【自分はまだ学びの途上】5753
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
《それ数頃(すうけい)無源の塘水(とうすい)とならんよりは、数尺有源の井水(せいすい)、生意窮(せいいきわ)まらざるものとならんには若かず》(王陽明)
広大な池の溜まり水のようであるよりも、小さくてもこんこんと湧き出る泉のような人間になれ、と陽明はいう。
生気湧出(せいきゆうしゅつ)とはこのことである。
鮮烈な記憶がある。もう随分前のことだが、石川県松任にある中川一政(かずまさ)記念美術館に入った時、一枚の条幅(じょうふく)が目に飛び込んできた。
中川氏九十歳頃の作品と記憶する。
紙幅いっぱいにあの独特の文字で、一つの言葉が繰り返し書かれていた。
「少年老い易く学成り難し」
この一語が何度も書かれ、最後は中途のまま落款が捺されていた。
自分はまだ学びの途上にある、といっているかのようだった。
この人は九十を超えてなお、少年のような心で己の画業を極め、人生を完成せんと挑んでいるのか。
小さな驚きはやがて深い感動となり、今日に続いている。
中川氏九十五歳の誕生日のスピーチがある。
「長生きしようと努力したわけではないが、気がついたら九十五になっていた。
芭蕉がその最期の時に、弟子にどれが辞世の句かと聞かれ、自分にとって一句一句辞世でなかった句はない、といっているが、私もこれからの一日一日をそういうふうに送りたいと思う」
稽古をしてはならぬ。いつも真剣勝負をしなければならぬ・・・この言葉を自戒とした人の一生は、最後まで生気湧出の人生であった。
『小さな人生論5』致知出版社
https://q.bmd.jp/91/119/2173/393
行徳哲男師は「真剣」についてこう語る。
『「真剣」と「深刻」とは違う。
悲劇の主人公のような生き方は真剣とは言わない。
真剣というのは、もっと軽いものである。
真剣になればなるほど軽くなれる。
「軽さ」の頭に「あ」をつければ「明るさ」になる。
真剣な人は「明るい人」である。
眉間に皺を寄せて深刻に生きている人は、実は一番真剣に生きていないのではないか』
「真剣に生きる」とは、気合を入れたり、眉間にシワをよせて悲壮な覚悟でやるものではない。
淡々と、飄々(ひょうひょう)と、しかも明るく続けることだ。
言葉だけが上滑りするのではなく、行動で示すことだ。
瞬間湯沸かしのごとく、そのときだけ大騒ぎしても、長く継続しなければ真剣とは言わない。
少量であっても、コンコンと湧く清水のように、毎日変化し続けること。
一日一日、一瞬一瞬を、明るく真剣に生きる・・・
「自分はまだ学びの途上」という言葉を胸に刻みたい。
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