中で、外部と内部を分けない必要性が感じられるのです。


そして、外部と内部の壁がなくなると不二ですね。

俺は宇宙の活動、そのものだったのだとなりますが、しかし、まだまだ問題は解決しません。

それが分かっても苦しいままです。

なぜなら、ここでは感情の問題、情緒の問題、社会の問題が解決されていないのです。

それは総じて『人間の問題』または『他者の存在の理解』と言えるでしょう。

他者の存在は、自己を持って接したときには分離してしまうので、不二ではありません。


ここを突破するには、否定的感情を利用しないといけないのです。

それが、まあ、煩悩を滅するということなのですね。

なぜ他者と自己が分離しているかというと、その間に自己の『見解』を立てているからなのです。

それが迷いです。

これらを捨てるには、こだわりを捨てないと難しいです。

すべては流れると感じることで、諸行無常の中で何かを握りしめない。

そうすることで、この他者の、つまり客体の存在こそが、自分だったと分かるわけです。

縁起している中で、中心としての自己は、いないのです。


そこまで分かった時点、で、現実と自己の『反転現象』ということが起こります。

つまり、今までは対象と思っていた、この外側の世界、あなたこそが、わたしだっとなるのです。

この時点で、自己を手放してしまえば、悟りです。

つまり、一切の有情は同時に成道せりですね。

これは、感覚としては『リアルが自分に飛び込んでくる』のです。


しかし、これは暫時の解脱です。

人間が生きている限りは、本能的欲求と、無欲の対立があり、それに良心が揺れ動くという現象は永遠に続きます。

ここで、この摩擦の中で、自己の内部に恒久不変の真に自己である、自己が生まれます。

それは、私自身で在り、それは存在します。

その本来の私自身でいることに寛ぐことは、最初から、達成されている『いまここ』で考えすぎていないことなのです。

後追いの認識をしていない。


ここにきて、凄まじい単純さに驚くことになる。

なんと、最初から、救われていない人は一人もいないのである。


まあ、本日は、この辺りで。

本日も、無上の、これ以上は有り得ない、最高の一日を過ごそうw

それがどうしたの?

2016-01-19 16:27:49 | 日記
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こんばんは。

本日は13時40分ごろに起きてきました。

朝方、炬燵で寝ていて10時ごろにお風呂に入ったので、疲れている。

洗面を済ませて座禅40分です。

千鶴さんにブツブツ言い続けていたので機嫌が悪いw

座禅は足が崩れてくる。

ずっと続けていたので良くなるかと言えばそうでもない、笑



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痛みがあるから余計に組みづらいし、慣れてきた感じもない。

座っている間はずっと過去の記憶が再現されて、それに対して「あーでもない。こーでもない」と考えている。

勝手にね。

で、座禅を終えると読書です。

千鶴さんが野菜を湯がいてくれて、シチューも作ってくれている。

血圧が高いので、減塩生活をしないといけないのだが、千鶴さんにかかっているw


読書中にそれらを食べて、今朝の残りの麻婆春雨も食べる。

悠聖が起きてきたのでパンをあげる。

シチューをあげようとしたが、野菜が嫌いなので食べない(汗)


本の内容は、新しい宇宙像の新しい宇宙像の章ですね。

要するにニュートンの世界とアインシュタインの世界の違いみたいなのをやっているなあ。

で、世界の形態を定める『尺度』を知ることが不可能であるらしい。

なんでなのかは、よく分からないwwww

とにかく、電子とか量子の世界は、この現実の中で、実質のそれそのものは存在しない。

ウスペンスキーは、この電子とか量子の世界の研究には好意的であるように見える。


で、読書と食事を終えてから下腹体操。

悠聖が、すごく喜んで、お腹の上に乗って「もっとあげて」みたいに言うので千鶴さんが笑う。

着替えを済ませて、煙草を吸っていたら、炭酸ジュースを家の前の自販機で買ってきてと頼まれたので行く。

で、ブログの更新へ来たのでした。


さてさて心と宗教のテーマですね。

まあ、あれこれ書いていても結局「それでどうしたの?」と言われるわけです。

ここで書いていることの価値が伝わる人たちもいるのは間違いないのですが、なんと、その人たちは、もうすでに僕よりも理解の進んでいる人に限られている。

それが、現在の、課題ですね。

今年の、テーマはこれに違いありません。

『ありとあらゆるものが、跡を留めない』と書いても、それでどうしたの?

