「神村新庄奥野山」。これは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山についての記述だが、これら三ヶ村は神村/新庄に属し、そこの奥、つまり神村/新庄奥の野山を共有していたことを示唆したもの。松永・柳津及び今津の一部は神村八幡の氏子圏であり、かつ藩政村柳津村の全域に中世の新庄つるぎ浦が入り込んでいたことを考えると「神村新庄」は中世以来の「神村」「新庄」とが併存しながら混在していたことを示唆した荘園制遺制を引きづった呼称だと判ろう。『柳津村明細帳』に記載され、そこは柳津・神村・今津の三ヶ村入会山ではあるが、他村内に飛び地としてあることを断っていないので、ここに言う「神村新庄奥野山」とは三か村入会の、藩政村柳津村内の奥山を指したものだろう。だとすれば神村新庄奥野山をめぐって柳津・神村・今津とは中世荘園遺制を引きずるかたちで一種の「山郷」を形成していたことが判る。水利関係を通じて郷を形成する例はよくあるが、山郷という呼称は殆どの人は知らないかもしれない。珍しい言葉として筆者が気にかけているのが『備陽六郡志』などの古地誌類に登場する「ホノケ(「一村の内小名を以て分かつ、俚諺にアサ又はホノケ」とか「観音寺と言える寺跡ホノケ」)」という言葉だ。土佐国の長宗我部検地帳には「ホノギ」という形で普通に登場する語だが、福山藩あたりでは昔は「ホノケ」の語が常用語されていたらしい。
村田露月『柳津村誌』、昭和33.
寺迫山・伊勢山下(かつてこの地字に金山彦神社立地、神村町には2箇所現存)、新庄奥山家上
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村田露月『柳津村誌』、昭和33.
寺迫山・伊勢山下(かつてこの地字に金山彦神社立地、神村町には2箇所現存)、新庄奥山家上
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