- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

備後人名録

2017年12月17日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
備後人名録
鴎外自筆のノートで、『北条霞亭』の資料となった。
内容は、山路伯美『未開牡丹詩』、江木戩(鰐水)『福山風雅集稿本』、鈴木宜山・伊藤竹坡『献頌篇』(または『献頌詩巻』)の3著より作成した人名録である。『福山風雅集』は『北条霞亭』その九十九で、おなじく『献頌篇』はその九十九とその百六で、それぞれ言及されている。(出)


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山路熊太郎:山路機谷のもう一つの顔

2017年08月10日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
矢野天哉には山路熊太郎に関する小論考がある。山路は郷土の偉人として形象化され、昭和10年ごろは官位追贈運動さかんな時代だった。郷土史家矢野天哉の素晴らしいところは山路機谷一人の功績としてされた部分には親の代に行われたもの含まれているとその間違いを指摘し山路機谷神話の問題点に対して一石を投じた点だ。


古書店で見つけた「某大学図書館廃棄本」の中に中山富広「近世の経済発展と地方社会-芸備の都市と農村-」、清文堂、2005,380頁という書籍があった。ずいぶん前に郷土史関係の参考書として土井作治「幕藩制国家の展開」、渓水社、1985と共に購入していたものだ。
昨日それを見ていて面白い記事を見つけた。それは山路熊太郎の商魂の逞しさを伝えるエピソードを記した次のような文章だ。


現在の呉市域の「広」というところの新田開発に芸備地方の富豪たちが群がり、不在地主制のネットを張っていった中に、尾道在住の備前屋林蔵名義の土地が幕末期にはなんと20町歩もあったという。地方(じかた)史料(@浦)によると備前屋林蔵は名義上そうなっているだけで、実際の持ち主は備後国沼隈郡の山路熊太郎だと山路の抜け目のないやり口(大手遊郭経営への進出)を記録しているようなのだ(後日確認予定///確認済み)。こうしたことは中山さんが指摘するほど大問題なのかな?!参考までに芸州領への進出に関しては池田春美編『山路機谷先生伝』、70-71頁にも言及あり。

中山富広さんが紹介している話はこうだ。


山路の親戚の備前屋(広島藩領内の尾道、尾道の代表的な娼家と言えば新地や新開を拠点とした、この備前屋・明里屋・枡平楼・・『尾道市史』中巻、548㌻)が絶家没落状態にあったので、広島藩領安芸・高田郡・高田屋祐四郎の子を熊太郎の養子にして、備前屋の跡継ぎに据え、尾道会所に備前屋再興を申し出た。これを知った「広」在住の宇都宮某は以前経験した備前屋との金銭問題でのこじれから、備前屋を背後で操っていた山路家に対して不満を持っていたらしく、こうした山路のやり口は広島藩領での経済取引(反則行為)を支障なく行うための布石にしか過ぎないとの不信感を口にしていたらしい。山路の金銭的な野心は土地取得だけに留まらず、備前屋の名跡を使って「広」の某酒造メーカーを買収し、地元の住民:麻吉にその経営を任せていたことからも明白なのだと。

山路は「心如水(こころは水のごとし)」という言葉を好み、とても質素でそこらの農夫のような感じで農作業を楽しむ人だったとされている。しかし、バリバリのやり手事業家といえば聞こえはよいが、ときおり他者から失笑を買うような、普通に欲深で、自己顕示欲旺盛な別の顔も持ちあわせていたようだ。
安政3年に山路機谷編『未開牡丹詩』(頼三樹三郎・森田節斎ら幕府から思想犯・政治犯としてにらまれている人物らの漢詩も掲載)の序文の中で江木鰐水曰く「器機を製造して、以て戦備を成す。是 之を養うの術なり。機谷 此の集を梓するの寓意此に在るか。若(も)し果然(かぜん)ならば 何ぞ更に金を献じ、艦を造り砲を鋳して 以て海防の佐(たすけ)とせざらんや。」と、皮肉交じり。

「余曰く機谷の風流 猶ほ故あるか、余則ち暇あらざるなり」・・・・江木の目から見るとこんな国難に直面している時期に、「宇宙第一の花を詠い、雅筵(がえん)を日東第一の楼に開くは、分けて甚(はなはだ) 快に過ぐるなり」と言い放ってご満悦の機谷に対して何をノー天気なことをという思いが強かっただろうが、当初はしぶっていた江木だったが山路の催促を最終的には断りきれなかったようだ。
すなわち、江木は機谷を評して曰く「官の事有る毎に金を献じ、費(ついえ)を佐(たす)くるの志は国の為に在り」と。

富豪山路家としても持ちつ持たれつの関係を構築していた福山藩からの度重なる献金要請(or山路家としても藩側からの献金要請に対して 御国恩)に答えるためにはお金儲けに関してなりふりには構っておれなかったというところがあったのか、否か・・・
福山藩側からの無心については池田『山路機谷先生伝』70-71頁参照。

郷土では偉人として尊敬されてきた山路だが、やはり熊太郎と機谷という表の顔と裏の顔とをうまく使い分けていたというべきだろう。
今津宿の西のはずれにある陰陽石大明神境内が右衛門七:山路熊太郎家のものであることを最近突き止めたが、人を使って信仰とビジネスとをうまく結びつけた、その抜け目なさ、いや何もない宿駅にホットスポット(名所)を新造して魅力ある町づくりに貢献したその着想力にはある種感服させられたものだ。ここは江戸時代のいつの頃からか諸侯が通過するときには参拝するのが通例となっていた(福山学生会雑誌記事)。

