初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は11時半に起きてきました。
炬燵で寝ていたら、千鶴さんがギャーギャーと悠聖に怒っているのが煩くて、ついつい、要らん文句を言ってしまう。
ブチ切れた千鶴さんが「もう出ていくからねー」と……。
言い合いしながら歯磨きだけして布団で寝ていたが、妄想と胸騒ぎのエゴ快走が見事に走り出す、笑
とてもじゃないが寝ていられないので、起きてきて洗面する。
悠聖も千鶴さんもいないので不安になって外へ出ると洗濯物を干している千鶴さん。
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ごめん、ごめんといつものパターン。
悠聖は母親の家にいるようなので安心して座禅40分です。
左の頬と、両足の薬指の感覚がほとんどない、あと、意識すれば感じられるが腹から胸にかけての感覚が普段、まったく欠けている。
集中すると、そういう状況が確認できるが、蘇るまでには時間がかかりそうだ。
どこかが異常に成ると、それが全身に効果を及ぼしているように感じる。
普段の意識の置き方の癖のようなものがあり、それを外さない限り状況は変わらない。
で、座禅を終えると読書です。
だれもいなかったので、サクサク進んだ。
新しい宇宙像ですね。
えーっと、何やら角度の話が書いてありましたが、何が重要なのかさっぱり分からない。
要するに時間の次元の面しか感じられないのが、人間の問題点である。
そして、空を見ると面にしか感じられないが実際は奥行きが無限に広がっているが如く、時間と空間の関係性は、相対的に様々な状態で存在しているらしい。
①時計の短針の動き
②目視で動きと感じる動き
③鉄砲の玉のように、目視では確認できないが、それらの動きが分かる動き
④電子などのように、確認不可能だが、動きがある動き。
だったかなあ。
忘れたけど、取りあえず、相対的に、動いているもの同士の速度の差で時間が感じられるのかな?
理解できてなさそうだけどwwww
とにかく、物体の量やら、速度によって、空間と時間は変化する訳です。
なので、超巨大な太陽と、超微細な電子などは、全然違う時空間を3次元と理解している訳だ。
人間にとって存在しない空間と時間は6次元空間である。
って、うーん、どうも、分かってないので、理系得意な人は是非、この本を読んで僕に教えてください、笑
で、読書を終えてから千鶴さんや悠聖と会話を楽しんだり、絵本の付録のアンパンマンスマホを作ったり、遊び計画を立てたりしていた。
母親の家で卵ご飯とお味噌汁も食べる。
『牧歌の里』へ行ってみようと提案したら、スタッドレスタイヤじゃないと危ないと言う。
うーむと考えて、オートバックスで聞いて来ようと考えている。
で、ブログ更新していたら、母親が帰ってきて「ちょっと降ろすの手伝ってくれへん?」
聞いたらなんと「スタッドレスタイヤに換えてきてもらったわー」
ビンゴ!
なんとタイミングのいいことよ。
で、千鶴さんに母親の車で行けばいいと言ったら「だから、さっきから言ってるやん」と……。
え?
ぜんぜん、人の話を聞いてないのは、僕の得意技なのだったwwwww
それからブログの更新へ来ています。
さて、心と宗教のテーマですな。
人間の進化とかいうと、大袈裟ですが、ほんとに、進化ではなくて実際にある可能性の話なのですね。
普段無意識でいると忘れられることが、意識すると覚えていられるとかいう単純なことです。
で、人間の苦しみの最大は釈迦の指摘した『生老病死愛別離苦』でしょう。
これの原因が『僕はひとりで生きている』という考え方なのです。
実は、すべてが、繋がっていて、縁によってあるのです。
あなたとわたしと言う風に分かれていない。
あなたとわたしを含んだリアル世界が諸行無常に次々に現れては消えているのです。
そんな馬鹿な、俺の体は永遠に同じだと言えますか?
もしくは、俺の心は永遠に存在しますか?
それとも、俺のアイデアは対象なしに存在しているのだと言えますかね。
そんなことは有り得ません、必ず、これあるによってこれありから外れることは無し。
空間と時間に関しても、相対的に存在しているだけで、絶対的尺度のようなものがないのです。
それが空でありますね。
こっちで、これがあり、あっちであれがあるが、それらは明滅している。
有った瞬間に流れて無の中で在る。
その無の側が己であって有の側も己である。
どちらもが、即、同じ場所で、こう、永遠の動きを繰り返しているのだ。
では、常に失われていく、この世界で、生老病死に苦しんでいる根本煩悩は何なのか。
それは『自己中心の認識』である。
わたしという存在が耳目の裏側にいて、対象を見ていると言う、その意識の持ち方が、真理ではないのだ。
真理は、その対象だけがあるので、あって、耳目の働きの向こう側というのはない。
それは存在しないのだ。
もちろんイメージ、空想、感情、動作、性、本能などなどの人体の働きはある。
あるが、それは自己の管理下にはない!
