
【教養としての教養とは】5357
角田陽一郎氏の心に響く言葉より…
文章の書き方の名著『論文の教室』の著者で、名古屋大学の戸田山和久(とだやまかずひさ)教授が「教養の書」 で述べているのですが、もともと教養は「教養する」という動詞で、〈結果〉ではなく〈プロセス〉であるとのことです。
教養は一定の知量があるのではなく、普段日々いかに人がそれぞれ育んでいくか? という行為なのです。
つまり、教養を得るためには(教養のある人になるには)、ある一定のレベルの知識・情報・テクニックを知ることよりも、その教養を自分がどう捉えるか?
その教養を、他者と、社会と、世界と、どう接続するか?
その教養を、自分がどう楽しむか?
その教養で、自分が、他者が、社会が、世界が、どう教養されるのか? という、まさに教養を培(つちか)う上での教養が必要なんだと思うのです。
この本のタイトルの“教養としての教養”とは、まさにそんな意味なのです。
皆さんは、これからの未来を明るいと思っていますか? それともこれからの未来を暗く不安なものと感じていますか?
未来を不安に思っている人たちの多くは、最近の身の回りの暮らしや、学校や職場や社会や日本や世界で起こっている数々の事件や出来事が、今まで予想もしなかったような状態で 起こっているからではないでしょうか?
つまり、“なんだかよくわからない”ことが起こっている、だから未来はわたしたちにとってなんだか得体の知れないものになっているのかも知れません。
もしそうだとしたら、その予感は当たっています。
今、わたしたちは、人類が今まで経験してきた歴史上のさまざまな変化の中でも、最大級の変化かも知れない“なんだかよくわからない”変化に遭遇しているのです。
“なんだかよくわからない”から不安なのです。
ならば、その“なんだかよくわからない"変化とはなんなのか?を知ってみよう。
それが、教養なんだと思うのです。
僕はそう考えて、この本を書きました。
テレビのバラエティ番組を楽しむように、気楽な心で、なんとなくの日々の憂さ晴らしに、なんならちょっと知的好奇心が刺激されたのなら、そしてまた違うアクションに、出会いに、 勉強に、仕事に、人生に繋がったのなら、それこそがまさに教養を“教養する”ことなんだと思うのです。
一緒に、教養としての教養を、広く、そこそこ深く、楽しんでまいりましょう。
『教養としての教養』クロスメディア・パブリッシング
https://amzn.to/42b3ClT
角田陽一郎氏は「歴史を教養する」という。
『歴史を教養する行為を「歴史思考」と呼んでいる。
歴史というのも、こういうことが過去に起こったという結果ではなく、そのことがどう進んでいったのかというプロセスそのもの。
「歴史する」という歴史のプロセスに思いを馳(は)せること。』
『そんなわけで、1990年に東京大学文学部に進学し、西洋史学科で「フランス革命とナポレオン」を専攻したのでした。
卒論のテーマは「独裁者ナポレオンの登場はフランス革命の一部なのか?」。
フランス革命に限らず世界のほとんどの革命は、独裁者を倒して民衆に権力を奪還するという理想で勃発するのに、結局また最後には新たな独裁者を生んでしまう傾向があり、そのなんか「せっかくダイエットしてもリバウンドしちゃう」みたいな“歴史のやるせなさ”というか“人間の弱さ”の真意を知りたいと思ったからなのでした。』
「せっかくダイエットしてもリバウンドしちゃう」というのは、政治や様々な組織の中で頻繁に起こっている。
たとえば、町内会や会社などで、会長(社長)が3選(9年)を狙っているのを阻止して、新たに会長(社長)になった人が4選(12年)を果たしてしまった、というような例だ。
教養としての教養を楽しめる人でありたい。
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角田陽一郎氏の心に響く言葉より…
文章の書き方の名著『論文の教室』の著者で、名古屋大学の戸田山和久(とだやまかずひさ)教授が「教養の書」 で述べているのですが、もともと教養は「教養する」という動詞で、〈結果〉ではなく〈プロセス〉であるとのことです。
教養は一定の知量があるのではなく、普段日々いかに人がそれぞれ育んでいくか? という行為なのです。
つまり、教養を得るためには(教養のある人になるには)、ある一定のレベルの知識・情報・テクニックを知ることよりも、その教養を自分がどう捉えるか?
その教養を、他者と、社会と、世界と、どう接続するか?
その教養を、自分がどう楽しむか?
その教養で、自分が、他者が、社会が、世界が、どう教養されるのか? という、まさに教養を培(つちか)う上での教養が必要なんだと思うのです。
この本のタイトルの“教養としての教養”とは、まさにそんな意味なのです。
皆さんは、これからの未来を明るいと思っていますか? それともこれからの未来を暗く不安なものと感じていますか?
未来を不安に思っている人たちの多くは、最近の身の回りの暮らしや、学校や職場や社会や日本や世界で起こっている数々の事件や出来事が、今まで予想もしなかったような状態で 起こっているからではないでしょうか?
つまり、“なんだかよくわからない”ことが起こっている、だから未来はわたしたちにとってなんだか得体の知れないものになっているのかも知れません。
もしそうだとしたら、その予感は当たっています。
今、わたしたちは、人類が今まで経験してきた歴史上のさまざまな変化の中でも、最大級の変化かも知れない“なんだかよくわからない”変化に遭遇しているのです。
“なんだかよくわからない”から不安なのです。
ならば、その“なんだかよくわからない"変化とはなんなのか?を知ってみよう。
それが、教養なんだと思うのです。
僕はそう考えて、この本を書きました。
テレビのバラエティ番組を楽しむように、気楽な心で、なんとなくの日々の憂さ晴らしに、なんならちょっと知的好奇心が刺激されたのなら、そしてまた違うアクションに、出会いに、 勉強に、仕事に、人生に繋がったのなら、それこそがまさに教養を“教養する”ことなんだと思うのです。
一緒に、教養としての教養を、広く、そこそこ深く、楽しんでまいりましょう。
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角田陽一郎氏は「歴史を教養する」という。
『歴史を教養する行為を「歴史思考」と呼んでいる。
歴史というのも、こういうことが過去に起こったという結果ではなく、そのことがどう進んでいったのかというプロセスそのもの。
「歴史する」という歴史のプロセスに思いを馳(は)せること。』
『そんなわけで、1990年に東京大学文学部に進学し、西洋史学科で「フランス革命とナポレオン」を専攻したのでした。
卒論のテーマは「独裁者ナポレオンの登場はフランス革命の一部なのか?」。
フランス革命に限らず世界のほとんどの革命は、独裁者を倒して民衆に権力を奪還するという理想で勃発するのに、結局また最後には新たな独裁者を生んでしまう傾向があり、そのなんか「せっかくダイエットしてもリバウンドしちゃう」みたいな“歴史のやるせなさ”というか“人間の弱さ”の真意を知りたいと思ったからなのでした。』
「せっかくダイエットしてもリバウンドしちゃう」というのは、政治や様々な組織の中で頻繁に起こっている。
たとえば、町内会や会社などで、会長(社長)が3選(9年)を狙っているのを阻止して、新たに会長(社長)になった人が4選(12年)を果たしてしまった、というような例だ。
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