ご神体の「陰陽石」、大正期にはこの井戸水が御霊水とされた・・・他愛もない「陰陽石」・「御霊水」話ではある。ちなみに境内地の所有権は山路氏没落後、大久保平櫛(又四郎)氏に譲渡されている。

わたしの山路関連の記事

〇『未開牡丹詩』編纂から判ることは幕末期の沼隈郡内の豪農層の思想傾向は薩長において典型的だった「武芸稽古」型ではなく、それとは対極にある「詩文書画」型だったことを示唆する。
柴田一「播磨における尊皇思想家の存在形態」、有元編『近世瀬戸内農村の研究』、渓水社、1988、475-495頁
は「詩文書画」型の典型として河野鉄兜を取り上げている。河野は討幕派(武闘派)からみれば裏切り者視されたようで、尊皇(攘夷ー開国)、尊皇討幕➡大政奉還での路線面で「詩文書画」派の連中は武闘を回避する方向で傍観者を決め込んでいったか(。柴田一自身は河野鉄兜の尊攘激派から決別した大政奉還論者であった側面に注目)。なお、森田節斎も天誅組に加担した自分の弟子を跳ね上がりもの視していたようだ。『節齊遺稿上』中の上中川親王あての一文の中で森田は刀剣殉国ではなく文筆殉国を推奨するなど勤王志士との路線の違いは明白だった。



山路機谷の遺著(実質的には森田節斎の著書か?全26巻)書籍はこんな感じ
何種類か見かけたが、このような学習書や教養書(寄贈物リスト中〇印のないものは尾道市立中央図書館蔵外)だった白雪楼版の印刷物表紙はこんな感じ。白雪楼版は数点見たが、論語に関するもの、文字・作文に関するものいずれをとっても初学者向け教科書(往来物)限定。
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備中国賀夜郡服織(服部)郷図写

2017年07月25日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
稲吉は在庁官人系の名主の仮名(けみょう)だ。福富・稲吉いずれも五穀豊穣をイメージさせる縁起のよい呼称(佳名・瑞称)。多分この稲吉は窪木在住の祢屋氏のご先祖だろう。


⇒服部郷図考聞書(附:備中国賀夜郡服部郷図)(KW293.4/1)を検索

岡山県立大学キャンパスおよび長良山一帯に服部(織)郷の故地がある。備中国府の膝下にある関係で、稲吉は在庁官人であっただろうと考えられている。

この図面をみると国衙の支配する公田(くでん)が、鎌倉・室町時代に服織郷という備中国衙の御膝元に当たる場所に立地する律令時代以来の行政単位内において、如何に名田または名(みょう)と呼ばれる中世的な支配・収取単位に再編成され、その名田を基礎とする支配・収取体制=名体制が当該中世郷において成立していたかを知る手掛かりが得られるのだが、稲吉というのはその名体制を支えた服織郷内最有力の名主の仮名(けみょう)という訳だ。稲吉名は名田の多さから考えて国衙の役人(在庁官人)を兼ねるような、あるいはそれを出自とした服織郷の在地領主の名(領主名)といえる特別な存在だった。名田は一定の行政単位内において一定箇所にまとまった形で存在したり、逆に散在するケースなど様々だ。

【余談】この辺りは備中足守(陣屋町)・・・・旧藩主の息子で詩人木下利玄(旧陣屋は足守小学校)とか大坂に適塾を開いた緒方洪庵の生地、鬼ノ城(未探訪)などあるようだが、神護寺領足守庄やこの服部郷、平安貴族たちの配流地とされた備中中山一帯を中心にむかし京都から日帰りでよく調査に来ていたものだ。
足守八幡にジャンボな板絵荘園図が奉納されている。
こんなところ(岡山市足守)・・・・服部の隣町だ


追記)
新納 泉・久野 修義・今津 勝紀『地理情報システムを用いた歴史的地域景観復元のための技術的検討』、2003年 - 2007年度日本学術振興会 科学研究費助成事業 特定領域研究 特定領域研究
(1)「備中国賀陽郡服部郷図」の現地比定を進め、二つの角度を異にする条里体系がひとつの整合的な条里の図に合成されたものであることを明らかにした。これによって、従来、現地比定に問題を残していた栢寺廃寺跡の位置も矛盾がなくなり、土豪「稲吉」の本拠地も現在の窪木集落であることがほぼ明らかになった。また、「服部郷図」の西寄りに空白の区画が存在することの意味についても、二つの条里体系を合成する際に生じた空白であることがわかった。
(2)上記の新しい成果が得られたため、結果を「『備中国賀陽郡服部郷図』の再検討」という報告書にまとめ刊行した。
(3)一部になお課題が残るものの、「服部郷図」の現地比定がほぼ終了し、本研究課題の目的である歴史的地域景観を復元するための、古代の定点となる「額田寺伽藍並条里図」と中世の定点となる「服部郷図」が揃ったことで、来年度の地理情報システムを用いた開発のプロセスや景観の復元を行うための基礎的データが整備されたことになる。
(4)条里を復元するために画像上に自由に方眼を描く機能を、昨年度に開発したDrawGridのプログラムに付加した。これにより、条里の検討がさらに容易になった。
(5)すでに開発しているGISmapのプログラムに、NASAが提供しているSRTMのDVD版に対応する機能や、国土地理院の5mメッシュDEMに対応する機能を付加した。
(6)地形等の三次元データを画像化し自由に影をつけて形を観察するプログラムを開発した。
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今秋予定の史料調査のためのあいさつ回りのついでに