苦しみは消えないと言う。

消えないと言うか、苦しみも、あったら、常に変化しているのだが、それを見ようとしないのだ。

もしくは、感じることを避けるのである。

自分を見ることを避けるので、いつまで経ってもリアル世界と接触しない。

つねに見解を通して世界を見るので、純粋な直接経験にさらされない。


では、どのようにしたら、この真実の法に気が付いて利用できることができるのだろう。

たぶん、これは苦しむことであるwwww

苦しみが限界に成って、プライドを保つことができなくなった時に、自我は暫時崩壊して自然の姿に触れるのだ。

絶望する前は、自分の力だけで生きていると心底思っているので難しい。

ところが、この世界は、自分の世界では実質ないので、そのように生きていれば必ず絶望する瞬間がくるはずだ。

ある程度のショックならば、見て見ぬふりで済んでいくのだが、自分の本心が関わる部分では、そうはいかない。

諸行無常を感じたり、罪悪感を感じたりすることがあると、自分が、溶けてくる。

それで内省したり、考えている中で理解が生まれてくる。


とすると、やっぱり何も必要ないということになるwwww

ここで、このように書いていることも、すべては、起こるべくして起こっているのだから……。


まあでも、あんまり難しく考えないで、自分でいることに寛いでいることが大切だと思うなあ。

結構、得するかもだよwwww


ではでは、またですー!

人間が進化すればいいのだ!

2016-01-18 12:46:43 | 日記
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『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

本日は8時ごろに起床したと思いますが、記憶が定かではありません。

炬燵で寝てしまったようで、体が痛い。

昨日は、とある『Bar』の主催する野球の練習に参加したので、その影響かもしれません。

久しぶりに楽しかった。

やっぱり趣味というのも自分で動いて見つけるものだなあと思います。

まあ僕は運動神経に乏しいので、スポーツは厳しいが、笑



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いつもの通り、洗面をして座禅を40分です。

千鶴さんと悠聖は僕よりも早く起きていた。

座禅は相変わらずの姿勢のユラユラが解消されませんね。

でも、心が静まるのは、スイッチが入ると結構、できてきます。

静けさの中に溶ける感じ。

座禅中に悠聖が久しぶりに顔いじり攻撃をしていたw

千鶴さんは最後に見に来て「また動いてる」みたいに言っていました。

大丈夫、継続は力なりだからね。


で、座禅を終えると読書なのですが、千鶴さんの依頼やら悠聖の遊びで全然進まない。

毎日読書しているのだから分かっているはずなのだが、全然、無視して自分の用事を頼んでくる。

普通に読んだら30分で終わるのが4時間もかかっている。

しかも、その間に、読んだり、他ごとしたりだから、全然理解も進まない。

もう!

で、タブレット端末の写真をSDカードに移すのを手伝ったり、お茶漬けを悠聖と食べたり、ツムツムをいじる悠聖を監視したり、庭で転倒を繰り返す悠聖を意識しながら、読んだりと、大変です。