それらは対象が明滅していくようにして、明滅している。
だから、そこに『こうであってほしい、わたしのもの』という執着を起こすと苦が生まれるのである。
これに対するには、自己を見てみる必要がある。
自己を意識の中に含んでいないので、自己と対象が分裂するのだ。
自己想起というのは、この自己を見ているのと、対象を見ているのを同時にすることである。
単純に言えば、時計の針を見ながら、自分の体を感じる等々のワークで、それを進展させていく。
だが、もちろん、人間は感覚だけで生きていない。
思考、感情、動作、本能、性の各中枢部と高次の思考、感情中枢がある。
これらはスピードで言うと、思考、動作、本能、感情、性、高次感情、高次思考という順序である。
だが、本能中枢と、感情中枢は変更し得る。
この本能と感情が変性することが、人間の進化なのであるがグルジェフさんは、それを単純に書いている。
『無欲が貪欲に勝利する』
この無欲が貪欲に勝利するということは、仏教でも、他の宗教でも同じである。
欲望はつまり、こうであってほしい、わたしのものである。
これらの、ことの、実践面での理解の進展は、いかに自己の存在の起点を見出すかと、そこへのリラクゼーションにかかっている。
緩める事、緩める事。
そして、考えすぎないことであり、感じることなのだ。
で、このような、様々な、ことを考えることなくして、人間の進化を為すには何が必要だろうか。
これは、つまり、もっとシンプルに表現すれば、自分自身でいることに寛いでいることである。
大いなる何かは、自分が手放された時に働くのだが、それは、非常に集中してリラックスした時に現れる。
だから座禅なのだが、座禅は伝統で、あって、そうでなくても現れる可能性はある。
集中してリラックスしていることなのだ。
リラックスモードが、どんどん入ってくることで、人は、あらゆる感性を研ぎ澄ますこともできる。
これを妨害するのが『眠り』と『ネガティブエモーション』だ。
連想と怒りである。
これらの活動は自動的に、起こってくるのだが、それもすべて、自己の働きではない。
ただ、離れていくことなのだ。
自分自身を寛がせる場所の感覚をつかんで、そこで、受け入れることだ。
その場所とは事実の世界であり、『世界に開く』ことが『悟りを開く』ことなのである。
んでは、このへんでー。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
こんばんは。
本日は11時半に起きてきました。
炬燵で寝ていたら、千鶴さんがギャーギャーと悠聖に怒っているのが煩くて、ついつい、要らん文句を言ってしまう。
ブチ切れた千鶴さんが「もう出ていくからねー」と……。
言い合いしながら歯磨きだけして布団で寝ていたが、妄想と胸騒ぎのエゴ快走が見事に走り出す、笑
とてもじゃないが寝ていられないので、起きてきて洗面する。
悠聖も千鶴さんもいないので不安になって外へ出ると洗濯物を干している千鶴さん。
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ごめん、ごめんといつものパターン。
悠聖は母親の家にいるようなので安心して座禅40分です。
左の頬と、両足の薬指の感覚がほとんどない、あと、意識すれば感じられるが腹から胸にかけての感覚が普段、まったく欠けている。
集中すると、そういう状況が確認できるが、蘇るまでには時間がかかりそうだ。
どこかが異常に成ると、それが全身に効果を及ぼしているように感じる。
普段の意識の置き方の癖のようなものがあり、それを外さない限り状況は変わらない。
で、座禅を終えると読書です。
だれもいなかったので、サクサク進んだ。
新しい宇宙像ですね。
えーっと、何やら角度の話が書いてありましたが、何が重要なのかさっぱり分からない。
要するに時間の次元の面しか感じられないのが、人間の問題点である。
そして、空を見ると面にしか感じられないが実際は奥行きが無限に広がっているが如く、時間と空間の関係性は、相対的に様々な状態で存在しているらしい。
①時計の短針の動き
②目視で動きと感じる動き
③鉄砲の玉のように、目視では確認できないが、それらの動きが分かる動き
④電子などのように、確認不可能だが、動きがある動き。
だったかなあ。
忘れたけど、取りあえず、相対的に、動いているもの同士の速度の差で時間が感じられるのかな?
理解できてなさそうだけどwwww
とにかく、物体の量やら、速度によって、空間と時間は変化する訳です。
なので、超巨大な太陽と、超微細な電子などは、全然違う時空間を3次元と理解している訳だ。
人間にとって存在しない空間と時間は6次元空間である。
って、うーん、どうも、分かってないので、理系得意な人は是非、この本を読んで僕に教えてください、笑
で、読書を終えてから千鶴さんや悠聖と会話を楽しんだり、絵本の付録のアンパンマンスマホを作ったり、遊び計画を立てたりしていた。
母親の家で卵ご飯とお味噌汁も食べる。
『牧歌の里』へ行ってみようと提案したら、スタッドレスタイヤじゃないと危ないと言う。
うーむと考えて、オートバックスで聞いて来ようと考えている。
で、ブログ更新していたら、母親が帰ってきて「ちょっと降ろすの手伝ってくれへん?」
聞いたらなんと「スタッドレスタイヤに換えてきてもらったわー」
ビンゴ!