2017年06月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
大久保・平櫛家の第9代目又策(1873‐1968) 隣は明治4年没(享年48歳)の第七世彦助清忠墓。又策の親父の墓が・・・・第8世善四郎忠則(1846-1910)。大久保平櫛家は2代にわたって津ノ郷村青景氏から養子を迎える。第六世は小左衛門忠友(1798-1879)、青景栄蔵4男。女系一族のようだ。「幕末期今津宿図(1866)」では「又四郎」とある。隣家は「民蔵」とあるが平櫛「民助」の可能性も。又四郎の件に関してはその当時の平櫛家のご当主なら彦助のはず。善四郎は当時弱冠20歳。又四郎・・・・。それはともかく墓地は今津・善性寺の傍だが、菩提寺は本郷・東蔵坊。参考までに過去帳に記載された「小左衛門」は今津村元禄検地帳には不在(だが、寛政期には今津村組頭、松永村元禄検地帳には「小左衞門」あり)。近似した名前としては東・東剣脇に屋敷と田畑を持った「小右衛門」と柳津在住で字宮ノ下に田畑をもった小右衛門がある。
松永・承天寺にある東屋小川家墓地の墓石にある今津・平櫛とはおそらく昔からの姻戚関係からみて大久保・平櫛家のことだろうと思う。


大久保・平櫛家は又策の6女(末娘、大正9年生まれ、またさく54歳の時の子供、苗字は嫁ぎ先の苗字:川上)が健在で、今のうちに史料調査を済ませておかないと・・・・。本家は都会から帰ってきた未亡人の姉郁子が次いで、今はその子孫がご当主。公儀名は小左衛門か善四郎(前者の可能性大)
。元禄検地帳記載の「善四郎」をこれまで大久保・平櫛家と考えてきたが・・・又策さん作成の「過去帳」を見るとそうなっていない。

770番地「平櫛又四郎」は確かに明治・野取帳に記載在り、幕末~明治初期にかけての大久保平櫛家のご当主

東蔵坊遠景。弘徳協会での史料調査依頼に訪問。ここはなかなか時間のかかるところの印象。


中学時代の恩師のお墓詣り・・この寺の第十五世住職だった。お寺(大法寺)の参道、境内、居住棟などすべてが新装されていた。ここは本郷の板屋佐藤家(江戸初期の庄屋)の菩提寺。本郷銅山の実質的経営を古志氏から任されていた家筋でないかとわたしが推定している佐藤武彦家。そういえば本郷町御領の南続き、安毛の「金堀下池」あたりの丘陵(尾根筋)に居住する佐藤喜左衛門家あたりが・・・・・。信原家も本郷銅山一帯に山林をもつ。


昨年7月のゲリラ豪雨で城山の山体の一部が崩落。これが大法寺の参道正面の風景だ。


大法寺から松永湾方面を見ると、戸崎あたりが丸見え。大宝寺の立地点は城山(古志氏の居城)の眼下という場所だがここからのこの眺望は何か意味がありそうだ。たぶん、昔のことだから風水地理を考えた寺の配置だろう。



本郷温泉峡入口にある佐藤武彦家と大法寺は関係が深いようだ。佐藤武彦家は千人坑一帯の山林地主。






楼門が新築されたようだが、伝承では本郷・城山から移築された古志氏山城の城門だったといわれるもの。
本郷城山周辺には昌源寺(尾道・渋谷家文書48号に沼隈郡神村「正源寺」供僧田の記述あり)に城主古志の供養塔があり、そしてこの寺の傳城門遺構あり、さらには前述のとおり浦崎半島の松永湾の入り口が見渡せる樹木を伐採後の大法寺山門前といい、学問的にはなんの根拠も示せないが、わくわくするような歴史小説的な筋書きが描ける歴史の現場がわたしの脳裏に去来する。


本郷・石井一族の共同墓地@清光寺(毛利氏が破却)境内。福島・毛利時代を通じて石井家の菩提寺である神村・本郷の真言宗寺院はいずれも破却されたようだ(尾道渋谷家文書中の「打渡坪付」の分析にを通じて毛利氏による天正惣国検地を契機としてその痕跡を確認済⇒文化財ふくやま誌59号、2024に小論考「天正19年12月27日沼隈郡神村打渡坪付からみた・・・」という形で論究済)。毛利氏は山陽道筋の沼隈郡神村・伊勢宮さんをおそらく沿道の守護神として指定したのだろうか、「新座伊勢・・」という名前で給地を与えていた。

清光寺境内の石井家墓地


石井家墓地からの眺め


土井屋石井氏の家門


土井川と土井屋石井屋敷、大平山周辺に2,3町歩の柿畑を経営


浄土真宗善性寺周辺に大久保平櫛家墓地を発見。古いお墓は整理されていて不在。小左衛門・善四郎などの名前を確認。ここでの収穫はこれだけ。


本日最大の収穫はこちら・・・この地方の墓地の配置と社寺建設時の大口寄進者との関係が少しわかりかけてきた。
機織屋岩井氏・竹原屋高橋氏は善性寺本堂裏に。竹原屋は本庄重政が塩田を造成したときに移住してきた製塩業者。大木屋岡本氏は神村・万福寺墓地。いずれも浄土真宗。高橋氏は竹原・尾道・浦崎に根を張っている印象だ。松永の形成に深く関わってもいる。



