【一言でよい、愛の言葉がけを】4078
正法寺住職、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…
「ワシャアしょうもない男でしてなあ」
走り出すと同時にタクシーの運転手が語りかけてきました。
「稼いだ金は全部マージャンなどの遊びに使ってしまい、一銭も家には入れない。
女房は一言も文句をいわずに『お父さんの稼いだお金だから、ご自由にお使いください』といい、子供は女房が一生懸命働いて、立派に教育してくれました。
女房は器量が悪いので、どこかへ行くときは『うしろから離れてついてこい』などといって、ひどい亭主でした。
自分で稼いだ金だけでは足りなくて、女房に『借せろ(名古屋弁で「借せ」の意)』とまでいいましてね。
あるとき、女房に『金を借せろ』といいました。
女房が『まあ、お父さん、お茶でも飲みましょう』といってパイナップルの缶詰を持ち出してきたのです。
“金を借せろというのに何がお茶だ”と思っていました。
女房が缶詰をあけたら、中に百円玉や五百円玉がいっぱい詰まっていましてネ。
『お父さん、少しずつ少しずつ貯金したものです。今これっきりないですが、よかったらこれ使ってください』というんです。
私は頭をぶんなぐられる思いがしましてネ。
すまなかった!とほんとうにあやまりました。
それから私の人生観は百八十度変わりました。
せめてもの罪ほろぼしの思いで、月に一度、女房と女房の親しくしている友達とを車に乗せて、女房の好きな温泉めぐりをしておりますんですよ」
私はしみじみと、道元禅師の「愛語よく廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり」のお言葉の実例をまのあたりに見聞する思いで、運転手に礼をいって降りたことでした。
「廻天の力」というのは天子さえも方向転換させる力、ということです。
「綸言(りんげん)汗の如し」といって、天子が一度いい出したことは、たとえそれが道にかなわないことであっても、「ごもっとも」と通さねばならない。
一度出た汗はひっこめることができないように。
その天子の心さえも、方向転換させる力を持っているのが、愛語だというのです。
中国・唐の名君の誉れ高い太宗にこんな話が伝えられています。
あるとき、太宗が洛陽宮(らくようきゅう)を修復しようといい出しました。
皇帝が何か事業をしようとすると、多くの民衆がかり出される。
たまたま農繁期であったのでしょう。
今かり出されたら農民は困ります。
民衆を困らせることは皇帝にとってもよいことではない。
そこで諫議(かんぎ)という皇帝のご意見番の張玄素(ちょうげんそ)が「今はそのときではない」と真心を傾けて進言しました。
太宗はこの忠言を是として受け入れ、宮殿の修復をとりやめた。
功臣の魏徴(ぎちょう)が「張、公事を論ずるに廻天の力あり」と讃嘆(さんたん)の言葉を惜しまなかったといいます。
道元禅師はこの魏徴の言葉と共に、さらに別のところで「明主に非(あら)ざるよりは忠言を容(い)るることなし」の一句を添えておられます。
とかく後輩とか弟子や子供に非を指摘されると、先輩とか師匠や親の面子(めんつ)にかかわるような気がして、素直に受け入れられないものです。
大切なことは、そのことが道理にかなっているか否かなのであり、道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがう。
それがあるべき姿でしょう。
しかしそれができるのは明君であればこそ、というのです。
愛語ということで思いおこすことがあります。
インドにマザー・テレサを訪ねたときのこと。
路上生活者たちに炊き出しをする。
一人ひとりにパンとスープを手渡すのですが、マザーはシスターたちに三つのことを、その度にたしかめたといいます。
「あなたたちは、受けとる一人ひとりにほほえみかけたでしょうね。
ちょっと手を触れて、ぬくもりを伝えましたか。
短い言葉がけを忘れはしなかったでしょうね」と。
ほほえみかける。
いつくしみの眼と顔で。
仏教ではこれを慈眼施(じげんせ)、和顔施(わげんせ)といいます。
そっと手を触れてぬくもりを伝える。
心のぬくもりを肌を通して伝える、心慮施(しんりょせ)といえましょう。
一言でよい、愛の言葉がけを、愛語施です。
それらはすべて深い愛の心、慈悲の心のあらわれで、それが人々の心を安らかにし、あるいは萎えた心を立ちあがらせ、あるいは百八十度方向転換させる力を持っているというのです。
心して愛語の、愛心の配達者になれたらと、念ずることです。
『泥があるから花は咲く』幻冬舎
https://amzn.to/32CrHq2
人は、年下や、後輩、子供に、何か注意されたり、意見されると、なかなかそれを聞き入れることができない。
聞き入れられないどころが、カッとなって孫を殺してしまった年寄りもいた。
道元禅師のおっしゃる通り、「道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがうこと」が大切だ。
年をとったら丸くなるのではなく、むしろ我慢ができなくなったり、自分の本来の姿や、欠点が出てきてしまう人が多い。
そういう人は、行動範囲が狭くなったり、新たな知識のインプットもなくなり、好奇心もなくなっていく。
結果として、人間関係も狭まり、生活もマンネリとなって、許容範囲が狭くなるからだ。
そして、若者の行動や価値観を許容できなくなる。
反対に、いつまでも若者たちと一緒に飲んだり、騒いだりできる人は、常に新しい知識をインプットしたり、新しいことに好奇心旺盛(おうせい)だ。
そして、そのことで自分の許容範囲を広げている。
すると、いくつになっても、新たな人間関係が広がってくる。
人間関係を円滑に行うための大事な要素が、愛語だ。
愛語があれば、老若男女、上下わけへだてなく、親しく付き合うことができる。
「ていねいな言葉」「あたたかい言葉」「やさしい言葉」「思いやりに満ちた言葉」。