なんとタイミングのいいことよ。
で、千鶴さんに母親の車で行けばいいと言ったら「だから、さっきから言ってるやん」と……。
え?
ぜんぜん、人の話を聞いてないのは、僕の得意技なのだったwwwww
それからブログの更新へ来ています。
さて、心と宗教のテーマですな。
人間の進化とかいうと、大袈裟ですが、ほんとに、進化ではなくて実際にある可能性の話なのですね。
普段無意識でいると忘れられることが、意識すると覚えていられるとかいう単純なことです。
で、人間の苦しみの最大は釈迦の指摘した『生老病死愛別離苦』でしょう。
これの原因が『僕はひとりで生きている』という考え方なのです。
実は、すべてが、繋がっていて、縁によってあるのです。
あなたとわたしと言う風に分かれていない。
あなたとわたしを含んだリアル世界が諸行無常に次々に現れては消えているのです。
そんな馬鹿な、俺の体は永遠に同じだと言えますか?
もしくは、俺の心は永遠に存在しますか?
それとも、俺のアイデアは対象なしに存在しているのだと言えますかね。
そんなことは有り得ません、必ず、これあるによってこれありから外れることは無し。
空間と時間に関しても、相対的に存在しているだけで、絶対的尺度のようなものがないのです。
それが空でありますね。
こっちで、これがあり、あっちであれがあるが、それらは明滅している。
有った瞬間に流れて無の中で在る。
その無の側が己であって有の側も己である。
どちらもが、即、同じ場所で、こう、永遠の動きを繰り返しているのだ。
では、常に失われていく、この世界で、生老病死に苦しんでいる根本煩悩は何なのか。
それは『自己中心の認識』である。
わたしという存在が耳目の裏側にいて、対象を見ていると言う、その意識の持ち方が、真理ではないのだ。
真理は、その対象だけがあるので、あって、耳目の働きの向こう側というのはない。
それは存在しないのだ。
もちろんイメージ、空想、感情、動作、性、本能などなどの人体の働きはある。
あるが、それは自己の管理下にはない!
それらは対象が明滅していくようにして、明滅している。
だから、そこに『こうであってほしい、わたしのもの』という執着を起こすと苦が生まれるのである。
これに対するには、自己を見てみる必要がある。
自己を意識の中に含んでいないので、自己と対象が分裂するのだ。
自己想起というのは、この自己を見ているのと、対象を見ているのを同時にすることである。
単純に言えば、時計の針を見ながら、自分の体を感じる等々のワークで、それを進展させていく。
だが、もちろん、人間は感覚だけで生きていない。
思考、感情、動作、本能、性の各中枢部と高次の思考、感情中枢がある。
これらはスピードで言うと、思考、動作、本能、感情、性、高次感情、高次思考という順序である。
だが、本能中枢と、感情中枢は変更し得る。
この本能と感情が変性することが、人間の進化なのであるがグルジェフさんは、それを単純に書いている。
『無欲が貪欲に勝利する』
この無欲が貪欲に勝利するということは、仏教でも、他の宗教でも同じである。
欲望はつまり、こうであってほしい、わたしのものである。
これらの、ことの、実践面での理解の進展は、いかに自己の存在の起点を見出すかと、そこへのリラクゼーションにかかっている。
緩める事、緩める事。
そして、考えすぎないことであり、感じることなのだ。
で、このような、様々な、ことを考えることなくして、人間の進化を為すには何が必要だろうか。
これは、つまり、もっとシンプルに表現すれば、自分自身でいることに寛いでいることである。
大いなる何かは、自分が手放された時に働くのだが、それは、非常に集中してリラックスした時に現れる。
だから座禅なのだが、座禅は伝統で、あって、そうでなくても現れる可能性はある。
集中してリラックスしていることなのだ。
リラックスモードが、どんどん入ってくることで、人は、あらゆる感性を研ぎ澄ますこともできる。
これを妨害するのが『眠り』と『ネガティブエモーション』だ。
連想と怒りである。
これらの活動は自動的に、起こってくるのだが、それもすべて、自己の働きではない。
ただ、離れていくことなのだ。
自分自身を寛がせる場所の感覚をつかんで、そこで、受け入れることだ。
その場所とは事実の世界であり、『世界に開く』ことが『悟りを開く』ことなのである。
んでは、このへんでー。