このずんぐりした太めの石柱墓は薬師寺墓地に一基ある(享保期の尾道屋の女房)。尾道屋は承天寺。

こちらは門人建立墓、機会があれば後日確認調査したい(調査済み・・『松永町誌』433頁記載の竹原屋高橋七左衞門維清の五男・高橋要平墓:ご本人は機織屋武井要助の女婿、子息は本家竹原屋高橋壽介=高橋西山の養子=高橋碧山、武井節庵の教え子)。墓石は神村萬福寺から現在地に移動したもの。


今津・善性寺門徒
村上憲平は竹本屋村上氏、もと高校校長。


史料調査の方は今秋ということで所蔵者の同意を得た。


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防地番所の現在ーカメラ片手にブラブラー

2017年04月29日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

正面にかつての番所役人の子孫:岩田氏の方が住む新居。一帯は工業団地・住宅団地が造成され、峠の景観が昔とは一変。




防水シートを被せられた岩田さんの旧宅とその眼下の新宅。旧宅はかつての番所屋敷(間口6間、奥行き3間、それに裏付属屋、まことにこじんまりとした職住混合型建築物だ)。番所役人というのは、福山城下の士長長屋の住人のように四書五経には通じていても慎ましい生活を余儀なくされてきた人たちだったのだろう。




正面は左右対称形

浸食によって地盤が大きく削られ建物の基礎の石組が露出


防地峠、手前(福山藩)側は高須町、向こう(芸州藩)側は久保町,子供時代に一度父親に連れてこられた記憶がある。それ以来の防地峠




福山藩側番所役人の子孫・岩田家の墓地。家紋は卍、高須町普門寺門徒の麻生氏(屋号:土居)と同じ。幕末期のご先祖は簑島村の庄屋の出だったとか。岩田という名字は福山市内では水呑・古野上辺りに多い。


番所屋敷の立地する低山の頂部を構成する海成の砂礫層(地質図では沖積世とするが洪積世),
不整合面の下の小石交じりの砂層にラミナが・・・。一帯は地形的には福山市本郷町御領丘陵に対応する。


芸州藩側に当たる久保町1193番地の住宅。

この石組は旧芸藩時代の番所遺構の一部か

岩田家旧宅(番所屋敷)脇に打ち捨てられた石臼を発見。我が家の石臼に比べ相当に貧弱。廃藩置県後は耐乏生活を強いられたか。いまとなってはこの建物、貴重な文化財だ。


一度壊されたか。


防地上池堰堤の「南無阿弥陀仏」石碑。左右の石仏の類似物は善勝寺境内から千光寺参道沿いなどでも散見される。








尾道市久保町1193番地から見た尾道水道・・社叢林は久保の八幡さん、その隣に巨大瓦で有名な真宗浄泉寺。向島の通称”兼吉の丘”は山頂部に龍王碑がある(いわゆる雨乞い神事の行われた龍王山を意味する)。しかし、地図では「地王山」と表示。大林映画尾道三部作のロケ地の一つ。
2017年4月撮影

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岸浩編著『資料 毛利氏八箇国御時代分限帳』まつの書店、1987

2017年03月06日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
岸浩編著『資料 毛利氏八箇国御時代分限帳』まつの書店、1987の編著者岸は獣医さんだった人らしい。まことにユニークな御仁だ。見た目大著だが、内容的には数十ページの小冊子級(刊本なので便利さのあまり、正誤表なしの状態の岸氏の本書を活用するが、念のため山口県文書館毛利家文庫蔵『貞享二年八箇国御時代分限帳』に直接当たってみるべきかも・・)。



徳山のマツノ書店は学生時代に『
防長地下上申』全巻を購入する友人に連れられていったことがある。こういう資料を制作してしまう長州藩と『備後郡村誌』や『福山志料』程度しか出せなかった福山藩との差はどうしようもなく大きい


延享期に山田五左衛門家に伝わってきた毛利氏の『八ヶ国御配地絵図』に記載された天正惣国検地の結果(文字注記)だけを抜き出して簿冊化し藩に提出したものらしい。まだ『八ヶ国御配地絵図』の現物には当たっていないのだが、とりあえずということで、今回は岸の編著書を図書館から借り出し、備後国(沼隈郡:毛利氏が支配下においた石高は8369石、御調郡:8704石、女房衆分の配地だけで沼隈郡は1300石余とダントツに多い)関係のデータを調べることにした訳だ。ここで紹介するのはその一部だ。興味のある人は標記の書籍を直接紐解いて見てほしい。なお蛇足ながら、女房衆分の多さは毛利一族に娘を差し出した人物(未特定)が沼隈郡にいたことを示唆するものだろう。

岸浩は『八ヶ国御配地絵図』に記載された天正惣国検地の結果(文字注記)が正しくテータ化されているかという問題を絵図にあたって逐一調べ直すという作業は不十分、この辺が一番よくない・・・・要するに結構ずぼらな史料集なのだ





