第Ⅱコリントの手紙第11章
23節「彼らはキリストの奉仕者なのか。私は気がふれた様になって言う。私は[彼ら]以上に[そう]である」(岩波訳)
1節「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」。誇りは主イエスにあることを前の章で確認したパウロはここで少々愚かなようだが、我慢して聞いてほしいという。
「あなたがたを純潔な処女としキリストと婚約させた」が、その後エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなた方が「キリストに対する真心と純潔」を失いはしないか心配であるからだ(2~3節)。
それはわたしが宣べ伝えたのと異なるイエスを教え、受け入れたことのない違った福音をうける事態になっても、我慢しているからである(4節)。
パウロの使徒職を問題にして『エルサレムから来た大使徒たちとは見劣りがして、素人っぽい話し振りをしている』と言われても、わたしは我慢する(5~6節)。
更に大使徒のように福音を告げて報酬を受けるようなことなく、自らの手で働き、無報酬で告げ知らせるからといって罪を犯したことになるのかと反論する(7節)。
生活に不自由した時に誰にも負担をかけて来なかった。支えてくれたのはマケドニア州からの兄弟たちであった(9節)。
パウロを批判する人々はずる賢い働き手で、キリストの使徒を装い誇っているが、これは驚くに足りない。何故ならサタンさえ光の天使を装うからである(13~14節)。
ここで愚かさを誇るとパウロは言う。何故かと言えば「多くの者が肉に従って誇っているからで…」(18節)、「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう」(19節)。「愚か」が新約に37回あるが、このコリントの手紙に20回も出てくる。パウロはコリントの人々と同じ「愚かさ」の土俵で語り合うという。実際にコリント教会は偽使徒らによって奴隷にされ、食い物にされ、横柄な態度に出られても愚か者になって我慢している(20節)。
パウロは22~29節で「わたしも愚か者になって誇る」として身分や経験を縷々述べている。
偽使徒らがヘブライ人だ、イスラエル人だ、アブラハムの子孫だと誇っているが、わたしもそれ以上だ(22節)。キリストに仕えている者だというが、わたしは気が狂ったように彼ら以上にそうだ(23節)。
「気が変になっていう」(パラフロノーン)とは理性を超えるで、「愚かになる」(ハフロナ)の理性がないと似ている言葉である。キリストに「仕える者」(ディコニア=Minister)としての彼の本心がここに示される。
この点では誰もが経験しない数多くの事柄を羅列して告白する。投獄、鞭打ち刑、石打ち刑(23~25節)。難船、漂流、水難、盗賊、裏切り、路上の難(26節)。眠らず、飢え、渇き、寒さ、裸でいる(27節)。働きに関する重荷と心配事(28節)。
使徒言行録では、石打ち、鞭打ちと海難しか出ていない。これはガラテヤ2章1節の「14年間」のことではないかと言われている。
苦難の中で弱さに関わる誇りを一つ取り上げるなら、ダマスコでの出来事を述べようとして32~33節に記している。これは使徒言行録9章23~25節のことと思われる。
23節「彼らはキリストの奉仕者なのか。私は気がふれた様になって言う。私は[彼ら]以上に[そう]である」(岩波訳)
1節「わたしの少しばかりの愚かさを我慢してくれたらよいが。いや、あなたがたは我慢してくれています」。誇りは主イエスにあることを前の章で確認したパウロはここで少々愚かなようだが、我慢して聞いてほしいという。
「あなたがたを純潔な処女としキリストと婚約させた」が、その後エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなた方が「キリストに対する真心と純潔」を失いはしないか心配であるからだ(2~3節)。
それはわたしが宣べ伝えたのと異なるイエスを教え、受け入れたことのない違った福音をうける事態になっても、我慢しているからである(4節)。
パウロの使徒職を問題にして『エルサレムから来た大使徒たちとは見劣りがして、素人っぽい話し振りをしている』と言われても、わたしは我慢する(5~6節)。
更に大使徒のように福音を告げて報酬を受けるようなことなく、自らの手で働き、無報酬で告げ知らせるからといって罪を犯したことになるのかと反論する(7節)。
生活に不自由した時に誰にも負担をかけて来なかった。支えてくれたのはマケドニア州からの兄弟たちであった(9節)。
パウロを批判する人々はずる賢い働き手で、キリストの使徒を装い誇っているが、これは驚くに足りない。何故ならサタンさえ光の天使を装うからである(13~14節)。
ここで愚かさを誇るとパウロは言う。何故かと言えば「多くの者が肉に従って誇っているからで…」(18節)、「賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう」(19節)。「愚か」が新約に37回あるが、このコリントの手紙に20回も出てくる。パウロはコリントの人々と同じ「愚かさ」の土俵で語り合うという。実際にコリント教会は偽使徒らによって奴隷にされ、食い物にされ、横柄な態度に出られても愚か者になって我慢している(20節)。
パウロは22~29節で「わたしも愚か者になって誇る」として身分や経験を縷々述べている。
偽使徒らがヘブライ人だ、イスラエル人だ、アブラハムの子孫だと誇っているが、わたしもそれ以上だ(22節)。キリストに仕えている者だというが、わたしは気が狂ったように彼ら以上にそうだ(23節)。
「気が変になっていう」(パラフロノーン)とは理性を超えるで、「愚かになる」(ハフロナ)の理性がないと似ている言葉である。キリストに「仕える者」(ディコニア=Minister)としての彼の本心がここに示される。
この点では誰もが経験しない数多くの事柄を羅列して告白する。投獄、鞭打ち刑、石打ち刑(23~25節)。難船、漂流、水難、盗賊、裏切り、路上の難(26節)。眠らず、飢え、渇き、寒さ、裸でいる(27節)。働きに関する重荷と心配事(28節)。
使徒言行録では、石打ち、鞭打ちと海難しか出ていない。これはガラテヤ2章1節の「14年間」のことではないかと言われている。
苦難の中で弱さに関わる誇りを一つ取り上げるなら、ダマスコでの出来事を述べようとして32~33節に記している。これは使徒言行録9章23~25節のことと思われる。