
【「魂」が成長できるとき】5140
筑波大名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
なぜ生を受けたか、なぜ死ぬのかという根源的な疑問には、誰も答えてくれません。
「あの世」があるのかどうかも、多くの人は答えることができません。
そういう話はいかがわしい話だと、幼い頃から刷り込まれているからです。
私自身、あの世は死んでから行く場所だと思っていましたが、そうではなくて、この世にもあの世があるのだと知りました。
これは、天外伺朗さん(作家、工学博士、 元ソニー上席常務)が教えてくれました。
死んでから行くというよりも、生きている現世であの世を「感じるか、感じないか」、たったそれだけの違いだと。
その考え方がとても興味深くておもしろいのです。
つまり、スイッチがオンの状態なのか、オフの状態なのかという違いです。
そうすると、あの世はどこにあるのだという議論になりますが、あの世は常に自分のすぐそばにあると考えると納得しやすいのではないかと。
「膜(まく)一枚で区分されている」「つながっているがステージが違う」など、このテーマについては識者たちにも色々な意見があるようで、私も本当のところはわかりません が、少なくともそれを身近に考えることで、より自然に受け入れることができるとは 思います。
今の日本人は、死をもっとも恐れている民族のひとつだそうです。
京都大学大学院 のカール・ベッカー教授(人間・環境学研究科)と対談したことがありますが、最近の日本人は死というものを見たくない、できるだけ避けて恐れるそうです。
五、六○ 年前の日本人はそうではなく、あの世を信じて死を自然なものとして受け止めていたのに、現代の日本人は死を異常なまでに恐れていると言うのです。
死という問題を解決しなければ、人間は幸せになれません。
魂が永遠の命みたいなものであり、肉体的な命はなくなるけれども魂はずっと続く。
そう考えると、死がそれほど恐いものではないと理解でき、少し不自由だけれども肉体というものを伴って現世に滞在し、時期が来れば元いた場所に帰って行くという仕組みが腑に落ちます。
すると死は、そもそも問題視されるものではないとわかります。
だから、少しチクッと言わせていただくと、巷で人気のアンチエイジングはムダなのです。
エイジング、つまり加齢という自然法則には勝てません。
アンチエイジングは、きわめて不自然です。
なぜ、アンチなのかが理解できません。
むしろ「見事に死ぬ」「どう老いるか」を論じるほうが、健康的で自然です。
昔は老いることが敬われました。
死というものを自然に受け入れていました。
ところが、今はアンチエイジングだらけで、むしろ医師が率先してそれを焚きつけているから手に負えません。
医師がそんな態度だから、一般の人も老いることをすごく嫌がります。
その結果、死を忌み嫌い、死に蓋をして見たがらない傾向に拍車をかけているのです。
とても不自然です。
テレビでも新聞でもインターネットでも、どこもかしこも健康食品ブームです。
いつまでもピンピンしていないと不安だという人たちが、それに飛びつきます。
そんなことはありえないわけで、いくらアンチエイジングに励んでも、必ず死にます。
それが、少しだけ延びるか延びないかだけです。
『神(サムシング・グレート)と見えない世界』祥伝社新書
https://amzn.to/3VQ7lDl
輪廻とは、英語ではリインカーネーション(Reincarnation)。
生まれ変わりのことだ。
「輪廻転生」といもいうが、これは仏教だけでなく、ヒンドゥー教やインド哲学、古代のエジプトやギリシャなど、古来より、世界各地にこの考え方はある。
もし、生まれ変わりがあるとするなら、この世で罪を犯せば、次の世に生まれ変わったときに、その罪を引き継がなければならない。
逆に言うなら、この世で徳を積めば、その徳は次に生まれ変わったときに、引き継ぐことができる。
小林正観さんは、生まれ変わりについてこう語る。
『「魂」が成長できるのは、「肉体を持ったときだけ」。
なぜなら、「魂」だけで過ごしているときは、「事件」が起きないから。
魂が、この地球に肉体を持って生まれ変わったとき、肉体がある分、さまざまな制約や事件にさらされる。
「食べなければいけないこと」「寝なければいけないこと」「トイレに行かなければいけないこと」…。
また、病気になったり、人間関係で悩んだり、恋愛をしたり、夫婦喧嘩も親子喧嘩も、すべて肉体があるからこそ。
「魂の成長」には、事故、病気、災難などが必要だ。
病気によって、優しさを知り、事故にあって謙虚さを知るから。』(もうひとつの幸せ論/ダイヤモンド社)より要約抜粋。
輪廻の考え方からすると、「死」がなければ生まれ変わりは起きない。
「死」は、次の「生」へのスタートだから。
また、「老いること」に関しては、佐藤一斎の『言志四録』の中の有名な言葉がある。
「少にして学べば 壮にして為すこと有り。
壮にして学べば 老いて衰えず。
老いて学べば 死して朽ちず」
青少年の若い頃に学べば、壮年(中年)になって、ひとかどの仕事を成し遂(と)げることができる。
壮年になっても学び続ければ、気力胆力が衰えることはない。
老年になっても学び続けることができれば、見識はより深くなり、死後もその名声が朽(く)ちることはない。
年齢とともに、人間的魅力を増し、人間的成熟を深めていく人のことを「貴老(きろう)の人」という。
安岡正篤師は、「老人に対して貴老と呼ぶ。好い語である。老人はいつまでも愚老になってはいけない」という。
貴老であるには、何事にも興味を持つこと、そして学び続けること。
「新しいことを創(はじ)める思いがある限り、人はいつまでも若くいることができる」(マルティン・ブーバー/宗教哲学者)
いくつになっても、「好奇心」と「学び」を忘れず…
「魂」を磨き続ける人でありたい。