毛利氏八箇国支配時代の領域支配のあり方の一端がうかがえ、興味深い内容だ。
以下では一例として備後国分


高須荘内に拠点を置いた高須三郎左衛門(杉原氏)の名前がある。

高須(洲)氏といえば日明貿易に深くかかわった家筋。福建省の港町普江(アモイの近く)から明船が赤間ヶ関か備後・尾道(尾路)港には来ていたようだ。



1450)尾道に拠点を置いて新庄に支配地を有した毛利氏の海の御用商人;渋谷与右衛門尉の名前もある。
沼隈郡に180石の給地を与えられていた。これは古志氏からの押収分のことだろう.渋谷は沼隈郡新庄にも領地を有したがこれは含まれていないのだろうか。


268)新座 今伊勢は神村の伊勢宮さんのこと。新座という語に誤りがなければこの神社は山陽道筋の要地に新らたに造営されたのだろう。今伊勢、今津(浦)そして今宮(大元神社境内の一角に高須八幡を新造営)。これらの地名に付与された接頭辞=今(New)は何か意味ありそうだが、いまのところ不明。

御調郡「うか島」は尾道水道に立地する「宇賀島(小歌島 おかじま)」(近世史料では「をか島」を通称)。

1864‐1866)白木は旧沼隈郡山南村の白木(新良貴)かな~(要確認)。



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カメラ片手にブラブラ

2017年02月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


「君の発音はアメリカ南部訛りがあるね」といっていた高一時代の英語教師永井◇彦先生とおぼしき老人発見。
わたしの現在の細やかな英語力は大学受験時代に通信の英語添削の先生(北海道大学の学生)に煽てられたのが契機となり、主として大学に入ってから今日までに身に着けたものだ。長江一丁目界隈に来ると、私自身不思議だな~と感じることなのだが、高校時代の恩師(慈観寺住職で数学の河野先生)からいろいろ感化を受けていたことを実感出来る。

高校時代の同級生:本◇正子(つくだ煮屋 本多里治商店の娘)の消息も今回分かった。














今津屋村上は徳三郎名なので長波・長庵あたりの村上徳〇〇系となんか関係がありそう。




写真に写っている範囲の最奥の山にはほぼチャリで上った感じだ。






スカートをはいた母校の後輩と勝手にチャリで競走してみたが、赤信号をクリアーする技術(頭脳的プレイ)の差で、結局追いつくことはなくやく1.5キロの区間で200メートル以上離されて、結局当方の完敗に終わった。
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地租改正時における旧岡見山荒神一帯の薬師寺所有地-中世沼隈郡新庄研究/その2-

2017年01月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
緑色で表示した区域は明治初期の今津村野取帳に記載された旧岡見山荒神一帯の薬師寺所有地。

元禄検地帳に字「岡見山」の「荒神社」の記載があり、台風で剣大明神社脇の「岡見堂」が壊れたという記事が地方文書にある。この岡見山は「龗(おかみ)山」であった可能性もあるのだ。言うまでも無くこの龗は龍の古語だ。
この区域の一部に「門前」という地名があったことを矢野天哉の手稿本で見たことがある。わたしは剣大明神の鳥居前なのに不思議だな~と感じていたが・・・・。江戸中期に蓮華寺の山門が建立されたのでこれ関連のものなんだろと勝手に想像し、その時は深くは追究しなかった。

【メモ】旧末広町に「新川」という小地名があり、それを長波の某氏が屋号にしていると矢野は注記していたが、この新川については『松永村古図』に記載があった。藤井川の新川は橋の名前にのこっているが,起源的には旧末広町のそれと共通したものだ。

剣大明神の参道と西国街道の交差点角に前元楼・田新という2件の旅籠があったがその土地は薬師寺有だったし、剣大明神の鳥居前の道路状広場の両側も同様であり、そこには旧暦7月の剣社祭礼時の常設芝居小屋や臨時の出店が設営された。芝居小屋が立ったのもそこであった。つまり、福山藩における興行場としては鞆・祇園社と一宮さんの宮内の鳥居前とこの剣大明神の鳥居前が公認され、賑わいを見せていたのだが、剣社における興行場は薬師寺所有地であった点はとりあえず注目されてよかろう(元禄期における薬師寺の土地所有状況に関しては確認中)。
江戸時代における各種の興行が社寺境内で行われ、住職や一部の住民が勧進元となるケースが多かった
以下はもしかしたらといったレベルの話なのだが、かつて戦国時代には存在し元禄期には消滅した南方院という場所的位置付けで金剛寺(法灯的には薬師寺に統合、金剛寺の本尊:如意輪観音は現在薬師寺本堂にある)が一帯にあり、今回指摘した場所は系譜的にはそれと何か関係があるものだったのかとも思い始めたところだが、確たる証拠は得られていない。




明治末に大道芸人たちの便宜置籍地として今津村が使われたわけだが、大きく言えば、それは盛り場として発達してきた剣大明神鳥居前の歴史と役者の世話人栄虎(平櫛氏・・・確証はないが、絶家状態の平櫛直治郎さんヵ:明治期の居宅は九州道沿いの鳥居近辺、ジャンボな墓石、大正初年に神社への高額寄付)の存在がそうさせたのだ。
高諸神社鳥居前およびその境内周辺の景観・・・・写真に写ったほぼ鳥居前の全域がかつては薬師寺所有地だった。


