第1コリントの手紙第13章
13節「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。
この13章「愛の賛歌」は、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい」(12章31節)から始まる。つまり多くの賜物の中で「愛」が最も優れた大いなるものと告げている。そして14章1節「愛を追い求めなさい」と続く。
1~3節 主語は「わたし」で、自分のこととして実際的な問い掛けをする。4~8節から「愛は~」となる。
まず12章28~29節を受けて「異言と預言」について語る。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼(どら)、やかましいシンバル」(1節)。「銅鑼」「シンバル」は宗教儀式に用いる楽器で、人の感情を盛り立てる打ってつけの効果音、思考停止させ忘我の心境に誘う。
2~3節「山を動かすほどの完全な信仰」「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」。自分の高めるだけの信仰、栄誉を求める慈善行為、名声を得ようとする死は、愛がなければ、虚しく、無益であると告げられる。口語訳「自分のからだを焼かれるために渡しても」とあるが殉教でなく自分の死を美化する意味である。
「愛がなければ」(1、2、3節)とあるが、最高の賜物としての愛とすれば、人が愛そうと懸命に努力奮闘して得られる人間愛でないことは明らかである。
お互いが「キリストのからだ」につながる部分であり、相互に調和し、共存して行く愛は、神がキリストによって示している愛である(ヨハネ福音書15章12節)。この愛を一般的な自然の愛=「兄弟愛、友愛」(フィレオー)と区別して、「アガペー」(1、2、3、4、8節)として表わす。「性愛」(エロス)は新約には出てこない。
4節から主語が「愛」で、7節までに愛の働きが15ある。「愛は~でない」が八つ「愛は~である」は七つ挙げられる。「愛」に「わたし」と入れ替えて読むと、否定が肯定に、肯定が否定になってしまう。つまり自らの愛の不完全さが暴露される。
4節「愛は忍耐強い。愛は情け深い」。口語訳「愛は寛容であり」七度を七十倍まで赦すキリストの愛が示される。「ねたまない」他者を認める。「愛は自慢せず」は他者と比較して自分を褒めない。5節「高ぶらない」は自負しない。「礼を失せず」荒荒しく聞かず苦しいことを言わない。「自分の利益を求めず」他者への配慮を持つ。「いらだたない」機嫌を悪くすることがない。「恨みを抱かない」、悪を心に記帳しない。6節「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。記帳しない理由はこれである。7節「すべてを忍び」はすべてを覆い隠す意味になる(創世記9章20~22節、Ⅰペテロ4章8節)。「すべてを信じる」は、すべて最善を信じることに熱心である(モファット)。疑い深くないのである。「すべてを望む」は、あらゆる状況下で希望を抱く(同上)。
8~13節では、この愛が永遠性と完全性とを持つことが示される。つまり預言や異言、知識は一部分であり不完全な部分をもっているが、この愛はキリストの日を待望して生きる者には、すべてを明らかに教え示してくれる根拠となる。今は幼児らしい知り方であるが、「その時」(主の日)には明解に判断し理解できるのである。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。
13節「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。
この13章「愛の賛歌」は、「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に務めなさい」(12章31節)から始まる。つまり多くの賜物の中で「愛」が最も優れた大いなるものと告げている。そして14章1節「愛を追い求めなさい」と続く。
1~3節 主語は「わたし」で、自分のこととして実際的な問い掛けをする。4~8節から「愛は~」となる。
まず12章28~29節を受けて「異言と預言」について語る。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしい銅鑼(どら)、やかましいシンバル」(1節)。「銅鑼」「シンバル」は宗教儀式に用いる楽器で、人の感情を盛り立てる打ってつけの効果音、思考停止させ忘我の心境に誘う。
2~3節「山を動かすほどの完全な信仰」「全財産を貧しい人々のために使い尽くす」「誇ろうとしてわが身を死に引き渡す」。自分の高めるだけの信仰、栄誉を求める慈善行為、名声を得ようとする死は、愛がなければ、虚しく、無益であると告げられる。口語訳「自分のからだを焼かれるために渡しても」とあるが殉教でなく自分の死を美化する意味である。
「愛がなければ」(1、2、3節)とあるが、最高の賜物としての愛とすれば、人が愛そうと懸命に努力奮闘して得られる人間愛でないことは明らかである。
お互いが「キリストのからだ」につながる部分であり、相互に調和し、共存して行く愛は、神がキリストによって示している愛である(ヨハネ福音書15章12節)。この愛を一般的な自然の愛=「兄弟愛、友愛」(フィレオー)と区別して、「アガペー」(1、2、3、4、8節)として表わす。「性愛」(エロス)は新約には出てこない。
4節から主語が「愛」で、7節までに愛の働きが15ある。「愛は~でない」が八つ「愛は~である」は七つ挙げられる。「愛」に「わたし」と入れ替えて読むと、否定が肯定に、肯定が否定になってしまう。つまり自らの愛の不完全さが暴露される。
4節「愛は忍耐強い。愛は情け深い」。口語訳「愛は寛容であり」七度を七十倍まで赦すキリストの愛が示される。「ねたまない」他者を認める。「愛は自慢せず」は他者と比較して自分を褒めない。5節「高ぶらない」は自負しない。「礼を失せず」荒荒しく聞かず苦しいことを言わない。「自分の利益を求めず」他者への配慮を持つ。「いらだたない」機嫌を悪くすることがない。「恨みを抱かない」、悪を心に記帳しない。6節「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」。記帳しない理由はこれである。7節「すべてを忍び」はすべてを覆い隠す意味になる(創世記9章20~22節、Ⅰペテロ4章8節)。「すべてを信じる」は、すべて最善を信じることに熱心である(モファット)。疑い深くないのである。「すべてを望む」は、あらゆる状況下で希望を抱く(同上)。
8~13節では、この愛が永遠性と完全性とを持つことが示される。つまり預言や異言、知識は一部分であり不完全な部分をもっているが、この愛はキリストの日を待望して生きる者には、すべてを明らかに教え示してくれる根拠となる。今は幼児らしい知り方であるが、「その時」(主の日)には明解に判断し理解できるのである。
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」(口語訳)。