- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

失われゆく宿駅景観-福山市今津町字「町」編-

2020年11月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津宿の旧問屋場跡(與左衞門⇒竹本屋村上重右衛門(松永村及び今津村の元禄検地帳に公儀名「重右衛門」、廻船業・高利貸/不動産賃貸業。野取帳には旧今津湊、番屋隣及びタマ土手沿いにも土地建物を所有)⇒明治25年熊田佐助⇒明治27年尾道町十四日町672番地居住天野又兵衛⇒明治33年角灰屋橋本吉兵衛⇒明治34年沖村喜助⇒大正4年沖村徳三郎)の痕跡も昨年(2019年10月27日)の「沖村家住宅」解体によってかつての面影は失われてしまった。下の写真は2017年に撮ったもので、昔の面影が多少なりとも残っていた。旧問屋場の直上には旧郷蔵(井上家住宅)。向こう隣に当たる東隣に725~726番地は木村駒吉⇒明治41年・木村恒松⇒明治41年木村定吉⇒大正3年木村恒松⇒昭和9年木村理人⇒同年井上義郎(柿渋製造所)

隣家の井田惣三郎宅裏(郷蔵直下)は旧「馬屋」
今津村野取帳にみる剣大明神鳥居前の旅籠

山内丈助⇒山内享太郎(旅籠:「田新」、剣大明神祭礼時に馬場両側の薬師寺所有夜店敷地の使用権を持っていた)。馬場を挟んで向いの薬師寺所有地に旅籠:前元楼(前新屋三藤氏)があった。


図中のA=旅籠屋「福喜」(福喜屋)の立地した三島徳七屋敷は明治10年代以後分筆が始まり、一部は一時村上重右衛門へ譲渡、その後明治33年に三島喜十郎の手を経て明治42年に三島徳七の相続人三島茂男が買戻すが、同時に茂男は屋敷地の一部を明治43年に芦品郡府中町の稲田徳太郎に譲渡。これらの土地は大正14年粟村七兵衛(カネダイ醤油経営)、大正15年には779-2番地だけは稲田⇒近田須美子の手に渡っている。粟村七兵衛が昭和35年(競売にかけられ所有権移転)まで所有していた土地には映画館「吾妻館」(779-1,779-5/779~6/779-7)が立地。B・Cは薬師寺所有地で、ここには幕末明治期にかけてB=「田新」C=「前元楼」という2軒の旅籠が立地。今津湊の前新新涯側の堤防には松原が続いていたが、1947年10月10日米軍撮影の空中写真には神社境内(裏御池)となった北端の1本だけが戦時中に伐採されず写っている。上の掲載画像では字「中新開」北端部を今津湊としているが、この点は尚、要確認事項としておく。


関連記事
GoogleMap の左肩三本線:「メニュ」欄を開き、「ストリートビュー」へ


歴史小説家森本『福山藩明治維新史』記載の宿屋「田新」に止宿した福山城攻略のための長州藩部隊の話題は非常に具体的で面白いのだが、森本が想像を巡らして制作した作り話だ。
【メモ】森本さんは誠之館高校かどこかの元高校教師で、たくさんの広島県県内の歴史書なども書いている多作な著述家だが、私の感覚では基本的に文学-歴史の間を遊泳した方で、まともな歴史研究者としては残念ながら大きく道を踏み外している御仁だ。村上正名さんの方がごまかしや嘘が少ない。
福山藩では文化期ごろから神辺宿以西には御小休所が何カ所か設置され、例えば今津本陣近辺では西町の入江屋石井四郎三郎屋敷(割烹料理の”大吉”一帯)がその機能を果たした。

B=「田新」C=「前元楼」の経営者前新屋・三藤寿太郎氏や山内亨太郎氏は高諸神社馬場に市立ての時は露店用の地所をなかり得ていた。この点の史料(明治初年)はこのわたしのBLOGのどこかに掲載済み↓。

今津湊を高諸神社の海側地先に設定しているが、吾妻橋脇(昔の今津小学校脇の松林及び本郷川河原辺り)一帯は江戸時代は薬師寺・廻船業者竹本屋村上重右衛門所有地。明治期に今津尋常小学校用地となる。なお、この辺りは本郷川の潮汐限界点に当たる。
関連メモ:吾妻橋のところの元豆腐屋の菅野氏の屋号は「〇〇丸」(出自は因島の船頭、豆腐屋は分家・・屋号は福山市歴史資料室蔵若木屋文書矢野天哉のメモノート綴より、船の名前を屋号にしたケースは沼隈郡浦崎村海老の田頭姓の住人の中にかなり見受けられる。この田頭姓の同族集団の出自は伊予国弓削島・御調郡因島)。今津・平櫛吉太郎は渡船業(阿伏兎沖かどこかで持ち船事故を起こしたことあり・・・この話は寺岡千代蔵『漁村教育』国会図書館デジタルアーカイブか何かで読んだことあり・・・要確認)。
コメント