日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

信仰によって…義と認められた

2010-11-24 | Weblog
  ガラテヤの手紙第3章 

 6節「このように、アブラハムは「神を信じた。それによって、彼は義と認められた」のである」(口語訳)

   1節「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」
   十字架による信仰を明確に示したパウロは(2章20節)、律法による救いに惑わされているガラテヤの人々に警告しる。「惑わす」(バスカイノー)は「誑(たぶら)かす」で、十字架のキリストを注視しないために言葉の魔術にかかるのである。「はっきり示された」口語訳「目の前に描き出された」。十字架のキリストは「今、あなたにとって何か」と問い掛ける。「聖霊を受けたのは律法か、福音に依るのか」と今一つだけ確かめたい(2節)。 聖霊によって始めたのに、肉によって完成しようとするのか(3節)。あの恵みの経験は無駄であった筈はない。それは聖霊の様々な賜物を想起すれば判る(4~5節)。
   6節「それは、『アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた』と言われているとおりです」。信仰による約束の担い手アブラハムに実証される。信仰に基づく人々のことを知っている筈だ(7節)。異邦人が信仰により義とされることを神は予め知ってアブラハムに福音を示し、「信仰に生きる人々は…アブラハムと共に祝福されている」と語られたのである(8~9節)。これは創世記12章3節にある。

   逆に「律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている」10節)という言葉で、祝福か呪いかが対比する。ここでもパウロは旧約から引用した。申命記27章26節である。続いて律法を完全に遵守すれば生きるという(レビ記18章5節)。この為彼らは律法(創世記~申命記)、更に613の細則、248の命令、365の禁令を遵守しようとした。しかし律法の呪いから免れることが出来ない。
今イエスが律法違反の呪いから贖い出すために十字架に架けられ、祝福へと変えられたのだと告げる(13~14節)。これも申命記21章23節で論証した。

   15節から神の契約の有効性を述べる。アブラハムに対する契約はそのようなものである(15節)。そこで「あなたの子孫たち(複数)」でなく「あなたの子孫(単数)」と言われたのはキリストを指す(16節)。アブラハムの約束は430年後のモーセ律法契約を反故にするものではない(17節)。キリストが来られる時まで、律法は違反を明らかにするために付け加えられたのである(19節)。
    律法はすべての人を罪の支配下に閉じ込めた。それは神の約束がキリストの信への信仰によって与えられる時までである(22、23節)。律法はキリストのもとに導く「養育係」(パイダゴーゴス=schoolmaster、trainer)で、信仰による義が現われたらもういらない(26節)。
どうして起きたか。それは「バプテスマを受けてキリストに結ばれた神の子となった」からだ(26~27節)。「そこでもはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」。人種、民族、社会的身分、男女の差別を否定した(28節)。そして「キリスト・イエスにおいて一つ」であり、「アブラハムの子孫」「約束の相続人」であると告げた(29節)。