第1コリント手紙第16章
22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」(新共同訳)
1~4節 エルサレム教会のための救援募金
紀元47~48年にユダヤ地方に飢饉が起きアジア諸教会は救援募金を行った(使徒言行録11章27節)。
2節「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。募金の方法から、教会生活が具体的に伺える。既に主の復活日に礼拝が守られていた。教会は一週毎に、各自の収入の中から感謝して、その一部を集めている。
5~12節 旅行の計画
パウロの牧会的な労苦が伺われる。
9節「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」。五旬節までエフェソに滞在する理由を述べ(5~8節)、コリントに行く気持ちが語られる。反対者とは、グノーシス(主知主義者)だけでなく、彼の使徒職を批判する者や、教会内部のトラブルなどが想定されている。
13~24節 終りの挨拶
「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」(13節)。「目を覚ましていなさい」は歴史の完成者、主イエスが再臨する終末の日に対する心備え(マルコ13章35~37節、第1テサロニケ5章2~4節)。眠りの状態は無防備で判断が奪われる。誘惑に陥らぬ為目覚めて祈らねばならない。
「雄々しく強く~」。口語訳「男らしく」。新約ではここ一ヶ所しかない。これは戦闘の姿勢である(ヨシュア記1章6、9、18節)。この反対は「臆する」(ヨハネ黙示録21章8節)。
「何事も、愛をもって行いなさい」(14節)。直訳「あなたがたのすべてを愛の中で実行しなさい」(all hings/ of you/ in/ love/ let be)。愛を動機として行動する事で救援募金もその実践である。また同労者への配慮も同じであった(15節)。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」(21節)。筆記者に替わって自らペンを取る。彼はしばしば代筆していた(ガラテヤ6章12節、コロサイ4章18節)。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」。「~見捨てられるがよい」(アナセマ)。(口語訳)「呪われよ」。この訳がよい(12章3節、ガラテヤ1章8節)。呪いも祝福も神がなされる扱いである(申命記12章26節)。
「マラナ・タ(主よ、来てください)」。アラム語で礼拝の時に交わす挨拶用語だったと言われている。このマラナ・タを、「マラン・アタ」(主は来られた)と読むこともできる。そうすると、前者は主の来臨を待望する呼び掛けであるが、後者は聖餐式の時の挨拶となる。
「わたしの愛が、…あなた方一同と共にあるように」(24節)。キリストの体に結ばれた神の教会が、愛と配慮をもって仕え合うことを願う。
22節「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」(新共同訳)
1~4節 エルサレム教会のための救援募金
紀元47~48年にユダヤ地方に飢饉が起きアジア諸教会は救援募金を行った(使徒言行録11章27節)。
2節「わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」。募金の方法から、教会生活が具体的に伺える。既に主の復活日に礼拝が守られていた。教会は一週毎に、各自の収入の中から感謝して、その一部を集めている。
5~12節 旅行の計画
パウロの牧会的な労苦が伺われる。
9節「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいるからです」。五旬節までエフェソに滞在する理由を述べ(5~8節)、コリントに行く気持ちが語られる。反対者とは、グノーシス(主知主義者)だけでなく、彼の使徒職を批判する者や、教会内部のトラブルなどが想定されている。
13~24節 終りの挨拶
「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい」(13節)。「目を覚ましていなさい」は歴史の完成者、主イエスが再臨する終末の日に対する心備え(マルコ13章35~37節、第1テサロニケ5章2~4節)。眠りの状態は無防備で判断が奪われる。誘惑に陥らぬ為目覚めて祈らねばならない。
「雄々しく強く~」。口語訳「男らしく」。新約ではここ一ヶ所しかない。これは戦闘の姿勢である(ヨシュア記1章6、9、18節)。この反対は「臆する」(ヨハネ黙示録21章8節)。
「何事も、愛をもって行いなさい」(14節)。直訳「あなたがたのすべてを愛の中で実行しなさい」(all hings/ of you/ in/ love/ let be)。愛を動機として行動する事で救援募金もその実践である。また同労者への配慮も同じであった(15節)。
「わたしパウロが、自分の手で挨拶を記します」(21節)。筆記者に替わって自らペンを取る。彼はしばしば代筆していた(ガラテヤ6章12節、コロサイ4章18節)。
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)」。「~見捨てられるがよい」(アナセマ)。(口語訳)「呪われよ」。この訳がよい(12章3節、ガラテヤ1章8節)。呪いも祝福も神がなされる扱いである(申命記12章26節)。
「マラナ・タ(主よ、来てください)」。アラム語で礼拝の時に交わす挨拶用語だったと言われている。このマラナ・タを、「マラン・アタ」(主は来られた)と読むこともできる。そうすると、前者は主の来臨を待望する呼び掛けであるが、後者は聖餐式の時の挨拶となる。
「わたしの愛が、…あなた方一同と共にあるように」(24節)。キリストの体に結ばれた神の教会が、愛と配慮をもって仕え合うことを願う。