本は『新しい宇宙像』の新しい宇宙像の章。

ただでさえ意味が分かっていないのに、喧騒のせいで、余計に分からない。

読んだ意味があるのかすら不明だ、笑

とりあえず、アインシュタインの相対性理論の話があって、電子や量子なんかの実質が特定できないと言う話。

要するに過程の中で実質の効果は見られるが、それ、そのものとして定義できないってことなのかなあ、よく分からない。

あとは『引力』というものも仮定であり、それは、ある条件を計算するための手法であって、実質に引力があるわけではない。

ところが、これが現象界に、実際に作用していると一般には理解されるわけだ。

うーん。

たぶん間違っているに違いないwwww


で、やっと読書を終えて母親の家で自治会の会計の仕事の話をする。

弁当頼むところが閉店した様子で、次のお店を決めなければならないが、勝手にはできないので難しいことです。


そのあとでブログの更新を始めたのでした。

この間も千鶴さんと悠聖の、引っ切り無しの妨害に会い続けているのだww

まあ妨害というと失礼だが、要するに、常に、僕のいるところに悠聖がやってきて、パソコンをしていれば、抱っこしてポーズ。

抱っこすれば、パソコンのキーボードで遊ぶ、みたいなのの繰返し。

まあ当分は、こんな感じだろうなあ。


さて、心と宗教のテーマです。

僕がこれらのことに関心があるのは、苦しみを減らすことが、実質、可能であると思うからです。

で、一般的に、この宗教が否定されるのは、苦しみを増やすと思われているからですね。

例えば、人生を捨てて出家しなければならないとか、あるイデオロギー、主義に染まって、社会と対立するとかです。

これらは、自分自身を基幹とするということを無視しているからそうなるのです。

だれかの教えに服従して、自分の意志を放棄することと、自分を放棄して、自由であることは全然違います。

そして宗教の本質は、この世界の中で、柔らかな感情を生み出すことです。

愛とか慈悲などと呼ばれている『思いやり』のことですね。

その、思いやりが生まれるためには、自己が自己であることに完全であることが必要です。

そのための、ただのアドバイス、実践の方法が、宗教なのであり、言ったらこれは『心理学』みたいなものです。

確実な方法です。

だから、ある人とある人の間にある差異は、ただ自分の置かれた環境の違いであり、気づかれた内容、体験は同一です。

それを表す際には、自己の知識を通すので、千差万別になるだけなのです。


このショボい日記にも、検索で読みに来てくれる人もいますが、基本的に『幸せ』であることを人は求めているのですね。

幸せは、苦を減らすことで齎されます。

それは刺激を避けることと同じようなものなのです。

この避け方が、特殊であるのは、自分が、対象を見ていると言う、その根本的な態度を変えることで達成するからなのです。

考え方や、社会のルールを変更するのではなく、自分自身の生命への理解を体感的に変更することで、実質的な変化を齎すのです。


その方法は、自己を見ることです。

そして、自己を見ている状態で、自分自身を寛がせることです。

どこに寛ぐかというと、自分であることに寛ぐのです。

自分であることに寛ぐためには、不安を解消しなくてはいけませんね。

この不安は『自己責任』という言葉から出てきます。

しかし世界は縁起しているのであり、自己のコントロール下にはありません。

次々に現れては流れていくものを、常にあると勘違いしているのです。

身体も心も、どちらにしても、対象と自己の触れ合いの中にあり、この触れ合いが苦を生じさせるのです。

