AI (ええ愛・Atelier Ichien)

ここは、『AI(ええ愛)』のある人たちの自由な空間です。一つ一つの記事に『AI(ええ愛)』が込もっているものばかりです。

ケネディ大統領が一番尊敬した日本人 人の心に灯をともす 1915より

2014年11月23日 | 
嬉しい楽しい幸せな役に立つ興味深い話○略して『うたしやきの話』の収集家・松本一円さん♪の愛読しているメールマガジンよりお福分けさせていただきます…(^人^)

写真は…うたしやきの窯元Uさん♪からいただいたプレゼントで、可愛いカレンダーのイラストを撮影させていただいたものです☆(^人^)☆

ありがとう☆ありがとう☆(^人^)☆



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【ケネディ大統領が一番尊敬した日本人】№1915


カリスマ講師、寺松輝彦氏の心に響く言葉より…


年間およそ3万の人が自殺している。

事業の失敗、家庭の崩壊、多額の借金、癌宣告、介護疲れ、人の裏切り、孤立感。

追いつめられて、「できない」「ムリだ」「だれも信じられない」「孤独だ」と思いこんだとき、死を選ぶのかもしれない。


中古車販売会社の社長・大山氏も覚悟を決めた一人だった。

自分には1億ほどの生命保険をかけていた。

中古車販売の事業が振るわず、銀行からの借入金の負債や取引先の未払いなど6億円の債務があった。


しかし、最後の一線までは踏み切れない。

悶々とした日が続いていた。

すでに、42歳の大山は円形脱毛症になっていた。


ふと入った本屋で立ち読みして衝撃を受け、自宅に買って帰り一晩で読み通したのが、「上杉鷹山(ようざん)」について書かれた本だった。

上杉鷹山の事績に勇気づけられて、大山は「生きよう」と思った。



上杉謙信以来の名門米沢藩は、財政赤字で借金が膨れ、収入の15万石すべてを返済にまわしても百年以上はかかる状態だった。

明和元(1764)年、ついに藩主上杉重定は、幕府へ版籍を奉還したいと尾張藩主徳川宗勝に相談した。

どうにもやっていけないから、いっそ領地をすべて返上すると前代未聞の話を持ち込んだのだ。

驚いた宗勝は、考え直すように説得したうえで重定を隠居させ、九州の遠縁の高鍋藩から養子を入れ、藩政改革を進めようとした。

その養子が上杉治憲(はるのり・鷹山)だったのである。


鷹山は改革を進める。

だが小藩出身の養子であることから改革方針は軽んじられて、格式にこだわる家老たちの反対にあう。

重臣らの非協力のなか、自ら倹約を徹底した。

粗末な木綿の服を着て、一汁一菜の食事で通した。

さらに華美な儀式や慣習を質素にした。


荒地の開墾を行い、漆(うるし)やこうぞなどの特産物の育成をした。

人を派遣して学ばせ、織物や紙すきの技術導入も図った。

不要な組織の整理で、藩士たちの無駄な城勤めからの解放を進めた。

手が空いた下級藩士たちは、開墾や特産物の栽培に力を注ぎ、武家の婦人たちは織物や紙漉きに精を出した。


やがて藩内の産物や加工品が藩外や江戸でも売れるようになった。

ようやく財政改革の成果が出そうになってきたとき、武士が百姓町人の真似をするなどもってのほかと、改革を快く思わない重職7名が連署して改革阻止の行動に出た。

しかし改革に期待を寄せる下級武士団から鷹山は支持され、この改革妨害を乗り切った。


「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

鷹山はこの歌を残している。


アメリカの35代大統領ジョン・F・ケネディは、日本人記者団に尊敬する日本人は誰かと質問されて、上杉鷹山と答えたエピソードがある。


「できない」と諦めるか。

「できる」と考えられるか。

リーダーシップを発揮するうえで、決定的な違いが出る。


「できる」という意識に立つ。

この意識は、その人の人格から現れる。


上杉鷹山は、幼いころから細井平洲(へいしゅう)という学者について学んだ。

藩主たるもの、どういう考え方と行いをしなければならないかを教わり、人格を磨いた。


『偉人はかく教える』致知出版社





何か問題に突き当たったとき、「これは無理だ、できない」と思うのか、「もしかしたら何とかなるかもしれない」と思うのかで、道は大きく分かれる。

無理だと思えば、そこから先に一歩も進むことはないが、できるかもしれないと思えば、いつか問題を解決できるチャンスを得たことになる。

「できるかもしれない」、という根拠のない自信や、ばくぜんとした思いこみは、人生においてはとても大事だ。



滝口長太郎氏の「打つ手は無限」という、心に響く素晴らしい詩がある。


『打つ手は 無限』

すばらしい名画よりも

とても素敵な宝石よりも

もっともっと大切なものを私はもっている

どんな時でも、どんな苦しい場合でも

愚痴を言わない

参ったと泣き言を言わない

何か方法はないだろうか

何か方法はあるはずだ

周囲を見回してみよう

いろんな角度から眺めてみよう

人の知恵も借りてみよう

必ず何とかなるものである

なぜなら打つ手は常に無限であるからだ



どんな難問でも、できるかもしれない、と思えば、いつかできる可能性がある。

なぜなら、打つ手は無限だからだ。


困難なときは、上杉鷹山のエピソードを思い起こしたい。





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1 コメント

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細井平洲さん (かおりん^ ^)
2014-11-23 22:07:40
人の心に火を灯すさん
一円さん
皆さん
いつも ありがとうございます(*^◯^*)

今日の メルマガに出て来ました
細井平洲さんは
かおりん^ ^さんの 住む 愛知県東海市 出身の方です
ご紹介 させて下さいませませm(_ _)m

東海市に 来られましたら
「平洲記念館」も あります
かおりん^ ^で よろしかったら
ご案内させて頂きます☆彡^ ^…


細井平洲
細井平洲(ほそいへいしゅう)は、江戸時代の儒学者。米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山の師として、多くの教えを残しています。
細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海 市)に農家の二男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵に師事。18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3 年間にわたって中国人について中国語を学びました。
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾「嚶鳴館」を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。
実学を重んじ、経世済民(世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの藩の賓師として迎えられました。
明和元年(1764)、平洲が37歳のとき米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあ たりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君と うたわれました。平洲と鷹山の終生かわらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。
安永9年(1780)尾張藩主徳川宗睦の侍講となり、また、尾張藩校の初代督学となって藩学の振興につとめました。さらに藩内各地で廻村講話(講演会)を開き庶民教育にも努めました。
享和元年(1801)6月29日、74歳で江戸でなくなり、お墓は、東京浅草の天嶽院にあり、東京都の旧跡に指定されています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれ、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。
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