この神社境内に置かれた宝篋印塔だがかつて金剛寺境内か岡見堂付近にあったものだろうか。昔は忠魂碑のあった小丘(岡見山)上にあった。現在は小丘を削平し駐車場とされたため、神社境内に移動。


玉垣の親柱に村上重右衛門(竹本屋)の名前が。なお、もう一方の親柱は三藤傳助(長波屋)寄進。


念のため「慶長5(1600)年備後国沼隈郡新庄打渡坪付帳(渋谷家文書)」・・・・この資料の中にわたしが今、直感した点を裏付ける手掛かりがあるような,ないような。わたしの郷土理解は本日一段階上がった気がする。

金剛寺関係の数少ないデータ↓









中世の沼隈郡今津には蓮花寺・金剛寺という寺院があった。前者は江戸中期に西坂より現在地に移転し、現存するが、後者については薬師寺に法灯が継承された後はその場所すら不明である。院号に薬師寺を東方、蓮花寺を西方、金剛寺を南方院と呼んでいる史料があるので今回話題にした現在の高諸神社馬場脇の旧薬師寺所有地がもしかするとその金剛寺と関係したものかも知れないと推測してきたところだが、これまで確たる証拠は得られなかった。だが、最近松井輝昭「厳島神社の弁財天信仰の成立とその成立」、県立広島大学人間文化学部紀要8,137-148頁、2013文保2(1318)制作の『渓嵐拾葉集』(鎌倉時代末成立の天台宗系の「百科全書」、大正新脩大蔵経. 第76巻 :続諸宗部 第7、503-888頁に所収(ただし大正新脩大蔵経所収本は誤植が多々らしく、要注意もの)中に(厳島神社の祭神である)「龍女をもって弁財天に習うこと、云々。龍女すなわち如意輪観音なり」という文言のあることを知った。(松井輝昭氏の論攷に無批判に飛びつくのは私的にはやや危険のようにも思われるが、松井氏の天台宗における弁財天信仰の教学的理解に関しては山本ひろ子「成仏のラディカリズム-「法華経」龍女成仏の中世的展開」、『岩波講座 東洋思想 第十六巻 日本思想2』、1998,及び『異神-中世日本の秘教的世界-』,平凡社、1998に依拠。なお、中世末期における今津金剛寺は真言宗、尾道西国寺末寺)
高諸神社神明記(3)に記載があるとおり、近世剣大明神においてしばしば挙行された「雨乞い神事」は金剛寺の本尊が如意輪観音だったという点に注目して言えば、高諸神社境内に現存する「弁財天岩」と関係した祭礼であったかも知れないのだ。この点に関しては今後証拠を積み重ねて実証していく必要があるが、とりあえず今は一つの作業仮説として現在の高諸神社馬場脇の旧薬師寺所有地は金剛寺の旧境内地であったかもしれないということをここでは提起しておきたい。
高諸神社境内石段脇の弁財天岩(闇龗神社/くらおかみのかみ社・石祠)
弁財天岩の梵字
高諸神社は近年いろいろ説明板を置いているが、この字体のものは正確ではないので要注意。
【メモ】臥雲日件録抜尤」(『続史籍集覧. 第3冊』309-510頁)
『渓嵐拾葉集』(国会図書館デジタルアーカイブ経由にて史料入手済):『渓嵐拾葉集』は、仏教教理のみならず多くの説話や巷説、和歌を含み、中世の思想・文学・歴史を網羅する当時の百科全書

例えば
・瀬戸内の海上信仰調査報告 西部地域 瀬戸内海歴史民俗資料館/編 瀬戸内海歴史民俗資料館 1980
  ※p.211-214「竜神信仰」
・瀬戸内の海上信仰調査報告 東部地域 瀬戸内海歴史民俗資料館/編 瀬戸内海歴史民俗資料館 1979
  ※p.235-237「竜神信仰」
・弁才天信仰と俗信 笹間良彦/著 雄山閣出版 1991.6
  ※p.67-74「厳島神社と弁才天」など。
本書の325-502頁は『渓嵐拾葉集』と宇賀神/異形の弁才天女に関する研究書山本の著書は『渓嵐拾葉集』を正面から捉えたものではなく、坊さん向けの作法に特化した説明で終わる。田中貴子の『渓嵐拾葉集の世界』は貴重な成果だが、内容的には残念ながら研究の入り口段階の著作物。古くは喜田貞吉『福神』の弁才天/宇賀神論などもある。
一般的な文献(歴史民俗学関係)

わたしの場合当然のことであるが従来通り文化人類学・社会人類学的感性から地域史研究を再構築していくことになろう。この種の立場からの研究としては例えば桜井英治『贈与の歴史学-儀礼と経済のあいだ-』、中公新書、2017。
平安・鎌倉遺文中の「龍神」

松永史談会2022年5月例会で報告した関連記事
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広島高等師範学校仏教青年会編『教育と信仰』大正7

2017年01月15日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



巻頭論文は前田慧雲。広島県人の高楠順次郎・富士川游らの名前も。彼らの影響を広島高等師範付属中学に入学したての角倉志朗辺りは間接的には受けたのだろうか。大正デモクラシーの時代は修養と宗教教育(例えば仏教)への注目度が最高潮に達した時代だ。
備後地方では明治10‐20年代に廃仏毀釈の影響でお寺は荒れた状態にあった。明治末には地方の富裕層たちにすり寄る形で再建を図っていくが、大正デモクラシーの時代は全国的なその総仕上げ期、高島平三郎あたりも明治40年代には日蓮宗内の新派の人たち、軍人たちと国家主義的思潮注入のための活動を共にしていた。





