ガラテヤの手紙第4章
19節「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(口語訳)。
1節「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく…」。ここで今一度未成年を取りあげるのは、3章24節の「養育係」と関連している。未成年と相続に関する例話はユダヤ人の論証に依っている。父親が定める時まで彼は後見人や管理者の監督のもとに置かれ全財産でも相続は出来ない(2節)。これと同じことが、信仰の場合にも言える。
3節「…未成年であった時は世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」。「諸霊」(ストイケイア)とは、無力で無知な宗教的初歩段階の知識で、水、空気、火、星、太陽などが人の運命を支配し、吉凶禍福をもたらすと考える類である(10節see)。
しかし「時が、満ちると」(マルコ1章15節、第Ⅱコリント6章2節)神は御子を女から律法の下に生まれさせ、律法の支配下にある者を贖い出し神の子として下さった(4~5節)。
6節「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」。だからあなたがたは奴隷ではなく、相続人である(7節)。
今神を知っているのに、あなたがたはあの無力な諸霊(ストイケイア)に逆戻りして奴隷として仕えようとしている(9~10節)。
ここでパウロは個人的な訴えをする(12~20)。
パウロは体が弱くなっていたにも拘らず、福音を伝えたが、あなた方はこの試練をさけずんだり、忌み嫌ったりしないで受け入れて神の使いかキリストのように思って下さった(14節)。これが何であるか定かでないが、第Ⅱコリント12章7節以下に「一つのとげ」とあるが、そのことを指していると思われる。「自分の目をえぐり出しても~」(15節)」からそれは眼疾患であろうとも言われる。
ところがその深い信頼関係は今どうなったのか。あなた方の善意からくる熱心をあの者たち(パウロ批判者)は誤った熱心で引き離そうとしているのではないか(17節)。
19節「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。逆戻りしているガラテヤの人々の為再び産みの苦しみをする。どのように話したらよいかわたしは途方に暮れている(20節)。
22~26節は創世記16、17、21章の独特な比喩的解釈である。律法的立場を打ちくだくには、その精神的支柱であるアブラハムに関わる例証が、最も説得力があった。それは次の二つの系譜にまとめられる。
奴隷ハガル―イシマエル=律法に拘束された人、律法主義者
自由の女サラ―イサク=約束により生れた自由な人、キリストを信じる者。「天のエルサレム」(26節)はキリスト教会を指している。
27節は、イザヤ54章1節の引用で「多くの子を産む」は、ユダヤ人のみでなく多くの異邦人の救いを予表している。
29~30節の比喩は、律法に拘束されているキリスト者に対する厳しい結論である。
19節「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」(口語訳)。
1節「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく…」。ここで今一度未成年を取りあげるのは、3章24節の「養育係」と関連している。未成年と相続に関する例話はユダヤ人の論証に依っている。父親が定める時まで彼は後見人や管理者の監督のもとに置かれ全財産でも相続は出来ない(2節)。これと同じことが、信仰の場合にも言える。
3節「…未成年であった時は世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」。「諸霊」(ストイケイア)とは、無力で無知な宗教的初歩段階の知識で、水、空気、火、星、太陽などが人の運命を支配し、吉凶禍福をもたらすと考える類である(10節see)。
しかし「時が、満ちると」(マルコ1章15節、第Ⅱコリント6章2節)神は御子を女から律法の下に生まれさせ、律法の支配下にある者を贖い出し神の子として下さった(4~5節)。
6節「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」。だからあなたがたは奴隷ではなく、相続人である(7節)。
今神を知っているのに、あなたがたはあの無力な諸霊(ストイケイア)に逆戻りして奴隷として仕えようとしている(9~10節)。
ここでパウロは個人的な訴えをする(12~20)。
パウロは体が弱くなっていたにも拘らず、福音を伝えたが、あなた方はこの試練をさけずんだり、忌み嫌ったりしないで受け入れて神の使いかキリストのように思って下さった(14節)。これが何であるか定かでないが、第Ⅱコリント12章7節以下に「一つのとげ」とあるが、そのことを指していると思われる。「自分の目をえぐり出しても~」(15節)」からそれは眼疾患であろうとも言われる。
ところがその深い信頼関係は今どうなったのか。あなた方の善意からくる熱心をあの者たち(パウロ批判者)は誤った熱心で引き離そうとしているのではないか(17節)。
19節「わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」。逆戻りしているガラテヤの人々の為再び産みの苦しみをする。どのように話したらよいかわたしは途方に暮れている(20節)。
22~26節は創世記16、17、21章の独特な比喩的解釈である。律法的立場を打ちくだくには、その精神的支柱であるアブラハムに関わる例証が、最も説得力があった。それは次の二つの系譜にまとめられる。
奴隷ハガル―イシマエル=律法に拘束された人、律法主義者
自由の女サラ―イサク=約束により生れた自由な人、キリストを信じる者。「天のエルサレム」(26節)はキリスト教会を指している。
27節は、イザヤ54章1節の引用で「多くの子を産む」は、ユダヤ人のみでなく多くの異邦人の救いを予表している。
29~30節の比喩は、律法に拘束されているキリスト者に対する厳しい結論である。