一言でよい、愛の言葉がけができる人でありたい。
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正法寺住職、愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…
「ワシャアしょうもない男でしてなあ」
走り出すと同時にタクシーの運転手が語りかけてきました。
「稼いだ金は全部マージャンなどの遊びに使ってしまい、一銭も家には入れない。
女房は一言も文句をいわずに『お父さんの稼いだお金だから、ご自由にお使いください』といい、子供は女房が一生懸命働いて、立派に教育してくれました。
女房は器量が悪いので、どこかへ行くときは『うしろから離れてついてこい』などといって、ひどい亭主でした。
自分で稼いだ金だけでは足りなくて、女房に『借せろ(名古屋弁で「借せ」の意)』とまでいいましてね。
あるとき、女房に『金を借せろ』といいました。
女房が『まあ、お父さん、お茶でも飲みましょう』といってパイナップルの缶詰を持ち出してきたのです。
“金を借せろというのに何がお茶だ”と思っていました。
女房が缶詰をあけたら、中に百円玉や五百円玉がいっぱい詰まっていましてネ。
『お父さん、少しずつ少しずつ貯金したものです。今これっきりないですが、よかったらこれ使ってください』というんです。
私は頭をぶんなぐられる思いがしましてネ。
すまなかった!とほんとうにあやまりました。
それから私の人生観は百八十度変わりました。
せめてもの罪ほろぼしの思いで、月に一度、女房と女房の親しくしている友達とを車に乗せて、女房の好きな温泉めぐりをしておりますんですよ」
私はしみじみと、道元禅師の「愛語よく廻天(かいてん)の力あることを学(がく)すべきなり」のお言葉の実例をまのあたりに見聞する思いで、運転手に礼をいって降りたことでした。
「廻天の力」というのは天子さえも方向転換させる力、ということです。
「綸言(りんげん)汗の如し」といって、天子が一度いい出したことは、たとえそれが道にかなわないことであっても、「ごもっとも」と通さねばならない。
一度出た汗はひっこめることができないように。
その天子の心さえも、方向転換させる力を持っているのが、愛語だというのです。
中国・唐の名君の誉れ高い太宗にこんな話が伝えられています。
あるとき、太宗が洛陽宮(らくようきゅう)を修復しようといい出しました。
皇帝が何か事業をしようとすると、多くの民衆がかり出される。
たまたま農繁期であったのでしょう。
今かり出されたら農民は困ります。
民衆を困らせることは皇帝にとってもよいことではない。
そこで諫議(かんぎ)という皇帝のご意見番の張玄素(ちょうげんそ)が「今はそのときではない」と真心を傾けて進言しました。
太宗はこの忠言を是として受け入れ、宮殿の修復をとりやめた。
功臣の魏徴(ぎちょう)が「張、公事を論ずるに廻天の力あり」と讃嘆(さんたん)の言葉を惜しまなかったといいます。
道元禅師はこの魏徴の言葉と共に、さらに別のところで「明主に非(あら)ざるよりは忠言を容(い)るることなし」の一句を添えておられます。
とかく後輩とか弟子や子供に非を指摘されると、先輩とか師匠や親の面子(めんつ)にかかわるような気がして、素直に受け入れられないものです。
大切なことは、そのことが道理にかなっているか否かなのであり、道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがう。
それがあるべき姿でしょう。
しかしそれができるのは明君であればこそ、というのです。
愛語ということで思いおこすことがあります。
インドにマザー・テレサを訪ねたときのこと。
路上生活者たちに炊き出しをする。
一人ひとりにパンとスープを手渡すのですが、マザーはシスターたちに三つのことを、その度にたしかめたといいます。
「あなたたちは、受けとる一人ひとりにほほえみかけたでしょうね。
ちょっと手を触れて、ぬくもりを伝えましたか。
短い言葉がけを忘れはしなかったでしょうね」と。
ほほえみかける。
いつくしみの眼と顔で。
仏教ではこれを慈眼施(じげんせ)、和顔施(わげんせ)といいます。
そっと手を触れてぬくもりを伝える。
心のぬくもりを肌を通して伝える、心慮施(しんりょせ)といえましょう。
一言でよい、愛の言葉がけを、愛語施です。
それらはすべて深い愛の心、慈悲の心のあらわれで、それが人々の心を安らかにし、あるいは萎えた心を立ちあがらせ、あるいは百八十度方向転換させる力を持っているというのです。
心して愛語の、愛心の配達者になれたらと、念ずることです。
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聞き入れられないどころが、カッとなって孫を殺してしまった年寄りもいた。
道元禅師のおっしゃる通り、「道理にかなったことならば、相手が誰であろうとそれにしたがうこと」が大切だ。
年をとったら丸くなるのではなく、むしろ我慢ができなくなったり、自分の本来の姿や、欠点が出てきてしまう人が多い。
そういう人は、行動範囲が狭くなったり、新たな知識のインプットもなくなり、好奇心もなくなっていく。
結果として、人間関係も狭まり、生活もマンネリとなって、許容範囲が狭くなるからだ。
そして、若者の行動や価値観を許容できなくなる。
反対に、いつまでも若者たちと一緒に飲んだり、騒いだりできる人は、常に新しい知識をインプットしたり、新しいことに好奇心旺盛(おうせい)だ。
そして、そのことで自分の許容範囲を広げている。
すると、いくつになっても、新たな人間関係が広がってくる。
人間関係を円滑に行うための大事な要素が、愛語だ。
愛語があれば、老若男女、上下わけへだてなく、親しく付き合うことができる。
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