この『触れ合い』は分離から生まれています。

対象と自己が分離するから、触れ合うことができるわけですからね。

実質は、この対象と自己は分離していないのです。

自己は『対象の内』にあるのです。

言うたらリアル世界があるだけで、そのリアル世界の中に、自己の心もある、逆に言えば、リアル世界と心は全く同時に生じているのだ。

その全宇宙である我々一人ひとりが、どのような奇蹟があってか、ここで人間をしている。

しかし、この人間でありながらも、根本としての、空性の世界をもとから離れたことはありません。


こう考えると分かりやすいと思うのです。

人間の体も心も、自然に生まれてきたもので、自己の意志は最後にくっついたものです。

ところが現代の人は、人間中心に宇宙があると思っているのです。

自然界の生命の働きの中に人間がいるのであり、また人間の意識の働きの中に自然界がある。

これらは別れないが、どちらも自己ではないのだ。


だから、実は、私たちは、世界と言う夢を見ているのです。

この夢は、自分が作っているのではなく、大いなる『何か』であるのです。

それは、この自分からしたら、とてつもなく巨大かつ、とてつもなく微細な、そのエネルギーです。

創造の力です。

この生命の創造の力が、自分自身を作っていて、その自分自身の機能として意志が出てきたのです。

根本は、この認識不可能な未知の、力であり、それは、自己が解放された時に、呆然と感じられるものです。

これを感じたら、自分が生きていたのではないと分かるでしょう。

自分が生きていたのではなく、創造の過程があるだけなのです。


見たら、見たものだけしかない。

聞いたら、聞こえたものだけです。

考えたら、悲しんだら、それも、それだけであり、しかも、それもまた流れる。

この生命の川の流れは、自分が作っていません。

自己の行為というのは、川の流れの中で、変化していく風景のことを自分が勝手にそう思っているだけなのです。


これはしかし、自分の右手を意識的に動かせないとかそういうことではないですよ。

もっと根本的な話であり、普段の認識の仕方の変更のことを言っているのです。

それが、達成されたら、人間の社会は広がります。

もちろん、今までに築かれた素晴らしい文化、芸術の中で、真に幸福な、お互いの関係性を構築できるのです。


人間自体が進化することでしか、それは、不可能である。


って、また、オーバーな表現になってしまいました。

ここのところ興奮して書き殴っていますが、あくまでも、僕の受け止め方なので正しいかどうかは保証しかねますよ、笑

何しろ、仏教にしても、精神世界にしても、ド素人です。

ここで書いているのは、僕が人生体験や、読書や、座禅の中で、思ったことです。


と言う訳で、本日は、この辺りで!

今日から夜勤がんばってまいりまーす^^

嘘で塗られた社会

2016-01-17 10:16:59 | 日記
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おはようございます。

本日は午前7時ごろに起床しました。

洗面をして座禅40分します。

千鶴さんは座禅を始めるころに起きてくる。

座禅を終えるころに千鶴さんが「もじもじ」と後ろから言うw

「おしっこ行きたいの? 最近、ずっともじもじしてない?」とおっしゃられる。

「足が安定しないから、落ち着かないの!」



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なぜか両足を組むようにしてから上半身が落ち着かないので、もじもじしてしまうのだ、笑