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恐れ入りました。粟村吉三行年100歳

2017年01月10日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
このところ左足が痛くて歩行にも困難をきたしていたのだが、薬師寺の墓地調査。


通路手前、首なし地蔵墓の向こう側に明治11年の年号の石柱墓がある。これが粟村吉三のお墓だ。サイズは幾分小ぶり。付近には淳和期の百翁三藤六平の墓石もあった。

尾道屋源次郎妻(享保)墓の後ろ側には松永新涯重助夫婦墓(寛政9)。


その筋向いにあるのがこれ:粟村藤蔵墓。粟村のルーツは沼隈郡西村の粟村氏。『備陽六郡誌』が熊野信仰と関連つけていたあの粟村氏だ。


屋根付きの墓石(江戸中期)は石井孫右衛門(神村屋)系のもの。屋根付き墓石は神村をはじめとした石井一統ではごく一般的というか、そういう面では特徴的な墓石の形だ

武井節庵のお墓の東となりにも粟村姓の墓。粟村姓の墓がかなり集まってる感じだ。


『備陽6郡誌』は沼隈郡・西村の粟村氏と熊野信仰との関係に言及していたが、熊野権現を地主神とするこの寺との関係は・・・・・?

参考)真宗門徒の粟村姓が多い

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『葛原勾当日記』の付録

2017年01月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。



校訂者小倉豊文は広島文理科大学助教授時代に被爆し、唯一生き残り戦後教室の再建に尽力された方。専門は歴史・文学。少年時代に葛原しげる(箏曲家宮城道雄の支援者)から感化を受けた人物で、人生最後の大仕事として齢80歳前後のころ全身全霊を傾けながら校訂作業に取り組んだと記している。
本文316頁。それ以後が付録:語句の註解、地名・寺社名録、年譜、その他各種参考文献(317-375頁)。
小倉の考証編は内容的にやや徹底さを欠く。

例えば

「(松永村扇屋=大木屋岡本氏の)若君2人が剣宮に参詣せらるるに誘われて」というくだりに関し、校訂者の小倉豊文は剣の宮を松永村潮崎神社だとしている(本書340‐341頁)が、これは旧暦7月の祭礼に関する記述であることから判断して明らかにあやまり。正しくは今津・剣大明神のことだ。若君という言い方をしているので扇屋はもしかすると大木屋のことだったかも。まあこの辺は小倉豊文のまったく死角となっている部分だ。


それはそうと
旧暦7月1日条で、「涼しくなり、いよいよ秋になった
こんな文章表現が本当に勾当時代のものであったか否か大いに?マーク。わたしには現代表現そのものにしか思えない(原典に当たってチェックしてみる必要性を感じる)。それ以上に夏祭りの季節に秋を感じる勾当のトンチンカン(否、そうとうにシュール)な感覚にもいささか・・・・・・
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『赤坂村史』中にみられる編集責任者川上順一の不見識、喝!!!

2016年12月29日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
実は川上順一編『赤坂村史』は困った郷土誌だ。
昨日届いたのでページをめくっていたら、な、なんと

口絵部分に置かれた地図が(やむを得ない事情があったのかとは思うが)大正3年沼隈郡明細全図だったとは


藺草に関する記事だが、私淑していた村田露月『柳津村誌』の文章を丸写しした形の流用だ  
赤坂村史編纂員会は村田が健在だった昭和32年に立ち上げられ、村田の指導を仰いでいたようだ。村田が昭和36年に亡くなり、その後は川上が編集主任という形で中心的に本誌の執筆活動に関わって昭和42年に出版にこぎつけたらしい。
川上順一は編集者としては失格。自分の文章と他人の文章との区別をはっきりとさせ、他人のそれに関しては典拠を明示するといった正しい引用の方法を知らなかったのだろうか。



川上は写真の引用先を明示していない。


『柳津村誌』掲載写真の原版(福山城博物館蔵)はこんな感じ。ややピンボケ気味だった。なお、「藺刈風景」の注記はあったが、撮影年次、撮影場所などのメモはなかった。撮影地点が正しく柳津村内であったのか否か、当然問題として吟味されなくてはならないだろ。柳津村誌のゲラ刷りとは別に、別の多数の写真たちとともに幾つかの封筒に入れられていた中の一枚


こういう文章の盗用/流用とか図版類の転用があると郷土史:『赤坂村史』全体の価値と川上自身の編著者としての資質が問われかねまい。

今回紹介したような不正行為を見抜くことは普通の読者だけでなく研究者でさえなかなかできないことだが、より上を目指す人は本を読むときにはこういうケースもあるので日頃より史料に関する批判精神の涵養を心掛けたいものだ。
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煤だらけのある土人形@丹波大山荘

