藤井与一右衛門(黒金屋)・山路右衛門七(岡本)・石井四郎三郎(入江屋)、村上重右衛門(竹本屋)が地主の主だったところで、そのほかに石井保次郎(益田屋)・平櫛又四郎(大久保)といったところが挙げられる。彼らの所有地が多いのは沖田地区の往還南側と今回紹介する爲安だ。
地元の自作農:大村仁左衛門(大村軍太の親父か御祖父さん)の所有地を参考のため入れて置いた。
字爲安の138筆の農地のうち、51筆が何人かの不在地主と在地の資産家(中小地主だが竹本屋・村上重右衛門)の所有地であった。石井四郎三郎の所有地は本郷川の堤防沿いにあり、『松永市本郷町誌』にも同町管内の本郷川河岸には同人の所有地がかなりあったと記述をしており、もしかすると福山藩による本郷川堤防の普請が石井四郎三郎のお手伝いのもと行われたか・・・・。
この辺りの問題は藩側の史料での確認が必要だ。
ところが農地解放前後には土地所有関係は大きく変化し、ほとんどが地元民による自作地に。この史料を見る限り、尾庵・村上薫の場合と異なり、竹本屋は【不在地主】として扱われたのか農地は完全に小作人の手に渡った感じだ。大久保平櫛又策さんは一時期地元銀行の重役をしたりしていたが、農地解放で田地を失い、大きなショックを受けたようだ。
1981-83番地の土地(生産性の低い、崖下の低湿田)の所有者名に大村軍太(野取帳では大村仁左衛門)とある。
爲安河原(写真中央部、榎の大木のある、白壁の土塀をもつジャンボサイズの居宅が村上重右衛門家住宅)
現在の爲安地区
地元の自作農:大村仁左衛門(大村軍太の親父か御祖父さん)の所有地を参考のため入れて置いた。
字爲安の138筆の農地のうち、51筆が何人かの不在地主と在地の資産家(中小地主だが竹本屋・村上重右衛門)の所有地であった。石井四郎三郎の所有地は本郷川の堤防沿いにあり、『松永市本郷町誌』にも同町管内の本郷川河岸には同人の所有地がかなりあったと記述をしており、もしかすると福山藩による本郷川堤防の普請が石井四郎三郎のお手伝いのもと行われたか・・・・。
この辺りの問題は藩側の史料での確認が必要だ。
ところが農地解放前後には土地所有関係は大きく変化し、ほとんどが地元民による自作地に。この史料を見る限り、尾庵・村上薫の場合と異なり、竹本屋は【不在地主】として扱われたのか農地は完全に小作人の手に渡った感じだ。大久保平櫛又策さんは一時期地元銀行の重役をしたりしていたが、農地解放で田地を失い、大きなショックを受けたようだ。
1981-83番地の土地(生産性の低い、崖下の低湿田)の所有者名に大村軍太(野取帳では大村仁左衛門)とある。
爲安河原(写真中央部、榎の大木のある、白壁の土塀をもつジャンボサイズの居宅が村上重右衛門家住宅)
現在の爲安地区