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筑波大名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…
なぜ生を受けたか、なぜ死ぬのかという根源的な疑問には、誰も答えてくれません。
「あの世」があるのかどうかも、多くの人は答えることができません。
そういう話はいかがわしい話だと、幼い頃から刷り込まれているからです。
私自身、あの世は死んでから行く場所だと思っていましたが、そうではなくて、この世にもあの世があるのだと知りました。
これは、天外伺朗さん(作家、工学博士、 元ソニー上席常務)が教えてくれました。
死んでから行くというよりも、生きている現世であの世を「感じるか、感じないか」、たったそれだけの違いだと。
その考え方がとても興味深くておもしろいのです。
つまり、スイッチがオンの状態なのか、オフの状態なのかという違いです。
そうすると、あの世はどこにあるのだという議論になりますが、あの世は常に自分のすぐそばにあると考えると納得しやすいのではないかと。
「膜(まく)一枚で区分されている」「つながっているがステージが違う」など、このテーマについては識者たちにも色々な意見があるようで、私も本当のところはわかりません が、少なくともそれを身近に考えることで、より自然に受け入れることができるとは 思います。
今の日本人は、死をもっとも恐れている民族のひとつだそうです。
京都大学大学院 のカール・ベッカー教授(人間・環境学研究科)と対談したことがありますが、最近の日本人は死というものを見たくない、できるだけ避けて恐れるそうです。
五、六○ 年前の日本人はそうではなく、あの世を信じて死を自然なものとして受け止めていたのに、現代の日本人は死を異常なまでに恐れていると言うのです。
死という問題を解決しなければ、人間は幸せになれません。
魂が永遠の命みたいなものであり、肉体的な命はなくなるけれども魂はずっと続く。
そう考えると、死がそれほど恐いものではないと理解でき、少し不自由だけれども肉体というものを伴って現世に滞在し、時期が来れば元いた場所に帰って行くという仕組みが腑に落ちます。
すると死は、そもそも問題視されるものではないとわかります。
だから、少しチクッと言わせていただくと、巷で人気のアンチエイジングはムダなのです。
エイジング、つまり加齢という自然法則には勝てません。
アンチエイジングは、きわめて不自然です。
なぜ、アンチなのかが理解できません。
むしろ「見事に死ぬ」「どう老いるか」を論じるほうが、健康的で自然です。
昔は老いることが敬われました。
死というものを自然に受け入れていました。
ところが、今はアンチエイジングだらけで、むしろ医師が率先してそれを焚きつけているから手に負えません。
医師がそんな態度だから、一般の人も老いることをすごく嫌がります。
その結果、死を忌み嫌い、死に蓋をして見たがらない傾向に拍車をかけているのです。
とても不自然です。
テレビでも新聞でもインターネットでも、どこもかしこも健康食品ブームです。
いつまでもピンピンしていないと不安だという人たちが、それに飛びつきます。
そんなことはありえないわけで、いくらアンチエイジングに励んでも、必ず死にます。
それが、少しだけ延びるか延びないかだけです。
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輪廻とは、英語ではリインカーネーション(Reincarnation)。
生まれ変わりのことだ。
「輪廻転生」といもいうが、これは仏教だけでなく、ヒンドゥー教やインド哲学、古代のエジプトやギリシャなど、古来より、世界各地にこの考え方はある。
もし、生まれ変わりがあるとするなら、この世で罪を犯せば、次の世に生まれ変わったときに、その罪を引き継がなければならない。
逆に言うなら、この世で徳を積めば、その徳は次に生まれ変わったときに、引き継ぐことができる。
小林正観さんは、生まれ変わりについてこう語る。
『「魂」が成長できるのは、「肉体を持ったときだけ」。
なぜなら、「魂」だけで過ごしているときは、「事件」が起きないから。
魂が、この地球に肉体を持って生まれ変わったとき、肉体がある分、さまざまな制約や事件にさらされる。
「食べなければいけないこと」「寝なければいけないこと」「トイレに行かなければいけないこと」…。
また、病気になったり、人間関係で悩んだり、恋愛をしたり、夫婦喧嘩も親子喧嘩も、すべて肉体があるからこそ。
「魂の成長」には、事故、病気、災難などが必要だ。
病気によって、優しさを知り、事故にあって謙虚さを知るから。』(もうひとつの幸せ論/ダイヤモンド社)より要約抜粋。
輪廻の考え方からすると、「死」がなければ生まれ変わりは起きない。
「死」は、次の「生」へのスタートだから。
また、「老いること」に関しては、佐藤一斎の『言志四録』の中の有名な言葉がある。
「少にして学べば 壮にして為すこと有り。
壮にして学べば 老いて衰えず。
老いて学べば 死して朽ちず」
青少年の若い頃に学べば、壮年(中年)になって、ひとかどの仕事を成し遂(と)げることができる。
壮年になっても学び続ければ、気力胆力が衰えることはない。
老年になっても学び続けることができれば、見識はより深くなり、死後もその名声が朽(く)ちることはない。
年齢とともに、人間的魅力を増し、人間的成熟を深めていく人のことを「貴老(きろう)の人」という。
安岡正篤師は、「老人に対して貴老と呼ぶ。好い語である。老人はいつまでも愚老になってはいけない」という。
貴老であるには、何事にも興味を持つこと、そして学び続けること。
「新しいことを創(はじ)める思いがある限り、人はいつまでも若くいることができる」(マルティン・ブーバー/宗教哲学者)
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