2016年12月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
大山荘調査団編『丹波国大山荘現況調査報告』、(西紀・丹南町文化財調査報告 / 西紀・丹南町教育委員会編, 第3-7集)西紀・丹南町教育委員会, 1985.3-1~4 付録5(のちに一冊の本に)という大部のアカデミズムの中では立派な部類の報告書がある。わたしはこれらの報告書が出された直後からこれらの成果に導かれながらというかやり残しの部分とか、要するに多少あら捜しを兼ねて大山荘の故地を何度か訪れた。
その時の印象ではこういう報告書というのは第一に調査者の自己満足のためのものであって、地域住民にとってはまったく興味も関心もない代物なんだな~と痛感させられたものだ。当時は農林省が音頭を取った田畑の区画整理(圃場整備)事業が全国的に推進され、それを念頭に景観上に残存する荘園史料を記録保存することを目的に、京都大学の大山喬平とその門下生たちが中心となって報告書は書かれた。
地域住民を巻き込んで調査研究することの難しさ、あるいは地域住民を相手にしていては将来を見据えた格調高い調査研究などできないものなんだな~と

大山小学校を近くに二宮神社という小さなお宮さんがあってうっそうとした社叢林の木の間にぽっかりと浮かび上がるように陽光をうけた社殿のたたずまいが実に美しくいまもその時の感動がわたしの頭から離れない。その写真はむかしFlickrのわたしのサイトに掲載していたが、いまは写真の原版ともども行方不明。わたしの思い出の中にかすかに残っているだけだ(忘れていたが木彫の恵比寿大黒は2階の床の間に飾りっぱなし)。

その社殿の裏側に回ると油煙を浴びたのか煤だらけの土人形がたくさん打ち捨てられていた。
あれから20年。我が家にその一体がある。ゴミ捨て場からものを持ち帰るようないやな気持がしたが、おそらく炊事場に置かれていたのだろう、なかでも油煙でねっとりする感じの煤だらけ状態の汚い大黒さんが私の目を引いた。その表情のすばらしさに・・・・こうして今なお、我が家にあり続けている。
それがこれ


大みそかの日に神棚を掃除していたら小さな3体の恵比寿・大国さん土人形が見つかった。小さな土人形は旧宅時代の床の間にはたくさんあったように記憶するが、残っているものの中にはそのうちの1体と思われるものもあった。


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葛原勾当日記の嘉永5年

2016年12月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
勾当41歳、働き盛り嘉永5年の記事11月。
11月2日 福山に着き、江良屋・黒鉄屋を回り、6日に柳津着。そこに2週間滞在し、19日昼から尾道へ。一週間滞在し26日尾道から柳津へ。4日間滞在し、30日舟にて尾道へ。

11月7日の和歌だが「上もなき仏の御名唱えつつ地獄の種を蒔かぬ日ぞなき」
これは稽古をつける時、こころを鬼にして弟子に対し、スパルタ式特訓をする自らの厳しい指導態度を自省の念を込めつつ詠んだものだろうか。

11月日 日記文の「寒ければまた同じ。教えぬさかいに
下線部の「さかいに」は関西のお笑い芸人が「●●や、さかいに」という言い方をする時の言い回しに似ている。
"絶え間なく落ち来る滝の白玉は千代を重ねるためしなるらし"、かく詠みて短冊にして贈ったが、しかし、面白き歌とも思われぬようにおます(安政4年2月、223頁)。
関西弁(”やさかい”、”おます”などは商人言葉ないしは丁稚言葉風)!
「後ろから雪風に吹きたてられて早かった」とか「罪を置き土産にし、帰る」といった勾当のユーモア表現が印象的。
福山での買い物品目は健常者と変わらない。

柳津


11月30日の記事から勾当は尾道ー柳津間を船で移動していたことが判る。屏風絵の柳津の常夜灯は船着き場の存在を示唆し、同時にそれが燈台的機能を有したことを伺わせる。

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山郷を形成していた柳津・神村・今津の村々

2016年12月21日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
「神村新庄奥野山」。これは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山についての記述だが、これら三ヶ村は神村/新庄に属し、そこの奥、つまり神村/新庄奥の野山を共有していたことを示唆したもの。松永・柳津及び今津の一部は神村八幡の氏子圏であり、かつ藩政村柳津村の全域に中世の新庄つるぎ浦が入り込んでいたことを考えると「神村新庄」は中世以来の「神村」「新庄」とが併存しながら混在していたことを示唆した荘園制遺制を引きづった呼称だと判ろう。『柳津村明細帳』に記載され、そこは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山ではあるが、他村内に飛び地としてあることを断っていないので、ここに言う「神村新庄奥野山」とは三か村入会の、藩政村柳津村内の奥山を指したものだろう。だとすれば神村新庄奥野山をめぐって柳津・神村・今津とは中世荘園遺制を引きずるかたちで一種の「山郷」を形成していたことが判る。水利関係を通じて郷を形成する例はよくあるが、山郷という呼称は殆どの人は知らないかもしれない。珍しい言葉として筆者が気にかけているのが『備陽六郡志』などの古地誌類に登場する「ホノケ(「一村の内小名を以て分かつ、俚諺にアサ又はホノケ」とか「観音寺と言える寺跡ホノケ」)」という言葉だ。土佐国の長宗我部検地帳には「ホノギ」という形で普通に登場する語だが、福山藩あたりでは昔は「ホノケ」の語が常用語されていたらしい。

村田露月『柳津村誌』、昭和33.

寺迫山・伊勢山下(かつてこの地字に金山彦神社立地、神村町には2箇所現存)、新庄奥山家上


関連記事:中世荘園制遺制:砂揚げ祭り

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