安定するまで時間がかかりそうだが、たぶん、こちらで安定した方が姿勢はいい。

座禅を終えると読書ですね。

悠聖も、この辺りで起きてきてラピュタを見ていた。

千鶴さんは朝食を作ってくれている。

ラピュタをみんなで見ながら朝食をいただきます。

悠聖のオムツ交換と着替えも手伝いましたが、シャツが反対だったので、千鶴さんがやり直していた、笑

「もう、やっぱり反対やん!」と言うので「すごいなあ、予言者やあ」とか適当に返すw

読書は新しい宇宙像の奇蹟を求めての章。

ダルビッシュに関する話を読み、次章の新しい宇宙像へ。

理科全般の知識が乏しすぎて、何を言っているのやらさっぱり分からない、笑

要するに空間と時間に属さない物質の特性があると言いたいのだろう。

別次元に規定される物質の定義が曖昧なので、当たり前の事実を、考慮しないことで、化学が行どまっている。

量子力学とかひも理論の最新の科学は、これらの指摘を外れているのだろうか。

興味はあるが、頭が悪いので理解はできなさそうだ、笑

で、読書を終えると煙草を吸って、ブログの更新へ来たのでした。


さて心と宗教のテーマです。

今、ニュースで廃棄カツの不正転売、高速バスの事故、そして子供の虐待について流れています。

これらの悲劇は、どのようにして起こるのでしょう。

こういった出来事がある度に、規制を強化して対応する訳ですが、新しい問題が尽きることはありません。

これは自分自身の問題なので、社会が、それを変えるには、自覚の能力を鍛える方向へ持っていかねばなりません。

ところが、教育で教えているのは、人間の在り方ではなく、仕事での知識です。

その仕事の前に、何が大切か、どうして働くのかという基礎が全く欠けているのですね。

家の母親も「お金、お金」と昔から連呼しますが、確かにお金がなければ生活が成り立たずに死んでしまうので、大切です。

しかし、それ以前に大切な『理性』に対しては、何の働きかけもありません。

感情面での『慈悲』や『思いやり』に関しても、表面的なルールを守ることが優先され、本当の気持ちに寄り添ったものがないのです。


グルジェフさんの『ベルゼバブの孫への話』に、少女が牛のことを変な名前で呼んだことで退学させられた少女たちが、もうこんな世界にはいたくないですと自殺する話があったと思います。

それが地で行われているのが現代日本です。

このようなニュースで語られることも、もちろん『嘘』だと誰もが知っています。

そして、自分が生きている社会も『嘘』で塗り固められており、今までは自然であった、家族や近所付き合いですら、もはや『嘘』の関係性が侵食してきているのです。

その結果が、他人の立場に立つ能力の欠如に繋がっています。

これは、宗教的理解が阻害されているから、こうなっているだけなのです!

昔は、武士道などの『躾』がおじいちゃん、おばあちゃんからシツコイくらいされていて窮屈な状態で育っていたのが、今では『しきたり』はほとんどなくなった。

共通の理解もないし、共通に大切にされる道徳もありません。

ただ、自己の利益だけを追い求めて、他者へは『自己責任』で窮地に追い込む。

このような状態で、問題が山積してくるのは、別に不思議でもなんでもありませんね。


仏教は、はっきり言って、馬鹿にすらされている。

なぜなら僕が、このような日記を書くだけでも、大丈夫かと思われるのだからwwww

頭大丈夫かと思われているのですが、それは、本気なのですよ。

つまり悟り、智慧、慈悲などについて、語るだけでも、気が触れたように思われるのです。

座禅をしていれば「だいじょうぶか」とwwwww

そして、宗教と言うのは人を傷つけるものであるとすら思われているのです。

で、そういう人たちが信奉しているのは何かというと、セックスと暴力であるのです。

もちろん、それは表には出ていませんよ!?

基本的に、人間は、殺人の歴史を生きていますが、それが別に正しいことではないのです。

それは未熟さの歴史であり、徳川家康は偉い人でもなんでもありません。

偉人は、創造するひとであり、その生涯が、人間の感性の進化に貢献した人たちなのです。


歴史を見ろと言いますが、その歴史の中にも、精神的進化を成し遂げた少数の人たちがいたのですね。

この人の数が、一定数を超えれば、社会は変わるのです。

グルジェフさんは100人いれば、地球のありとあらゆる生命体を変えることができると言います。

それは、今までの歴史にあるような血で血を洗う革命ではありません。

人間自体の進化なのです。

お釈迦様が蛇が抜け殻をあとにするようにと言うような感じです。


これが為される可能性は、十分にあります。

仏教を導入すればいいのですよ。

教育に仏教の基本を持ち込むことで、改善されます。

そして、それは、もちろん現代的な形でなければならない。

本質は、そのままで、表現は昔の形態に拘ってはいけないだろう。

仏教と言うのが嫌われるのなら、他の名前で入れてもいいだろうww


とにかく、しかし、実質の経験として大切なことは、自分を受け入れていることだ。

自分自身でいることに寛ぐことなのだ(しつこい?w)

とにかく、それで、万事うまくいく。

まあ、でも、時代の流れが間違いなく、そちらの方へ行くだろう。


ちょっと今日は妄想行き過ぎましたw


まあ、皆様、本日も善き休日を!